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五、銀鎖-6
「さあ、それであなたはあの子をどうしたいの」
純香は平板な口調で繰り返した。
玄関を出ていったのが悟かどうかは分からなかった。二階の自室にもいなかった。
「分かってたのよ。あの子は誰かに夢中になってる。今日やってくる相手がそう。持たせたはずのない物を持ってるし、見たことのない服を着てる。だから少なくとも相手はあの子より歳上で、生活力のある社会人。そう思ってたわ。その通りだったわね」
まさか、あなたがやって来るとは夢にも思わなかったけど。
純香のその言葉に、遼一はセーターを、中のシャツごと握りしめた。
純香は続けた。
「どんなにインモラルな関係でも、あの子が幸せである限り、あたしは許すつもりでいたわ。どのみち、あたしにとやかくいう資格なんてないんだし」
自嘲するように純香は薄く笑った。そうして、遼一が口を開くのを待っていた。
(悟が、俺の「息子」……)
胸を張って父と名乗ることは一生できない。だが。
(叔父と甥だ)
実の両親とそりの合わない甥を、手許に引き取って、一緒に暮らす。叔父であるなら特別珍しいことではない。遼一はたびたび悟を気遣ってくれる、担任の大塚のことを思い出した。たとえば学校の教員になら、そう説明しておけば充分だ。
悟には、自分が叔父だという事実だけを伝える。
悟は、叔父に愛されることを受け入れるだろうか。
年齢差、性別……悟と遼一はそれらをとうに乗り越えてしまっていた。これにもうひとつ、血縁関係が加わっても、今さら何ほどのことがあろう。
遼一は悟の肌の温かみを、吐息の甘さを思った。生き返って輝く瞳を思った。手放すことはできない。あの子と離れるなんてできない。幸か不幸か悟は男だ。妊娠することもない。この血を受け継ぐ子供はもう増えない。
もうひとつの真実は、永遠に、自分と純香の胸の中だ。
「あの子と一緒に暮らしたい」
遼一はみぞおちから拳を離し、純香の顔を真っ直ぐ見た。
「あいつは、俺が引き取る。来春あいつが高校に受かったら、その結果をもって親御さんを説得しようと計画していた。だがもう待たない」
俺があいつの叔父ならば、ネグレクトしてきた親から引き離してあの子を守る責任があるはずだ。
遼一はきっぱりそう言った。
純香は皮肉にふっと笑った。
「ネグレクトねえ。児童虐待という点では、あたしたち同じことをしてるけど」
鋭い攻撃だった。遼一の胃は痛んだ。が、遼一はここで負けて引き下がるわけにはいかなかった。目をそらした方が負け。遼一は純香を黙ったまま見据えていた。
純香の口許がゆるんだ。
「いいわよ。あの子をあなたに返してあげる。勝手にふたりで幸せになるといいわ。あの子を愛してやって」
純香は最後に「あたしができなかった分も」と早口で付け加えた。
遼一は立ち上がった。
窓の外ではオレンジ色に照らされた木々が風に揺れていた。冬至が近づいていた。遼一は目を細めた。
「純香さん、俺とあなたの血がつながってなかったら、俺たちはあのとき一緒に幸せになれたのかな」
純香もものうげにソファから立ち上がった。
「莫迦ね。そもそも血がつながってなかったら、あそこで出会わなかったでしょ」
遼一は純香の顔を見た。懐かしい、いつも見ているような顔。自分の昔の顔、悟の顔とよく似た卵型で色白の――。
「でも、その代わりあなたはあの子と会えたわね」
「純香さん……姉さん」
遼一は懐から携帯電話を取り出し、悟の電話を呼び出した。
(悟。もうお前を親の家へ帰らせたりしない。これからずっと俺と一緒だ。悟――)
早く報告したかった。悟はカフェかどこかで、遼一からの連絡を、今か今かと待っているはずだ。
呼び出し音が続いた。いくら待っても悟は応答しなかった。
電話を握りしめる遼一の手に、じっとり冷たい汗がにじんだ。
床に転がった食器を拾う純香を振り返り、遼一は言った。
「姉さん、悟が電話に出ない」
ドアの向こうから、母の皮肉な口調が続く。
「で? あなたはあの子をどうしたいの? 引き取りたい? どうして分かったの?……そりゃ分かるわよね。これだけ同じ顔をしていれば」
(「分かった」?)
(何を? 遼一さんは、何を分かったの?)
(母さん……、あなたはいったい何を……?)
悟は壁から背中を離し、耳を澄ませた。
「姉さん、何を言っている? 俺が何を分かったと」
緊迫した遼一の声がそう尋ねた。母からの答えはない。
「まさか、そういうことなのか。悟は」
遼一の声のトーンが変わった。
(遼一さん?)
「そうか……三十二引く十七で十五。簡単な計算だ」
(どういうこと)
三十二は遼一の年齢。十五は、悟。
遼一がこの街を出ていったのが高校生のときなら。
悟の膝が震えた。
「俺はどうしてひとに言われるまで気づけないんだろう。春にあの子に出会ったときも、あの子の顔を見た瞬間、あなたのことを思い出したというのに」
三月、川辺で初めて出会ったとき。
遼一は、三人組に小突かれ、蹴られていた自分を救ってくれた。持ちものを拾って「大丈夫か」と自分をのぞき込んだ。
あのとき。
遼一は数秒絶句して自分を見ていた。
あの数秒。
悟の心に遼一が焼きついたあの数秒で、遼一の脳内で再生されていたのは、母の、純香の姿だったなら、遼一が故郷を出される原因となったのは。
遼一は言っていた。「やんちゃがばれて追い出された」と。
高校生が何百キロも離れた都会へ追い出されるほどのできごととは。
十七だった遼一が、故郷と自分の出自にまつわるすべてを忘れて生きていこうと決心した理由は――。
「あなたの人生への復讐は、完成したんだね、純香さん」
(「叔父さん」じゃ、ないの? 遼一さん。だって、あなたが母さんの弟なら)
悟は全てを理解した。
自分は、いてはいけない存在なのだということを。
たった今、自分を絶対的な安堵へ導いた血の絆が。
これこそが、遼一を深く傷つけ、純香をおかしくさせた鎖だった。
(あなたが、僕の本当の、「父さん」……)
悟は壁に寄りかかったまま、廊下の暗い天井を見上げた。
遠い昔、遼一は母と、彼の姉と愛し合ったのだ。
悟が生涯初めて恋に落ちたあの瞬間。初めて人間に出会ったあの刻。
悟の顔を見た遼一は、その顔とそっくりの、かつて愛した女の幻影を見ていたのだ。
ふとした折に遼一が、自分を通り越して遠くに視点を合わせていたのも、悟の思い過ごしではなかった。遼一は、母を、純香を見ていたのだ。姉の純香を。
確かによく似ていると思う。どこへ行っても必ず「お母さんにそっくりね」と言われて育った。それが当たり前なのだと今なら分かる。どちらの遺伝子が発現しても、この顔になるはずなのだから。
(そうか……。僕は、あなたと母さんの……)
あまりのことに、悟はふたりの会話を盗み聞くのも忘れて呆然としていた。
自分の身体に流れているのは、いとわしく呪われた血。父が自分を愛さないのも道理だった。篠田の血など自分の身体には一滴も入っていなかった。江藤の祖父から流れ出た、母親の異なるふたりの血が、再び自分という器でひとの形を成したのだ。
そして、母が自分を見ない理由も納得がいった。自分は、篠田悟という人間は、仮に「篠田」姓を名乗っている間だけ存在できる亡霊のようなものだった。母は、純香は、どんな思いで十五年、自分の姿を見ていたのだろう。
悟はかばんのひもを握り直した。かたかたと震えるのを、音を出す前に止めるために。
「そんな……そんなひどいこと」
遼一の声が、悟をこの世界に呼び戻した。
(遼一さん……)
遼一が、母の悟への仕打ちを非難していた。遼一だけは、悟の味方だ。当然だ。
(だって遼一さんは、僕を愛しているんだから)
遼一が、自分を愛してくれたのは、どうしてだろう。
自分が先に遼一に夢中になり、つきまとった成果だろうか。
それとも、母さんにそっくりだから?
「俺の……子か、悟は」
昔、自分が愛した女性に?
僕がいつも張り合って、負け続けていたゴーストに?
「何だ、この、繰り返しは……。何かの呪いなのか」
食いしばった歯のすき間から漏れ出るような、苦しげな遼一の声。
(呪い)
かつて愛したのは血のつながった姉で、今愛しているのはその姉との間にできた子供で。いてはいけない子供。自分は、それだ。
「どうして俺は、いつも」
遼一の声を背に、悟は家を後にした。
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