一、川辺-6

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一、川辺-6

 遼一はまず情報収集から手を着けた。  三月に河畔で悟に暴力を振るっていたあの三人。あれ以外に加害者が存在しないことを悟に確認し、三人のフルネームを聞き出した。氏素性を調べるには、個人情報が必要だ。これには悟の学級担任を巻き込むことにした。 「何て言ったら、悟のウチに迷惑をかけずに、俺が担任の先生と話せるかな」 「僕の『従兄』ってことにしたら? 遼一さん」  悟は目を輝かせて提案した。遼一は、こんな生き生きとした悟の目を見られて満足だった。あとはこの子を再び暴力に曝させないこと。  これが達成されれば、この街に帰ってきた甲斐があったというものだ。 「従兄? 俺三十二だぞ。無理がないか?」 「従兄だもん、歳が離れてたっておかしくないでしょ」  悟は思案顔の遼一に屈託なく笑った。  悟は遼一の指示で、思い出せる限りのいじめの記憶を思い起こして書き出す作業に取り組んだ。これはひとりで自室にいるときにはやらせなかった。  この子ひとりで辛い記憶と対峙させたくなかった。記憶の重積に引き込まれて、戻って来られなくなるといけない。  平日はほとんど毎日、土日も続けて、悟は遼一の部屋へやってきた。悟が語るいじめの記憶を、遼一はPCに打ち込んでいった。  この華奢な身体が、そんな暴力に耐えていたなんて。小さなうちからそんな目に遭わされていたなんて。    悲しかった。胸が痛かった。できるものなら、幼児のこの子の前に現れ、連中のからかいから守ってやりたかった。自分が彼らの前に立ちはだかって、「止めろ」と怒鳴ってやりたかった。    感情が大きく揺さぶられていた。悟のガラス玉の瞳と同じく、自分の感情も長らく死んでいたことを遼一は悟った。  辛い、悲しい、悔しい記憶を紐解くうちに、悟は怒りの感情を取り戻したように見えた。不本意な暴力に屈しなくてもよくなる希望が、悟を元気づけたようだ。正当な怒りをその手に取り戻し、悟は三人と対決する勇気を持った。  次は、担任との面談だ。    雨の中、遼一は悟の通う中学校へ車を走らせた。  敷地の端に空きを見つけて車を停め、遼一は職員玄関へ入っていった。  約束の時間には数分早かったが、玄関には悟が待っていた。そこへ担任が現れた。担任は、生徒指導室に二人を通した。  昔ならいざ知らず子供の数の少ない今の時代、さすがにこの年齢差で従兄は苦しい。悟には遼一のことを「遠縁」で通しておくように言っていた。悟が具体的にどう伝えたかは知らないが、担任は遼一をひと目見るなり警戒を解いた。 「で、このたびはどのようなお話でしょうか」  担任は親しみをこめた表情で遼一を促した。職業上のテクニックかもしれないが、生徒の安全と学業成就という目的は父兄と共有しているひとだ。遼一も担任には信頼を寄せているというスタンスで話し始めた。  いじめの事実。経緯と現状。遼一がプリントアウトしてきた悟の聞き書きは、担任に大きな衝撃を与えたようだった。 「本当、なんですね。これは、全て」  そう言ったなり、学級担任の大塚は黙り込んだ。濃いグレーのスラックスに、ベージュのニットのベスト。細い銀縁のメガネは流行遅れで、真面目なのにどこかとぼけた雰囲気の大塚に妙に合っていた。 「はい、数回に渡って確認して聞き取りましたが、これの言うことは大まかな日時も内容も毎回変わりませんので、事実でしょう」  学校側はいじめに気づいていなかった。加害者が三人だけで、手口は陰湿だが広がりは見せず、また加害者が所属するクラスもバラバラだったのだ。担任は気づいていなかったことを素直に詫びた。 「すまんかった、篠田。俺、全然見抜けなかったわ。大木も石川も花田も、陰でそんなことをしてるとは……」 「先生が悪いんじゃありません。連中は周りに誰もいないときを狙ってやってくるんで、先生だけじゃなく、学校のみんなも、僕らはただクラス関係なく仲がいい友人同士だと見てると思います」  悟は背筋を伸ばして大塚にそう言った。おどおどしたいじめられっ子の片鱗はもう見られない。黒い瞳は、もうガラス玉じゃない。  事実を共有した後は、今後の対策だ。  遼一が学校の責任を追及する姿勢でないことは、担任の大塚を大いに安心させた。  うまくいくかどうかはやってみないと分からないが、ひとまずは学校を経由せず、いじめっこたちと直接交渉してみる積もりでいる。そう方針を伝えると、大塚はできることは何でも協力すると請け合った。  まず遼一は彼らの背後関係、つまり親や近い親類の素性を調べたかった。  学校が持っている情報の中でも、最も差し障りのない部分、つまり、三人のフルネームと住所を確認した。もっとも、幼稚園から一緒なのだから、どちらも悟自身すでに把握していた。新たな情報の流出には当たらない。  さらに差し障りのない会話の中で、三家族の大体の家族構成も聞き出すことができた。親の大まかな職業も。  不幸中の幸いか、どの親も固い職業に就いていた。ひと目構わずの暴力沙汰になっていないのは、自分たちの行動をよく制御できている証拠だ。反社会的勢力と密接な関係があれば、後ろ盾に気を大きくした少年たちは、思うさま暴れることもできたろう。  遼一は手応えを感じた。大塚は聞き出されたことに気づいているだろうか。あえて聞き出された振りをして、遼一の求める情報を大塚の方からしゃべったのかもしれない。  大塚は、これからはよく気をつけておくと約束した。  連中は決して教師のいるところではやらないので、実効性はないだろう。が、万一悟がケガをしたり、精神的に参ってしまったりしたときに、理由を推測してもらえれば、適切な対応を取りやすくなる。  例えば、希望したときすぐ早退できるとか。そんなとき大塚が遼一に連絡をくれて、迎えに行った遼一に子供を引き渡してくれるとか。    話し合いが終わり、職員玄関まで遼一を見送りに出た大塚は、 「お兄さん、今日はわざわざご足労ありがとうございました」 と遼一に深く頭を下げた。  手渡した名刺の名字ではなく、遼一は架空の続柄で呼ばれたのだった。  お兄さん。  遼一は車を停めた敷地の端まで歩きながら、耳に残る大塚の言葉を再生した。悟はよほどうまく遼一を紹介していたようだ。学校側の知っている篠田家の家族構成には気配もない、中途半端な年齢の成人男子が突然現れたのに。  それとも、悟には実際に歳の離れた兄でもいて、その人物だと早合点されたのだろうか。  悟は家のことをほとんどしゃべらない。遼一も聞き出そうとしない。お兄さん。自分が本当に兄だったら、悟を十年もそんな目に遭わせたまま放置したりしない。  自分はおせっかいなのだろうか。  遼一はふとそんな風に思った。どんより曇った空を見上げた。  ひとづき合いらしいつき合いをしてこなかった自分が、故郷の街で仕事に就いた途端、よその子供の世話をしている。自分の親にすら面倒を看てもらっていない、表情を失った中学生の。    これは一体、どういう出会いなのだろう。  これくらいで、遼一のひと嫌いは変わらないだろう。雇われ先と食事のひとつもしていない。自宅での仕事の合間は相変わらず株式市況の確認に当て、SNSなどの入る余地もない。基本的に、ひとには興味ない。  ならなぜ――。 「遼一さーん」  生徒玄関から敷地の外を回って、悟が駆けてきた。悟は息を弾ませて言った。 「うまくやったね。あいつらの親の仕事まで聞き出せた」 「『聞き出せた』なんてひと聞きの悪い。問題行動を起こす生徒の家庭環境には何か共通の特徴がないか、プロの意見を拝聴したんじゃないか」 「ふふふ」  悟は勢いよく助手席に乗り込んだ。上機嫌にはしゃいだ様子は子犬のようだ。  遼一は大塚に、悟の本来の保護者である母親、あるいは父親が同席しないことについて、一切言及しなかった。母親、あるいは父親は、次に大塚と会う機会を持ったとき、寝耳に水の話を聞かされる訳だ。  これは遼一の軽い嫌がらせとも言えた。こうなるまでずっと悟を放置した彼らへの。見ず知らずの他人が息子のいじめを止めさせるべく奔走しているのを聞いたとき、彼らはどう反応するのだろうか。  遼一は自宅へ向けハンドルを切った。作戦会議だ。
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