四、過ぎゆく秋と、冬の初め-6

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四、過ぎゆく秋と、冬の初め-6

 ショッピングモール内のハンバーガーショップは、思いの外空いていた。 「俺はね、こうやって悟にリクエストするよ、俺が悟にして欲しいことを、言葉で。そしてそれを聞き入れるも聞き入れないも、百%悟の自由だ。その結果で、俺が悟を好きな気持ちが変わることはない」  注文したものを頬ばりながら、ふたりは小さなテーブルで向かい合っていた。  親と心理的な交流が乏しく、友人も作らなかった悟には、人間とのつき合い方、コミュニケーションの基本が抜けている。それをひとつずつ伝えていこう。  そしてそれは、遼一自身にも役立つはずだ。遼一にしても、充分な量のひとづき合いを経験してきたとは言えなかった。面倒ごとからはすべからく遠ざかって生きてきた。ふたりの何とよく似ていることか。 「僕の……自由……」  悟は呟くように遼一の言ったことを復唱した。 「そう。自由だ。さっき俺は悟に『もっと普通にワガママを言って欲しい』とリクエストしたけど、そう言われた悟が、俺に甘えて何かをせがんでくれても、また俺に腹を立てて暴れても、どっちを選ぶのも悟の自由だよ」  どっちを選んでも俺は悟を愛してる。結果は同じだから、悟がどちらを選びたいかだけ。 「僕は、選んで、あんな風になってるのかな」 「どうだろな」  感情を暴発させているのは無意識のプロセスだから、「選んでいる」としたら行為の主体を無意識に明け渡しているところだ。が、これを説明されても悟は理解するか、それが悟のプラスになるかどうかは分からない。  才気活発な十五歳と、ダダをこねる五歳児を行ったり来たりする悟の姿もまた愛らしいのだ。 (いかんいかん。「共依存」となってしまう)  遼一は最近増やした語彙でそう自分を戒めた。  しょせん、自分には、悟がどうであっても可愛いのだ。 「じゃあさ、悟は俺にどうして欲しい?」  遼一は話題を変えた。 「え?」 「悟から、俺にリクエストはないか」  意味をよく呑み込めていない様子の悟に、遼一は「何か、して欲しいことはないかってことだよ」とつけ加えた。 「して欲しい……こと……」  悟は頼んだ紅茶をひと口飲んで考え込んだ。遼一は悟の答えを待った。悟は紙コップを握りしめて黙っていた。  やがて、悟は口を開いた。 「僕を、ずっと、好きでいて欲しい」  悟は下を向いた。 「もう、それだけでいい」 「悟……」 「あ、でも」  悟は慌てて続けた。  「先のことなんて、誰にも分からないよね。ひとの心は変わるものだし、状況だって変わる。だから『約束』なんて無理なんだ。それは知ってる。だけど……」  悟はそこで言葉を切った。気持ちがうまく乗る言葉が、指の間からすり抜けていくあの感じ。悟はそれを捕まえるのを諦めたのか、首を振った。 「……何て言ったらいいか、分からないや」  悟は力なくコップを握った指を解いた。遼一はその指先に触れた。  「それ、本で得た知識だろ、先のことは分からないとか、ひとの心は変わるものだなんて。実地で試したことないよな」  悟はハッとした顔で遼一を見た。 「試してみないか、俺と、一緒に」  悟の目から大粒の涙があふれ、テーブルにパタパタと落ちた。 「俺も、誰ともつき合ってこなかったから」  自分の部屋でだったら、この震える細い肩を引き寄せる。震えが、涙が止まるまで胸に抱いていてやるのに。遼一は指で涙をそっと拭ってやることしかできなかった。小さな白いテーブルの下で、互いに触れ合う脚の体温を感じるのがやっとだ。 「今まで、誰かと何かを試してみたいなんて、思ったこともないけれど」  自分の存在が、誰かの人生と交わり、反応して変化することなんてないと思ってきたけれど。  悟の咽がひくっと鳴った。震える肩が大きく上下した。遼一はテーブルに肘を着いた。多分今自分は大甘な笑顔を浮かべていることだろう。 「そんな可愛い泣きべそだったら、俺、ずっと見ていられる」  いや、ずっと見ていたいんだ。 「遼一さん……」  悟は唇を噛んでこらえていた。きっと遼一の部屋でなら、大泣きしていたことだろう。本当に、よく泣く子だ。これまでの一生分、十五年分、存分に泣いたらいい。十五年分泣き終わったら、あとは笑うだけだ。  悟は遼一に手渡されたハンカチで顔を拭った。 「もう帰ろう」 「悟?」 「帰ったら、僕を抱いて。僕、身体をキレイにするから。そしたらふたりでセックスしよう。僕が泣いちゃうくらい、気持ちよく、して」  遼一は肘を浮かせて絶句した。悟は濡れた瞳のまま赤い唇を歪め、 「さっきの『演技指導』の仕返し」 と意地悪な笑みを浮かべた。  遼一は、この子供に、また新たな武器を与えてしまったのだった。自分の胸を真っ直ぐ撞く、破壊力バツグンの新たな武器を。  まあ結局、こうして鼻面をつかまれ振り回されるのも、遼一には嬉しいことなのだった。 (処置なしだ)  遼一は自身の甘さに匙を投げた。  悟にそんな反則のような甘えられ方をして、遼一は飛んで帰ってその通りにしたかったが、夕食の材料は買って帰らねばならない。  遼一と悟は、まるで新婚夫婦のように「あれが食べたい」「これもいい」と食料品売り場を練り歩いた。  悟はあまり胃腸が丈夫でない。食べたがっていても、食事どきにはあまり食べられなかったり、量もたくさんは入らない。遼一はその分、多少値が張ってもうまいものを食べさせたかった。  結局悟の好きな鶏肉と野菜をあれこれ買い込み、駐車場へ向けて長いモールを歩いていると、悟が立ち止まった。 「あ」 「ん? どうした?」  悟の視線の先には、ひと組の親子連れがあった。 「父さんだ」  四十代の父親と、それよりちょっと若い、多分三十代後半の母親。ふたりの手には、よちよち歩きの小さな子供がつかまっていた。 (あれが、悟の父親……)  中肉中背だが、ポロシャツの胸許からは、がっしりとした筋肉質の身体つきが見て取れた。  日灼けした健康そうな肌の色も、悟とはまるで似ていない。骨張ってか細い悟の身体の半分がこの男の遺伝子で構成されているとは、どうにも不思議な感じがした。  連れ立って歩く女は、長い髪を後ろで束ね、化粧っ気なく快活な感じがした。両親の手にぶら下がって甘える子供も、小さいながらもしっかりした骨格で、この両親から産まれたことに違和感はない。  悟はよほど母親似なのだろうと遼一は思った。自分に似ていない子供を愛せない、親の病理もあるかもしれない。 「悟……?」  遼一は悟を振り返った。悟は心配気に自分をのぞき込む遼一を安心させるように、ふっと笑った。 「別にショックじゃないよ。前にも見たことあるもん。これで三回目かな。狭い街なのに、不用意だよね。隠す気もないんだろうね。声かけるほど野暮じゃないけど……」  悟の目が、脳内でたくさんの計算プロセスが回っていることを表してくるくる回った。いたずらっぽい笑みとともに、悟は言った。 「……かけちゃおう」  悟はつかつかと親子連れの方へ歩き出した。  その手にぶら下がって甘える子供を、とろけるような笑顔で見下ろす父親っぷりに、遼一は軽い憎悪を覚えた。  その愛情の何割かでも、悟に分け与えていてくれたら。悟はあんな風に死んだ目をして、この世の全てから隔たった暗い世界を生きては来なかったのだ。  遼一は少しの距離を開けて後を続いた。 「父さん、こんにちは」  悟がそう声をかける前に、父親の方は近づいてくる息子の姿に気づいていた。驚いたようなうろたえたような表情を浮かべ、家族を庇うように仁王立ちになった。  悟は優しげに微笑んだ。 「隠さなくていいよ、僕知ってたよ」  父親は、観念したようにうなだれて、そして再び顔を上げた。家族に何か告げて、「妻」の背を軽く押しやった。 「妻」は悟にわずかに会釈をして、小さな子供の手を引いた。遼一は、悟がこの往来で暴れ出しても、すぐ止めに入れる距離に控えた。 「悟……」  父親は、息子の名を呼んだ。呼ばれた息子は、うなずいて言った。 「父さんにだって、幸せになる権利あるもんね。だって、母さん。……あのひとじゃさ。分かるよ僕だって男だし」  訳知り顔でうなづく中学生。確かに嫌な存在だろう。父親は居心地悪そうに身じろぎした。  悟は母親が子供を遊ばせている休憩テーブルに目をやった。 「可愛い子だね。あの子が大きくなる頃には、いつも一緒にいてあげられるようになってたいよね。僕、父さんを応援してあげるよ」 「悟?」  父親は、息子が何を言わんとしているのか、警戒の色を浮かべた。悟はまた数度うなずいて言った。 「分かってる。事業はプライベートとは別だ。でもね、細かいことを気にするひとたちも、いるんじゃない?」  悟は数歩歩いて立ち止まり、父親を横目で振り返った。 「僕は大人になっても、お祖父さんや父さんの事業に関わろうとは思ってないよ。でも、いざってとき、直系の僕が賛成してるって、それなりの意味があると思うんだよね」  頭の固い古株のひとたちが、まだまだいるんでしょ? 番頭さんや、家老みたいなひとたちが。そのひとたちの世界観では、僕はまだまだ「若君」だ。悟は笑いながら、歌うようにそう言った。 「どういう意味だ。……交換条件は何だ」  うなるように父親はそう言った。 「ふーん。さすが経営者。読みが鋭いね」  悟はまたおかしそうにクスクスと笑った。遼一は先ほどの悟の豹変ぶりを思い出した。悟は小悪魔モード全開だった。 悟は振り返り、父親を正面に見据えた。 「そう、いざってとき、僕は父さんの味方をする。その代わり、父さんも僕の味方をして欲しいんだ」  悟は遼一の方へ目をやった。 「僕ね、中学を出たら、彼と暮らしたいの」  今だって僕、あまり家にはいないんだよ、あなたは知らないだろうけど。  そう、彼の部屋でご飯食べたり、勉強したり、本を読んだり、いろいろね。  彼はね、十年続いたいじめを解決してくれたし、教員の当たりが悪くてサッパリ理解できなかった英語を一から鍛え直してくれた。  知らなかったでしょ?   僕がそんな問題を抱えていたなんて。  そうだよ、病院へ行くほどのケガだってした。いつも体中アザだらけだった。  英語だって、高校は進学校ムリそうだった。進学校へ入っておかないとさ、遠くのそれなりの大学に入らないと、家から出られないと思ってたから。  本当に困ってたんだ。  細かいことは言いっこなし。道徳的に多少アレなのはお互いさまなんだしさ。少なくとも僕たちは純愛だから。引き替えにする財産や地位なんて何もないし、妊娠だってしない。  どうかな、取引は成立する?  
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