アレキサンドライトの瞳

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アレキサンドライトの瞳

 私は、私にしかできないことなどないように思う。それは、私には特筆すべきものがないということでもあるが、特筆することがあってもそれは他人にもできること、ということでもある。  この広い世界の中、私の代わりなどいくらでもいて、それらはいつでも交代する準備をして私の後ろに立っている。そして、彼らはしばしば私を追い詰めた。あるときは激しく、あるときは淡々と。私はそれらを諦めにも似た心持ちで無感情に受け入れる。  対して、私の恋人は恋人にしかないものをたくさん持っていた。そんな彼の隣に恋人として立てること。もし私が、私にしかできないことを聞かれたとき、これがそうだと答えるだろう。  この素晴らしい人の隣に唯一の席を貰えることが、私にしかできないことである。 ✳︎ 「なんてことを思ったの。どう思う?」  私は彼とお風呂に入っている。入浴剤により、乳白色に濁ったお湯。ここのアパートは一人暮らし用なので二人で入る浴槽はだいぶ狭かった。彼が開いた脚の間に私が座る。体育座りで、小さく丸まり、きゅっと膝を抱え込む。あまり大きくない胸が太腿に潰される感覚。 「いいと思う。実際、そうなんだと僕も思うよ。僕の隣は君以外考えられない」  彼は気障ったらしく、芝居がかった仕草でそう言った。彼はこちらが恥ずかしくなってしまうような言葉を平気で口に出す。私はその度に彼の分までしっかりと恥ずかしくなって、顔を林檎よりも真っ赤にさせる。彼は私の、その赤くなった顔が好きだと言った。 「可愛い。耳まで真っ赤だ」 「貴方があんなこと言うからよ」  彼が私の頬に指を這わせ、唇をいたずらに弄ぶ。ふにふにと柔らかく湿った私の小さな唇は、彼の思うがままに形を変える。  こめかみに一筋の汗が伝った。バレッタで纏めた髪から水滴が落ちて、水面に円を描いた。  彼が私にキスをした。 「君は、本当に君にしかできないことがそれだけだと思っているのかい?」 「ええ」  私には、それしかない。そうだと、この数年間ずっと思って生きてきた。 ✳︎  私が私でなくてはならない理由など彼以外に存在しない。彼に振られたら、私はきっと泡になって消えるだろう。なんだか、きっと、そんな気がした。 ✳︎  幼い頃、私には二つ好きなものがあった。そして、子供の私は、それ以外には特に興味を示さない割とつまらない子供だった。口数も他の子と比べて随分少なかった。親はそんな私のことを手のかからない良い子として褒めた。私は、一人遊びが大の得意だった。  そんな小さな私の好きなものの一つ目は、人形だった。子供向け玩具のような稚拙な作りのものではなく、一つ一つ職人の手によって作られた、精密な作りの球体関節人形がお気に入りだった。丸い関節と、あの美しい顔立ち。作り手やテーマなど、その時々によって絶妙に違う顔のあの子たちを私はとても好いていた。美しいドレスは私が本来ならば着たいと願ったものでもあったし、あのキラキラしたグラスアイは私がなりたかった瞳でもあった。私は彼女たちを通して、なりたい私を見ていた。お姫様のように煌びやかで、誰もが見惚れるような、そんな女の子。  好きなものの二つ目は、宝石だった。両親、特に母が熱心なコレクターだったので、家には大小さまざまな宝石が飾ってあった。幼い私は、手の届かないショーケースの中に収められた彼らをじっと見つめていた。ひっそりと息を潜めながらも、決して失わないその誇り高き輝き。今でも、その輝きを脳裏に鮮明に映し出すことができる。  母は私が宝石を好んでいたのを知っていたので、時折、クレーンゲームなどによくあるあのプラスチックの宝石をくれた。安っぽい軽さと、偽物の鈍い輝き。それで、よかった。幼い私は偽物ながらも図々しく光る彼らが好きであった。天気の良い日、私はリビングの大きな窓のすぐ近くに、偽物の彼らを並べて遊んだ。彼らが作り出す淡く色づいた影が好きだった。規則正しく色ごとに分けて並べるのも良い。色も形状も気にせず、ごちゃ混ぜにして並べるのも良い。どのように置いても彼らは光さえあれば美しく鈍く光り、カラフルな影を床に落とした。  そして、今はもう朧げになった幼少期の記憶で、一つだけ明確に覚えていることがある。あの日、確か私はとてつもなく怒っていた。父が、母から貰ったわたしの宝石たちを捨てたのだ。こんな偽物に現を抜かすなと彼は怒った。父の所業に怒り狂った私はショーケースを叩き割り、父が所持する中でも一等価値のある宝石を手に取った。そして、そのときの私は何を思ったのか、それをぱくりと食べてしまった。食べた宝石は、確かアレキサンドライトだった気がする。小ぶりな宝石を飲み込んだときの、父の慟哭と母の痛烈な悲鳴をまだ記憶している。  あの日、私の右目がアレキサンドライトになった。当の私は、人形とお揃いの美しい瞳になれたことを心の底から嬉しく思っていた。これからのことなど、何も考えていなかった。 ✳︎ 「僕は君の右目が好きだよ」  彼は、ベッドの上でそう言った。私は全裸で、二人の体温でぬるく温められたシーツを抱きしめる。腰に回った彼の腕が酷く熱かった。 「どうして?」 「どうしてって、綺麗じゃないか」  右目の瞼の上に彼がキスを落とす。薄く、そして少し荒れた唇だった。私は、今度、彼に薬用のリップクリームを塗ってあげたいと思う。彼からのキスは嫌いじゃないけれど、ささくれ立った唇の皮が少しだけ痛いのだ。 「よく見せてごらん」  彼の手が私の顎を掬う。私は月明かりに照らされた右目を眩しさにしぱしぱと瞬かせる。 「ほら、綺麗だ。この美しさをその身に宿すこと、これはきっと君にしかできないことだよ。君は美しいんだ」  そう言って彼が笑った。  ああ、嫌だ。胸がぎゅぅっと苦しくなって、胃の底が鉛を飲み込んだように重たくなった。  そうして私のことを褒める貴方の方が何倍も美しいのに。貴方がわたしを褒めるたびに私は私が嫌になる。こんな瞳、何が良いのだろうか。幼少期の私は喜んだけど、大人になった今はこの目が憎たらしくて仕方がない。人と違うことはそれだけで悪である。これは私にしかできないことではない。普通から道を外れてしまっただけの憐れなただの凡人だ。  宝石の輝きとは、カラーコンタクトで消せるような代物ではなくて、いつだって激しくその絢爛豪華を主張する。私自身が霞んでしまうほどに。人々はみな私の目を奇妙な目で見る。恋人だって、きっとそうだ。美しいのは瞳だけ。私自身が美しいなんてありえない。  私自身には、なんの価値もない。 ✳︎  私はとうとうおかしくなってしまった。この瞳のせいで私はどこにも行けない。眼帯をしたって無駄なのだ。この輝きは抑えられない。だから私は、この目をくり抜くことにした。  朝。カーテンを開けて、窓も開け放つ。舞い込んだ風が書類をぱらぱら飛ばしていった。雲がまだらに浮かぶ晴天で、私は右目が痛いほどに光っているのを感じていた。  用意したのは、彼から貰ったカトラリーセット。銀色で、程よい重さのそれは、白い食器と並べるとよく映えた。スプーンを持てば、窪んだ部分に歪んだ私が映った。 「もしもし」  私は恋人に電話した。 「どうしたんだい。君から電話なんて珍しいじゃないか」  僕は嬉しいよ、と彼は言った。電話越しでも、彼が大袈裟に手を振ったのがわかった。私は彼から貰ったスプーンをお守りのように大事に握りしめて、言った。 「右目、取ろうと思うの」 「……」 「それだけ伝えようと思って」  電話の向こうは無音だった。私は緊張から僅かに震える息を吐いて、バイバイ、と電話を切った。  スマホを置いて、長い長いため息をつく。肺の中の息を全部吐き切って、それからまたゆっくり息をたくさん吸った。部屋の空気は、朝特有の澄んだ空気に包まれていた。  私はスプーンを握りしめる。私にしかできないことなど、何もない。全てのことは代わりがある。私のこの右目に収まるアレキサンドライトだって。私よりも似合う誰かがいて、彼らは私の後ろで列を成して待っている。  私はスプーンを右目の真上に持ってくる。私は彼を思い出す。私だけにしか宿せない美しさがあると言った彼を、思い出す。この美しさは誰だって身につけることができる。移植すれば良い。美しい世界と共に、美しい瞳を手に入れられる。なんて素晴らしいことなのだろうと私は思う。  私はスプーンを目に落とす。カツンと音がして、私はその場にうずくまった。  恋人が私を抱きしめた。 ✳︎  宝石は硬すぎて、傷すらもつけられなかった。私の右目には相変わらずアレキサンドライトが輝いている。恋人は電話を聞いたあの瞬間、ここまで走ってきて私を止めた。 「君のそれは、君と強く結びついているんだ。絶対に取れやしないよ」  恋人は私を抱きしめながら言う。私はそれを無気力に聞いている。 「君の瞳は君だけのものだ。それを宿すのは君にしかできないことだよ」  彼は酷く優しい声で私を慰める。私はまた哀しくなる。  そんなことないのに、と私は思う。彼の、檻のような腕の中で、思う。前に、彼にしかできないことはたくさんあると言ったけど、あれは嘘だ。彼の代わりだっていくらでもいる。私の代わりがいくらでもいるように。彼の隣、唯一の席を貰えるなんて嘘だ。ここには時の流れの中で、かわるがわる沢山の人が座ってきた、代用可能な席だ。人も、椅子も。誰かにしかできないものなどないと、私は心底それを理解している。嫌になるほど、理解している。  私はいつか、この瞳を彼にあげたいと思う。この美しさを宿すことは、私にしかできないことではないと、彼に教えてあげたい。宝石の美しさとは誰にも依存しない美しさだ。私の瞳で世界を見る彼はきっと美しいだろう。それはきっと彼だけが持ち得る美しさだ。もしかしたら、私はそのときになって、やっと彼の言っていることに気づくかもしれない。彼だけが持ち得る美しさを私が感じているように、彼も私だけが持ち得ていたのかもしれない美しさを感じてくれていたのだろう。  私は思う。私にしかできないことなどないと。 「私にしかできないことなんて、やっぱりないわ」 「そんなことないよ。君にしかできないことは、君の右目に宿ってる」  私は思う。やっぱり、彼が言うならそうなのかもしれないと。単純な女と、笑って欲しいと思う。
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