四、過ぎゆく秋と、冬の初め-3

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四、過ぎゆく秋と、冬の初め-3

 十月の悟の誕生日には、携帯電話を買ってやることにした。これでやっと悟は本当に十五になる。  このご時世に中学三年生の息子に携帯電話のひとつも持たせてやらないとは、ネグレクトもいいところだと遼一は思った。  学校からの連絡はどうしていたのかと悟に聞くと、「お手伝いさんが電話を取るから」と興味なさそうに答えていた。  友人らしい友人もない悟には、別段不便はなかったのだろう。確かに遼一自身も仕事でPCは使うが、リアルタイムでやり取りできるデバイスはほとんど必要なかった。悟も同じことかもしれない。 「携帯を持ったら、いつでも遼一さんに連絡できるね」  そう言って、悟は楽しみにしていたようだ。  いくら何でも息子の誕生日くらいは祝うだろうから、遼一はその前日に予定を入れた。中学校の前に車を停めて悟の出てくるのを待っていた。  いつも悟は課業が終わると、俯きがちに、しかし足早に校門を出てくる。遼一も慣れたもので、時間を見計らって車を出すので、最近ではあまり待つことはない。  それが、今日に限って悟はなかなか出てこなかった。陽が傾くのも早いこの頃では、運転席で資料を読むのも楽ではない。  それでもしち面倒くさいロシア語の特許書類を何度か読み返した頃、ようやく悟がやってきた。  「お待たせ」 「おお、遅かったな」  悟は助手席に乗り込むと、慣れた手順で肩のかばんを足下に下ろしシートベルトを締めた。 「うん、何か呼び出されてさ」  遼一はエンジンをかけようとした手を止めた。 「呼び出された?」  いじめが再発したのだったら、すぐさま対応が必要だ。  悟は遼一の顔つきに気づき、慌てて言った。 「あ、別にあいつらじゃないよ。何か、女子」  悟を呼び出したのはあの悪ガキたちではなかった。遼一はエンジンをかけた。 「女子?」 「うん。僕のこと『好き』だって」  なんか最近続いてるんだよね、何なんだろ。  悟は投げやりにそう言って、伸びかけた前髪をいじっていた。 「……そういうとき、お前なんて返事すんの」 「返事のしようがないよ。知らないひとにいきなりそんなこと言われても」 「知らないひとって……」  いつもながら悟の愛想のないことは横綱クラスだ。遼一自身も他人に興味ない方なので、分からないではない。が、自分がこのくらいの歳の頃、こんなに極端だったろうかと記憶を振り返ってみた。  悟の返事はさらに愛想がない。 「知らないよ、見たことないもの」  まあ、自分も似たり寄ったりだったかもしれないが、クラスメートの女子に告白されるなんて僥倖があれば、もう少し柔軟な対応をしたような気もする。 「見たことないのか。同じ学校に通ってるコたちなんだろ」 「うーん、興味ない」  悟はそう言い捨てて、暗くなってきた窓の外に目をやった。  遼一は自分の声に混じる不機嫌さを隠すことができなかった。 「ふーん。よかったな、モテて」  悟は運転席を振り返った。 「よかった? よかったって今言ったの?」   悟の口の端がにゅっと上がった。 「遼一さんは僕がモテて、誰か知らない女子のものになったら嬉しいんだ」  遼一は、部屋のカギを渡したときの、悟の妙に暗い笑みを思い出した。 「誰もそんなこと言ってないだろ」  あのときは力業に持ち込むことができたが、今は運転中だ。その手は使えない。悟は遼一の言葉になど耳を貸さず、さらに言いつのった。  「そうしたらもう遼一さんの部屋には来なくなるし、うるさいのがいなくなってせいせいするだろ。嬉しい?」 「悟、ちょっと待て」 「僕のこと要らなくなったなら、ハッキリそう言って!」  悟は足下のかばんを持ち上げ、それをハンドルを握る遼一の肩にぶつけた。 「悟!」  遼一の茶色のセダンが大きく対向車線にはみ出した。対向車がいなかったのは幸運だった。悟は今の危険運転も目に入っていないのか、興奮が止まらない。 「ハッキリ言えよ! まとわりつかれて迷惑だって。頻繁にやってこられて邪魔だって」  悟が繰り返しかばんを振り回すので、中に入っていた教科書やペンケースが車内に散らばった。その中のいくつかは遼一の顔に、腕に当たり、そのたびハンドルが揺らされた。非常に危ない。 「思い込み激しいガキの相手するのが疲れたって。正直にそう言えよ」  遼一は高速でシミュレーションを回した。  今すぐ脇道に入って車を停めると走行の危険はないが、ひと目がある。またもし悟の気が収まらず、車を降りてどこかへ走り出したら、住宅街のただ中で見失ってしまうかもしれない。  目的地のショッピングモールまで、最後の橋を渡ったところだ。なら、このままショッピングモールの駐車場まで、なるべく早く行き着こう。遼一はそう判断して慎重にアクセルを踏んだ。 「どうせあなたは昔のひとが忘れられないんだ……」  悟の声が湿った。遼一は横目で悟の表情を見た。悟は泣いていた。悟はかばんからこぼれ落ちた教科書を一冊拾い、それを遼一に投げつけた。 「そこのぽっかり空いた穴を、僕で埋めようとしたんでしょ。でも、どうせ僕じゃ駄目なんだ」  悟はもう一冊教科書を拾って振り上げた。遼一は運転中の自分の視界を庇おうと左腕を挙げた。本は飛んでこなかった。悟の声が震えた。 「ハッキリ言ってよぉ」  悟の咽から泣き声が漏れた。この声。遼一の胸の深いところをえぐる。悲しい、心細い、冬の雪原にこだまする孤独な獣の遠吠えのような、悟の泣き声。  こんなになって泣き声を上げるこの子供を、抱き上げてあやしたものはいたのだろうか。  遼一は初めて会った頃の悟の瞳を思い出した。感情という感情をひとつも映さないガラス玉のようなあの瞳。  物心ついてから、この子は、きっと、泣くこともなかったのだろうと遼一は思った。周囲の全てに絶望しきって、何を表現することも諦めていたのに違いにない。何の感情も表さず、何にも期待せず。  ただ黙ってガラス玉に世界を映して生き延びてきたのだ。  悟の泣きじゃくる声が大きくなった。 「『お前なんか嫌いだ』って!」  莫迦だし、子供すぎるし、男だし。  悟の咽から絞り出すような声が漏れる。  遼一は対向車の切れ間を待って、ハンドルを大きく右に切った。目的のショッピングモールに着いた。遼一は広大な屋外駐車場を尻目に屋内駐車場への入り口を探した。上層階を目指し、車がガクンと上り坂に入った。 「僕なんかじゃ駄目なのに……」  悟は手にした教科書を遼一の膝に投げ当てた。 「どうせ僕のことなんか好きじゃないくせに」  ひどいよ。泣き声の合間にそう呟く悟の唇を遼一はキスでふさいだ。  屋内駐車場の隅に頭から車を入れ、遼一は次の教科書をつかんだ悟の手首をつかみ身体を引き寄せた。 「離せ。離せよ! 嫌いだよあんたなんか」  悟は首を振って逃れようとしたが、構わず遼一はもう一方の手で、悟の背中を優しくさすった。抵抗が止んだ。  小さな声で悟は言った。 「ごめん……」  遼一は悟の身体を自分の胸に抱き寄せた。背中をさする手を止めることなく。  そのまま遼一は数分じっと悟を抱いていた。 「悟……、大丈夫か?」  しばらくして遼一はそっとそう聞いた。悟の咽がひくっと鳴った。遼一はを悟を警戒させないよう気をつけながら、ポケットからハンカチを取り出した。  泣き声は止まっていた。遼一は静かに悟の身体を胸から離し、頬の涙を拭いてやった。  鼻の頭を赤くして、悟は遼一に小さな声で謝った。 「……ごめんなさい。僕、ひどいこと言った」 「悟……?」  遼一は悟の頬を両手で包み込んだ。悟の目からまた涙がつーと流れた。 「コワイ」 「悟?」 「怖いんだ」  遼一は悟の頬をそっと揺すった。 「何が怖い?」  遼一はささやくようにそう訊いた。この子を脅かすものは、すべて俺が排除してやる。遼一はすでに心の中でそう決めていた。  悟の目からはまた涙がこぼれた。遼一がハンカチで拭うそばから、また。  悟は無言でしばらく泣いていたが、ごくりと唾を飲み込んで、言った。 「遼一さんに嫌われるのが怖い」 「悟……?」  悟は両腕を遼一の背に回した。 「遼一さんに棄てられるのが怖い」  悟は遼一の身体に回した腕に力を入れた。 「もう要らないって言われるのが」  言葉が途切れた。悟の白い咽が鳴った。 「……言わないよ」  遼一は抱きしめる腕に力を入れ、悟の身体をわずかに揺らした。悟も大人しくされるがままに抱かれていた。 「うん、知ってる。遼一さん、僕のこと、好きだよね。大事に思ってくれてるよね。知ってる。充分分かってるんだ。なのに」  悟の咽がまた鳴った。 「遼一さんのこと好きになればなるほど、怖くなる。僕なんか好いてもらえるはずないって」  悟の唇から嗚咽が漏れる。 「僕を愛してくれるひとなんていないって、僕の後ろで誰かが言うんだ……!」  悟は大きく首を振った。恐怖を振り払おうとでもするように。 「いつか遼一さんが僕を置いてどっか行っちゃうなら、それを待ってなきゃならないんなら」  悟の両手は、遼一の上着を握りしめて震えた。 「息ができなくて死んじゃいそうだ。苦しくて苦しくて」  悟の膝が、肩が震えていた。 「こんなに苦しいならいっそ早く嫌われちゃえって声がするんだ」  遼一は恐怖に震える悟を、その震えが止まるまで抱きしめた。  「誰がそんなこと言うんだ。迷惑な声だな」  遼一はふっと笑ってこう言った。 「お前、そんな誰かも分からないヤツと俺と、どっちを信用するんだ」  遼一が冗談めかしてそう問うと、悟はようやく小さく笑った。  誰がそう言うのか。  それは自分は誰からも愛されないと全てを諦めた悟自身の呪詛だ。  遼一が悟をそこから救い出すには、悟自身と戦って勝たなくてはならない。
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