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五、銀鎖-7
遼一は悟の立ち寄りそうな場所を思いつく限りに探し回った。
悟が問題集を開いていそうなカフェとファストフード店、歩いて行ける範囲の書店、いつかカーチャを案内した公園も回ってみた。学校に戻っているかと大塚の携帯にかけてもみた。悟はいなかった。
「駄目だ。どこにもいない」
遼一は息を切らしたまま、運転席から純香に報告した。純香はお手伝いさんたちと屋敷の中と近辺ををくまなく探していた。
(そう。あなたたち、今日はこの後どうする予定だったの?)
「え……」
遼一は呼吸を整えながら考えた。
「はっきり約束してた訳じゃないけど」
カフェで待つ悟を拾い、途中夕食と明日の朝食の材料を調達して、一緒に遼一の部屋へ帰る。部屋へ戻ったら台所に荷物を下ろして悟を抱きしめ、あの甘い香りを楽しみながらキスをする。幼い唇と舌を堪能したら悟を解放してやり、悟は瞳をうっとり濡らしてコーヒーを淹れ、自分は夕食の時間まで軽く仕事の続きをするだろう。
いつもの恋人同士のルーティン。
(あの子、あなたの部屋のカギは持ってるのね?)
「ああ」
(じゃあ、あなたはあなたの部屋で、あの子が来るのを待って頂戴)
悟が現れたら、互いに連絡することにして通話を切った。
「さーよ。お前いったい今どこにいるんだ」
篠田の家の扉がバタンと閉まった音が蘇った。
(あれは悟だったのか……)
母親と、歳上で同性の恋人との交渉がどうなるか。気が気ではなかったろう。もしかして、廊下で純香との会話を聞いていたのではあるまいか。
扉の閉まる音がしたとき、遼一と純香はどこまで話していたろうか。
まさか――。
「お前の耳にだけは入れたくなかった」
遼一はハンドルを握りしめ、唇をかんだ。
ねっとりと不幸の絡みつく、自身の血脈。まさか、悟もそこから産まれ出た子供だったなんて。若き日の自分の犯した過ちが、あの子供を産み出していたなんて。
不幸の連鎖。
自分は大人の計算で、それを胸にしまって生きていこうと決めた。
自分はそれを知らなかったこと、なかったこととして、叔父甥の関係であの子を養育していると、世間的につじつまを合わせて。そして、悟の欲しがるものは何でも与える。参考書でも、指輪でも、セックスでも、何でもだ。
悟は知ってしまっただろうか。自らの血がどこから来たか。姉と知りながら交わり、自分を産み出したまま何も知らずにのうのうと生きてきた遼一を、憎んだろうか。侮蔑したろうか。怨んだろうか。
ずるい大人の計算を、あの若い魂は受け容れることができるだろうか。
遼一は車のエンジンをかけた。
(悟。お前はそれでも、俺を愛してくれるか)
虫のよすぎる話かもしれない。だが。
(俺はもう、お前なしでは――)
遼一は自分の部屋へ向かった。部屋の窓に明かりが灯っていることを願いながら。
不幸の鎖は、銀色に輝いて彼らをつなぎ、絶望に縛りつけていた。
街灯が銀色の光を楕円に投げた。
仕事が退けて家路につく車がひっきりなしに橋を行き交う。
悟は傾く陽に目を細めて川を見ていた。
眼下には、あの日初めて遼一と出会った川辺の小公園。
橋の欄干にもたれ、悟は遼一と過ごした九ヶ月を初めから巻き戻して眺めていた。
(大好きな遼一さん)
いつものように、融けてはまた凍ってを繰りかえして固くなった雪の中に転ばされ、好きに蹴られていた悟を、遼一は見つけて助けてくれた。いじめっこどもを追い払い、立ち上がるのに手を貸してくれ、マフラーを拾って首に巻いてくれた。正面から見た悟の顔を、息を呑んで見つめていた。
(僕は、初めて会ったあの日から、あなたのことが好きだった)
夕暮れの赤い光の中を、一緒に歩いた堤防の遊歩道。
(そのときは、自分の気持ちが「あなたを好き」なんだって気づかなかったけど)
悟は恥ずかしくて、いたたまれないような気持ちになりながら、傍らを歩く遼一の存在を強く意識していた。記憶にしっかり刻みつけた。
(どうしてかな。いくら助けてもらったからって、会って数分一緒にいただけのひとを、そんなに恋することがあるだろうか)
数日して、連中から逃れようと急いで校門を出たとき。
奇跡が起きたと悟は思った。
遼一が、あの日助けてくれたひとが、そこにいたのだ。
この幸運を、手放しちゃいけない。悟は走り出していた。
遼一は車に乗せてくれた。本屋へ案内して、コーヒーをご馳走になって。
この幸運を、手放しちゃいけない。悟は一生懸命考えた。どうすれば少しでも長く一緒にいられるか。どうすればまた会うことができるか。
遼一の蔵書を見てみたい。英語を教えて欲しい。悟の虫のいい願いを、なぜか遼一はすべて聞き入れてくれた。悟を受け容れ笑ってくれた。いじめっこたちと交渉して、十年続いたいじめを止めさせてくれた。
悟はずっと不思議だった。どうして遼一がそんなに親切にしてくれるのか。どうして自分があんなに遼一に恋い焦がれてしまったのか。
(やっぱり、血、だったのかな……)
あの秋の雨の日。母にまた裏切られた悟は、朦朧となりながら遼一のアパートへ向かっていた。ズブ濡れになって冷え切った身体の底が不穏に熱くて。
ようやく帰ってきた遼一にバスルームに押しこめられて、もう、どうしていいか分からなかった。身体の衝動が恋情を押し上げ、追い詰められた悟は細い指で遼一のシャツにしがみついた。
あんなに恥ずかしいのに、自分を抑える機構は、遼一の指が悟の皮膚に触れた途端働きを止めた。回線がショートしたように。
(遼一さんが、僕の、本当の父さんだったからかな)
悟が恋い焦がれる以上に、遼一が悟に夢中だった。悟はそれを分かっていた。なのに、遼一の視線がときおり自分を通り越して、遠い誰かを見ているのが悲しくて、いつか遼一に棄てられる日が来るのが怖くて、無茶を言って遼一を困らせた。暴力もふるった。だが遼一は毎回悟をあやすように抱きしめ、落ち着かせてくれた。
ひとの懐の温かさ。それが遼一の懐ならなおのこと。
(父さんで、叔父さん)
悟は自分の肩を抱きしめた。
いつもこの身体を抱き止めてくれる遼一の胸を思い出して。
遼一の指は熱くて、優しいのに激しくて、悟はいつももっと欲しくなる。甘い声を上げてねだれば、遼一は必ずくれる。悟がねだる以上に。
(遼一さん、あなたは自分の血のつながった姉を愛したかもしれないけど、それはいけないことかもしれないけど。僕も同じだよ。血のつながった叔父を、父を、こんなに愛してしまったもの。心も……カラダも)
夜でも、昼でも、悟がねだればいつでもくれた。人間は、こんなにも、誰かの心で、身体でとろかされる。幸せだった。
(僕ね、これからはずっとあなたと一緒だと思ってた。一生離れないって)
指輪の約束。悟が志望校に合格して、春から一緒に暮らす約束。
遼一はそのために今日――。
先ほど耳にした遼一の声が、悟の耳に蘇る。三十二引く十七は、十五。姉と関係して故郷を追放されたときの遼一の年齢。この世に生まれて以降、孤独だった悟の年月。そのふたつを足せば、キレイに今の遼一の年齢となる。
(僕はもう、自分のことよりも、ずっとあなたが好きなんだ)
悟がどうしてこの姿でこの世に存在するか。遼一はそれを知ってしまった。
若かった遼一を傷つけたできごとは消せないばかりか、自分の姿を取って彼の前に顕現している。遼一の心の傷は、もしかして、自分の存在が彼の心で大きくなるにつれ、見えなくなることがあるかもしれない。悟はそんな風に期待していた。
が、それどころか。
(あなたを苦しめる全てのものから、あなたを遠ざけたい。そう思う)
悟の姿は、悟の存在は、遼一の心を苦しめるだろう。傷は見えなくなるどころか、遼一に新たな苦しみを与える。
悟の顔が、昔の誰を思い出させるか。悟の姿の向こうにちらつく幻影は誰のものか。遼一はすでに知ってしまった。知らなかったときには戻れない。気づかないふりはもうできない。
(あなたは僕を、過去と切り離して眺めることはもうできないでしょう)
母の、純香によく似た顔。少年の頃の遼一に、よく似た姿。
(苦しみを伴わず、僕を見ることは二度とない)
遼一は、遼一が自分で思っているほど、冷酷ではない。頑丈でもない。繊細で、優しくて、温かな心を持っている。悟は誰よりそれを知っていた。そして多分遼一本人よりも。
傷つきやすくてもろい魂。守りたい。誰にもこれ以上傷つけさせたりしない。
(僕はもう、あなたを苦しめたくない)
「遼一さん」
唇が、小さく恋人の名を呼ぶ。
悟は首にかけた銀鎖を外し、指輪を鎖から抜き取った。
(俺のいないところで外すなよ)
遼一が笑って悟にそう言い渡した銀の鎖。
抜いた指輪は左手にはめ、鎖を元通り首にかけた。
(僕はあなたのものだけど、僕はあなたを解放するよ。あなたを守る。僕からも、母さんからも)
陽はますます低く、オレンジからラベンダーの色へ変わる。
悟は夕陽に輝く銀の指輪に口づけした。
「……父さん」
愛してる。
そう呟いて、悟は瞳を閉じた。
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