アリサ IN LOVE

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アリサ IN LOVE

1  薄暗い喫茶店であった。 入り組んだ路地を通って来たということだけ覚えている。 自分ひとりでは二度とこの店に辿り着けないだろうなと、吉永真人(よしながまさと)は考えていた。 それもそのはずで店の名前は「迷い人」とつけられていた。昭和の匂いがしそうなレトロな店だ。 真人は、もの珍しげにあたりをキョロキョロと眺めながら、友部裕己(ともべひろみ)の指差す席へと歩いて行った。 小柄でひ弱い体付きの真人に比べ、友部は筋骨隆々とした大男だ。大学のラグビー部に所属しており、その筋では結構名が通っている。今年の秋に開かれる国体の強化選手に指定されているくらいなのだ。 友部はその巨体をゆっくりと座席にしずめ、 「何やってんだマサト、早く座れよ」と言った。 「えっ、ああ」 真人は友部と向かい合う格好で腰掛けた。 「しかし、変わったサテンだなあ。こんなとこちょくちょく来んのか?」 「ああ、美味いコーヒーが飲めるぞ」 二人は人の良さそうなメガネのマスターに、ブレンドコーヒーを注文した。 「ところで、何だ? オレに相談ってのは」おしぼりで手を拭きながら真人が訊いた。 「うん、それなんだがな。おう、飲めよ。なかなかいけるぞ」 友部は、運ばれて来たコーヒーを真人に促した。 ゆっくりと熱いコーヒーを一口啜ると、真人は「うん、確かに美味いね」と答えた。 「だろ!だろ! やっぱりおまえもそう思うか。さすがオレの親友だ」 「親友は関係ないんじゃないか?」 「いや、そんな事はない。同じことをして同じことを感じる。これ、すなわち友情なのさ」 「そんなもんかなあ」真人は友部の理屈に首を傾げた。だが、友部は、さも嬉しそうな顔をして、「そんなものさ」と言い、コーヒーを飲み干した。 友部が二杯目のコーヒーを注文するのを待って、真人は、「はぐらかさないで言えよ。早く。何の話だ?」と先を促した。 「うん」友部は小さく頷いたあと、しばらく考え込んだようにじっと一点を見つめた。だが、やがて、決心がついたように居住まいを正すと真っ直ぐに真人に視線を向けた。 「実はな、最近、オレ、どうもビョーキらしいんだよ」 「病気?」意外な告白に真人は驚いた。 「ああ」二杯目のコーヒーを啜りながら、友部はこっくりと頷いた。 「何の病気だ?」 「人に言えんビョーキだ」 「胃炎か?」 「下手なジョークはやめてくれ」 「じゃあ、一体何なんだ?」 「こう胸の奥が、モヤモヤとして……」 「は?」 「何と言うか、寝ても覚めても、と言うか、ある人のことを考えてしまうと、居ても立っても居られないんだ」 「何だそれ?」 友部はジロリと真人を見た。 「こんだけ言っても分からないのか? やっぱり鈍い奴だな」 「放っとけよ」 「恋だよ。恋!」 「恋? なんだって!」 真人はあんぐりと口を開けた。 「ああ、これは、完全に恋の病い、恋煩いって奴だ」 「こ、恋煩いだと⁉︎」 「バカ! 大きな声を出すな。人に聞こえる」 「他に誰もいないじゃねえか」店内には二人の他に客は無かった。 「マスターがいるよ」 隅のカウンター内でマスターが一人、後ろ向きでカップを拭いている。 「あんなに離れていちゃ、聞こえやしないよ」 「オマエは知らないんだ。ここのマスターは地獄耳だってもっぱらの評判なんだ」 「分かった。分かった。それはいいとして話の続きを聞こう」 突然、友部は探るような目で真人を睨んだ。 「オマエ、本当は笑ってるんだろ」 「何を?」 「オレが恋に苦しんでいると聞いてだ」 「笑いやしないよ。そりゃ確かに少しは驚いたけど……」 それにしても今時、恋煩いだなんて古くさい言い方をする奴だ。実際、友部という男はラグビーだけのために生きてるような男で、恋だの愛だのとか言う話には、全く無縁の人間だと真人は思っていた。 その友部が、恋に苦しんでいると聞いて、真人は少々驚いていた。 「いいか、これは口が裂けても人に言えんことだ」 「言ってるじゃねえか」 「オマエは特別だ。親友と言ったろ」 「コーヒーが美味いと言っただけじゃないか」真人は抗議した。 「それだけで充分だ」 友部は大真面目に頷いた。 真人は呆れて、 「僕たちもう他人じゃないのね」とつい軽いジョークをとばしてしまった。 「ああ、そうだ」言った相手が悪かった。こいつにはジョークが通じない。 このあたりから、ほんの少し悪い予感が真人を包み始めたのだが、気を取り直して、 「で、相手は誰だい?」と明るく言った。 「アリサちゃんだ」 真人は飲みかけたコーヒーを危うく、吹き出してしまうところだった。 「なんだってぇ!」 「おかしいか?」 「あ、いや、そういう訳じゃ……しかし……」 アリサと言うのは、大学の中のマドンナ的存在で、全男性の憧れの的である。真人は、あまり詳しく知らなかったが、なんでも大きな会社の社長令嬢であるらしく、おまけに大変な美人なので、彼女のまわりにはいつでも数人の取り巻きと呼ばれる連中が数人纏わりついている。 「オレと彼女じゃ不釣り合いだと言いたいんだろう」 友部がギロリと目をむいて言った。 「いや、そんな事は言わないよ。でも……」 「でも、何だ?」 「金持ちの生意気なお嬢さんだ。毎日、取り巻きを引き連れてツンとすまして歩いてる。いくら美人でも、あんなのはやめとけよ」 真人がそう言うと、友部は見る見る顔を真っ赤にさせ、 「それはオマエの偏見だ!」と怒鳴った。 「大きな声を出すなよ」真人はいきり立つ友部を両手で制した。 「オマエは知らないだけさ。本当の彼女は心の優しい人なんだ」 やけにキッパリした口調で言うので、 「どうしてそんなこと知ってるんだ?」と訊くと、 「……いや、そんな気がするんだ」と、友部は口ごもった。 「なんだい、そりゃ」 「とにかく、そういうことなんだ」 「まっ、なるほどね。そうですか。それは良かった。良かった。まあ、せいぜい頑張って下さいな」 真人は、少し冷めかけたコーヒーを飲み干した。 「マサト」 急に友部は真剣な顔で真人を見つめた。 「な、なんだよ」 「頼みがあるんだ」
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