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一、川辺-3
遼一の記憶と同じ場所に、中学校がまだあった。
平日の午後、制服にコートの子供たちが、次々に通りへ吐き出されてくる。特に意味はないが、遼一は車を停めた。
気にならないと言えば、嘘になる。
親にも隠して、ひとりで耐えている、無表情な瞳。
遼一は優しい人間ではない。
ひとは誰も、各自の物語をひとりひとり勝手に生きていると思っている。物語はときに交差しても、ひとの物語を他人がどうこうはできない。彼の苦悩は彼のものだ。解決するのも、別の路線に乗り越えるのも、回避するのも本人の選択で――。
だから遼一は、次々と出てくる中学生の群れにあの少年を探す自分に、行きがかり上やむを得ないと言い訳しているのだ。あんな現場を目撃してしまったのだからと。
ハンドルにもたれて数分経った。さすがに莫迦らしくなり、遼一は身体を起こした。エンジンをかけようとしたその瞬間、グレーのコートが敷地から出てきた。
俯きがちに早足で歩いていた。まだ冷たい春の風が、先日の茶色のマフラーを、くせのない髪を吹き上げる。何かから逃げるようなその歩みに、遼一は思わず車を降りた。
遼一が声をかけるより先に、少年の方が遼一を見つけた。小走りに駆け寄ってきてこう言った。
「すみません、少し乗せてもらえませんか」
遼一は軽く驚きつつも、助手席を手で示した。少年は素早く乗り込んできた。遼一は車を出した。
声は小さかったが、発音は明瞭だった。先日の、舌足らずの幼い物言いとは随分違う。やはりあれは恐怖と緊張から解放された放心だったのか。
左後ろへ過ぎ去っていく中学校から、あのときの連中が出てくるのが見えた。こちらを指差して何か言っていたようだ。間一髪だった。
遼一は、胸を押さえて呼吸を整えている少年を横目で見ながら言った。
「知らないひとの車に、そんなに簡単に乗っていいのかい?」
少年は意外なことを言われたように目をみはった。
「知らないひとじゃないです。知ってます」
思いもしなかった、真っ直ぐな瞳だった。胸を撞かれた。遼一が答えられずにいると、少年は目を伏せた。
「あ……でも、ご迷惑でしたよね。すみません。そこで降ろしてください」
こんなにひとを信用しやすいなんて。都会では考えられない。育ちがいいのか、地方都市の治安がよすぎるのか。この子供は、この純粋さで、ひどいいじめに遭っている。
遼一が反応しないので、少年は訝しむように首を傾げた。
「あ、あの……」
「確かに初対面ではないが、俺が君にとって安全な人間かどうか、君はまだよく知らないだろう。俺も、君が俺にとって安全な人間がどうか知りたくもある」
家庭や学校の外に、セイフティスポットがあるのとないのでは、天と地ほどの開きがある。この子供の成長の一過程にセイフティスポットを提供してやってもいい。
どうせ気儘なひとり暮らしだ。仕事ものんびり、案件数も多くはなさそうだ。
「どうだろう。俺、この街は久しぶりで、どこに何があるか分からない。とりあえず何でも揃うスーパー、大きめの本屋、ホームセンター。それから、旨いコーヒーの飲める店を教えてくれないか? ああ、最後のは無理かな」
遼一は、もちろんこれから君に用がなければ、と付け加えながら赤信号で車を停めた。
こんな風に、ひとを誘ったのは何年ぶりだろう。
強面だった遼一は、向こうから慕われることはあまりなかったし、研究内容もひとりでコツコツと積み上げる分野だったから、ひとと関わる必要がほとんどなかった。本業の株取引は案外時間を食うもので、ひとと交流している間に値が動くと思うと、可能な限り早く自宅へ引き上げるのを習慣としていた。
信号が変わる前に、遼一は助手席の少年を振り返った。
少年は遼一を見上げ、こくりとうなづき、笑顔の形に口の端を少し上げた。
「嫌がらせ、されてるの?」
いじめという言葉を慎重に避け遼一は聞いた。
市内周縁部を環状につなぐ道路沿いのコーヒーチェーンは、ひとの出入りもゆっくりで、スタッフの動きものんびりしていた。都会と最も異なるのは、席と席の間隔だ。隣の席の会話が気にならない。コーヒーショップとはこうあるべきだ。
カップの表面に浮いた泡がゆらゆら揺れるのを見つめたまま、少年は無言だった。
少年は名前を篠田悟と言った。多少ぎくしゃくとした自己紹介を交わすのも、日頃ひとと交流しない遼一には新鮮だった。
「しのだ」という音が何とはなしに言いにくく感じて、遼一は名前の方で呼ぶことを許してもらった。取引条件として、遼一も、姓の村上ではなく、名前を呼んでもらうことにした。その方が、セイフティスポットたるべく、日常生活から区切るのにかえって有効かもしれない。
「言いたくないなら、無理には聞かない」
遼一は話題を変えた。
「いやあ、富○堂の本店が閉まっちゃってたのは驚いたな。君のおかげで、無駄足を運ばずに済んだよ。この通りに一軒広い店が残っててよかったけど。やっぱり今や、買いものは車なんだなあ」
「金」
下を向いたまま悟は言った。
「え?」
「『金寄こせ』って」
そこまでエスカレートしていたか。
「それで?」
尋問口調にならないよう、細心の注意を払って遼一は尋ねた。貝が安心して口を開けるよう、穏やかに、暖かく。
「出さないと殴られるんです」
声は震えているが、無表情だった。他人事のように客観的でいようと、感情を切り離そうとしているのだろうか。
「いつから」
「『金』って言われるのは去年から。だけど、殴られるのは、もうずっと」
「『ずっと』って?」
始まったのは、いつ? 遼一は自分の口調が優しく聞こえているように願いながらそう聞いた。
「もうずっとです。幼稚園の頃から、かな」
それは。関係性をリセットできる転換点をとうに越している。遼一は冷めてきたコーヒーをぐびりと飲んだ。
これは厄介な案件だ。遼一は関わったことを後悔しているか自身に問うた。いや、通りすがりの大人として、セイフティスポットを提供する程度、自分の処理能力の範疇に充分収まる。尻尾を巻いて逃げるまでもない。計算結果を確認して、歩を進めた。
「君の周りの大人は、それを知らないの? たとえば、ご両親とか、先生とか」
遼一にそう聞かれた悟の反応は意外なものだった。
悟は、笑ったのだった。くすくすと、楽しそうに。
ふたりの座る窓際の席を、車のライトが横切った。遼一は目を細めた。少しして、扉の開く気配がした。シュッと外気の冷たさが過ぎった。
「遼一さんって、いいひとですね」
嬉しそうに悟は目を伏せた。
気づくと、この子はいつも下を向いている。真っ直ぐな前髪が額に揺れる。遼一はまためまいのような記憶の奔流に襲われる。悟。この子も白い肌をしている。塔に幽閉され陽に曝されることのない姫君のように。
「大人をからかうんじゃないよ」
いささか憮然として遼一は言った。沈黙の数秒間、悟の姿の向こうに深い記憶を遡っていたことを知られまいと。
「君ん家には、ご両親は揃ってるの?」
「はい」
「お父さんは、君が連中に殴られたりすること、知ってる?」
悟は黙って首を振った。
「じゃ、お母さんはどう? 幼稚園の頃からなら、君がケガして帰ってくるの、ずっとどう思ってきたんだろうか」
「知りません。僕は彼女じゃない。分かりません、彼女が何を考えているかなんて」
悟は無表情のままそう答えた。
(「彼女」ときた)
遼一は舌を巻いた。幼げに見えたと思ったら、妙に大人びたことを言う。生意気盛り、背伸びをしたい年頃だ。だが遼一は、そう言い放った悟の瞳にヒヤリと冷たいものを見た。
ここにも不幸な子供がいる。
「周囲の、誰か大人に知らせるべきだ。いつ、誰に、何をされたか記録を採って。それを元に大人と一緒に交渉するんだ。もうこんなこと止めてくれって」
悟は再び目を伏せた。カップを傾けコーヒーの上に浮かんだ泡を唇で受けた。カップを握る指が細かった。唇についた泡を舌で舐めとる一瞬も、不思議と下品に感じられない。
背後でスタッフが交代の挨拶をしている。夜番の子たちが出勤してきたのだろう。
「もし話せるひとが誰もいないなら」
遼一はカップに残ったコーヒーを飲み干した。
「僕に話すといい」
何ができるか、一緒に考えてやるのか。両親や学校へ告発するのを勇気づけるのか。いじめっこたちを同じ暴力で懲らしめるのか。ただ聞いてやり、せめて感情の放出を促すのか。いずれにせよ、遼一が制御できないことではなかろう。
「ありがとう……ございます」
悟は目許をふっと赤くして、笑った。
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