四、過ぎゆく秋と、冬の初め-4

1/1
前へ
/43ページ
次へ

四、過ぎゆく秋と、冬の初め-4

 誕生日当日の夜、悟からの着信音が鳴った。普通の挨拶のような悟のしゃべりに違和感があり、遼一は「顔を見せて」と頼んだ。  画面の向こうの悟はひどく淋しげで、遼一は当日を自宅に帰したのは間違いだったと気づいた。 「すぐに行く」  悟にそう言い置いて、遼一は車を飛ばした。  いつものコンビニの角で待っていると、右手の細い道から悟が出てきた。  遼一は車の窓を開けた。悟は真っ直ぐ運転席に走ってきた。 「来ちゃったよ」  ははは、とあえて遼一は笑った。悟もにっこり笑おうとした。が、笑みになる前にくしゃっと頬が歪んだ。 「見てよこれ。商品券だよ」  悟は手にした紙片を振った。信販会社発行の商品券が数枚、悟の手に握られていた。 「食堂のテーブルに置いてあった。佐藤さんが、バツの悪そうな顔をしてた。誕生日おめでとうございますって。お母さまからですよって」  遼一は腹の底から怒りを感じた。そんな伝言を息子に告げるよう言いつけられたお手伝いさんも気の毒だ。そしてきっと父親もまた不在なのだろう。  悟は歌うように続けた。 「いっそ忘れててくれたなら、こっちも忘れてあげられるのにね」 「悟……」  悟は続けた。 「昔から、あのひとは秋から冬にかけてとくにひどいんだ。ここ数年、これからの季節は部屋から出てこない。毎年のことだから、分かってはいるけど」  遼一は悟にどんな言葉をかけたらよいか分からなかった。母は本当に体調がよくないだけかもと言ってみるか。それともそんなこと気にするなと励ますか。  いや。遼一にはどれも違う気がした。 「僕はこれでも家に帰らなきゃダメなの!?」  黙ったままの遼一に、悟はそう叫んだ。 「誰もいない、誰も僕を見てない、誰も僕に話しかけない、そんな家にいなくちゃダメなの?」  犬を連れた初老の女が悟の後ろを通り過ぎた。遼一は女の視線を感じた。狭い街だ。  遼一は答える代わりに助手席を指差した。  悟は助手席に乗り込んだ。 「もういいよ。どうせこの世界は透明なクラゲばっかりだ」  悟は助手席に深く沈み込んで投げやりに言った。 「みんな透明人間なんだ。僕の姿だって誰にも見えやしない。遼一さん、僕が見えてる?」  そう言って、悟は遼一にガラス玉のような目を向けた。コンビニの明かりが逆光になって、悟の片目の端をきらめかせた。美しいが悲しい、弱々しい光だった。 「僕は本当にここにいる?」  遼一は悟の瞳から目を離せなかった。悟は呟き続けた。 「遼一さんの部屋にいるときだけ、世界は確かに存在しているって信じられる。遼一さんがそばにいてくれるときだけ、僕がこの世に生きているって感じるんだ」  遼一は店舗の明かりの届かない陰で悟の右手を握った。  生きてくれ。ガラス玉のような死んだ瞳に戻ってしまわないでくれ。  どんなひどい環境からだって、生きてさえいれば脱出できる。そこから自分の生きたいように生きることができる。遼一自身がその証明だった。  誰にも煩わされず、経済的に自立して、この歳までダラダラと大学に籍を置いて、恩師に追い出された先にも不満なく。  そうして、この子と出会った。  淡色だった自分の世界に色が灯った。  こちら側の世界に、引きずってでも連れ出してやる。 「あと半年だけガマンしよう。な? とりあえず今日はウチに帰れ。ちょっとだけ勉強して、とっとと寝てしまえ。そうすれば朝になる」  なのに、自分が悟に与える言葉は、こんな陳腐なものでしかない。違う。俺はこんなことをこの子に伝えたいんじゃない。  だが――。 「誰もいない家に帰るのはもうイヤだよ……!」  悟は遼一の手を振り払ってそう叫んだ。  握りしめた商品券を放り投げ、車内にまき散らした。 「遼一さんはひとごとだからそんな風に言えるんだ。本当にイヤなんだよ、あの辛気くさい家にいるのが」  遼一さんは僕のこと好きなんじゃないの? 僕のこと、大事に思ってるんじゃないの?  悟は矢継ぎ早に遼一を責めた。 「僕のこと好きなら、どうして僕にイヤなことをさせるの。どうして助け出してくれないの」  悟は遼一の肩を何度も叩いた。 「どうしてあんな家に帰そうとするのさ。やっぱり僕のことなんか邪魔なんだ。だから僕を泊めてくれないんだ」  大っ嫌いだ、遼一さんなんか。  吐き出すようにそう悟は叫んだ。  叫びながら、明かりの陰でその手は遼一の手を探していた。指が触れ合った。悟の細い指が遼一の指にそっと絡まり、握りしめた。 「帰りたくない。遼一さんのそばにいたい」  悟はもう一方の手で目尻を拭った。  誕生日に息子にそんな冷たい仕打ちをする親なら、それはもはや親ではない。  この子は俺が引き取る。  遼一は口を開いた。 「悟。分かってると思うけど、あえて言うよ。俺も悟のこの手を離したくないよ」  悟の指がぴくりと動いた。 「毎晩一緒にメシ食って、わあきゃあ言いながら皿を洗って、順番に風呂に入って。悟の身体を隅々まで可愛がって、毎晩声がかれるまで泣かせてやる」 「遼一さん……」  悟の声がうわずっていた。その手の温度がふっと上がる。 「な? 本当はまだ早いんだよ、そんなこと。お前は今日やっと十五になったばかりなんだから。」  涙声で悟は言った。 「あと三年待てって? そんなこと言われたら、僕死んじゃうからね」 「分かってる」  遼一は握った手を振った。 「俺だってもう待てない」 「遼一さん」 「けど、今日は帰ろう。な? お前親と話してないだろ? お手伝いさんももう帰ったよな。何も言わず外泊なんかして、お前がいないことに気づいた家のひとに通報されたりなんかしたら、本当に俺たちもう会って話すことすらできなくなる」  それだけは、俺、困るんだ。  遼一は悟の生きて輝く瞳にそう言った。これが愛の言葉だと、幼い悟に分かるだろうか。  悟は遼一にうなずいて見せた。安心したような、甘えたような笑みだった。  それからも悟は、些細なことで暴れては泣くことを繰り返した。  遼一が何度なだめても、何度抱きしめても、それはまた起こった。  暴れているときの悟はほとんど五歳児のようで、ただただダダをこねて叫ぶ、ものを投げる、泣く。遼一が抱きしめてしばらくあやしていると落ち着くのも、毎回同じだった。  悟の理性は、自分が遼一に深く愛されていることを理解している。なのに、悟言うところの「後ろの声」が悟の不安を駆り立てるらしかった。   今日片付ける分の作業を終え、遼一はPCデスクで本を読んでいた。コーヒーが飲みたいと思った。咽が渇いていた。遼一はマウスを指先でつついてPCを目覚めさせ、時間を見た。  平日の昼間にひとりで図書館へ行き、参考になりそうな本を数冊まとめて借りてきた。  何をどう調べれば悟を、彼自身がかけた呪いから解放できるのか分からなかったが、研究者の端くれを十年やってきた身だった。心理学と精神療法の棚からピンと来たものをとにかく借り出した。  PCのモニターの脇にそれらを積み上げ、上から順に読み始めた。二冊目で「これか」という事象を発見した。 「お試し行動」というのがそれだった。  被虐待児が、見かけ安全な場所に連れてこられてしばらく、自分の存在はどこまで許されているか確認するため、暴れたり、ものを壊したり、盗んだりして、新たな養育者の覚悟を試す。 (これだ……!)  被虐待児――。  悟の、理性では抑えきれない不安の構造は、これだ。  自分は愛されない。  愛されたかのように見えるこの状況は、壊れることが前提だから、それがいつ来るか、今日か、今か、タイミングの問題に集約してしまう。失うことへの恐怖が悟を駆り立てる。  処刑が決まっている十三階段を、一歩また一歩とゆっくり登っていくのは怖かろう。ならいっそ一気に駆け上がってしまいたくなる。  普段の悟は論理的で、筋道を立てて思考するタイプだ。だからこそ、全く理性の及ばない部分、自分のコントロールの利かない恐怖と、折り合いをつけることに慣れていないのかもしれない。 「自分は愛されない」という公式を否定できればいいのだろうか。それも、理性の部分ではなく、心の深い深いところで。そんなことができるのだろうか。  恐怖も感情のひとつだ。何も感じないことにしていた悟が、遼一を愛することで自分の感情を取り戻したなら、それはそれでよいことだ。前進だ。だが、この恐怖は大きい。  遼一は立ち上がり、台所で水を飲んだ。悟の淹れてくれるコーヒーが恋しかった。  遼一に愛されたくて一生懸命に、笑ったり、話題を探したり、コーヒーのおいしい淹れ方を研究したりする悟が可哀想でならなかった。  そんなにしても、自分の中の恐怖に苛まれ続けて。  そんなにしなくても、もう充分遼一は悟を愛しているのに。  春に見た、悟のガラス玉のように表情のない瞳を思う。あれはあれで美しかった。  だが、あまりに悲しかった。  感情という感情をすべて抑え込み、押し殺してしまった者の瞳だった。  遼一は遠い昔、そんな瞳を見たことがあった。  美しい、悲しい、無感動な瞳を見つめていると、遼一はいてもたってもいられなくなる。  何とか感情を取り戻して欲しくて、ガラスの奥に感情を探してしまう。どこかに眠っている感情を解放してもらうには、どうすればいいか、オロオロしてしまうのだ。  してみると、遼一自身、心に傷があるのだろう。  感情のない人間に、あの瞳に、敏感に反応してしまう、心の傷だ。  この傷には形があって、カギとカギ穴のように、互いにピッタリはまってしまう。  あの子の傷を治してやりたい。  遼一は、とにかく悟が安心できるまで、ただひたすらに愛してやろうと誓った。  遼一は再びPCを起こして時計を見た。もうすぐ悟がやってくる。  おいしいコーヒーを淹れてもらおう。「おいしい」と褒めよう。腕が上がったなと笑ってやろう。そしてたくさんたくさん、抱きしめてやる。  十五年分の愛情を注ごう。  台所のすりガラスの向こうで、トン、トンと軽い足音がした。
/43ページ

最初のコメントを投稿しよう!

115人が本棚に入れています
本棚に追加