アリサ IN LOVE

7/18
前へ
/18ページ
次へ
7 電話が鳴っている。 ドタドタと足音を立て、吉永由加里は廊下を走って来て、受話器を取る。 「ハイ、吉永です」と言おうとして、由加里はお箸を口にくわえたままだったことを思い出した。 慌てて、お箸を抜き取って喋ろうとしたら、相手の声が聞こえて来た。 「もぉし、もし」ずいぶんテンポの遅い話し方だ。 「あっ、はい、吉永です」由加里はいつもの可愛い声を出した。 「ああ、よしながさんですかぁ」 「ええそうですよ」 「ボォク、トモベといいます」 「はい」 「マァサトくん、いらっしゃいますかぁ」 「お兄ちゃんなら、まだ帰ってませんが」 「は? お兄ちゃんということは、も、もぉしかして、い、いもぉうとさんですか?」 「はあ、そうです。弟ではないようです」 「そぉうですかぁ。ま、マァサトくんに、い、いもぉうとさんがいらしたとは、き、きいてなかったなあ、いやいやハハハ」 (何を感心してるんだろ)由加里が黙っていると、 「あ、そぉそう、それで、マァサトくんはまだ、かえってぇないんですねぇ」 「そうなんです。いつもはもうとっくに帰ってるんですけど、今日に限って何も連絡しないで……」 「そぉいつは、い、いけないなぁ」 「何か急用ですか? 伝言ならお聞きしますが」 「あ、いやぁ、そ、それはけっこうでぇす。また、かけなぁおしまぁすから」 「そうですか」 「ええ、そ、それじゃあ…あ、あの、い、いもぉうとさんは、お、おいくつでぇすか?」 「は?」 「いや、あ、あのぅ、そ、それでおなまえは? あ、いや、そのぉ」 「はあ?」 「い、いえ、そのぉ、なんでもぉないでぇす」 「そうですか」 「じ、じゃあ、また、あとでぇ、かけなおぉしますからぁ」 「何をですか?」 「な、なにをって、で、でんわでぇすけど」 「その必要はありませんよ」 「え? ど、どぉうして?」 「今、帰りましたから」 「だ、だれがでぇす?」 「お兄ちゃん」 「は?」 「では代わりますね。お相手は妹の吉永由加里。十六歳でした」 由加里はそう言って、玄関でボーッとしたまま様子を見守っていた真人に受話器を放り投げた。 何だ、あいつは? 真人はとりあえず靴を脱いで、受話器を握り直した。 「もしもし、代わりました。真人ですけど」 「…………」 「もしもし、もしもし」何だか受話器の向こうでブツブツ言ってる。 「……ん? なんだ。真人か」 「何だじゃないよ。友部か?」 「おまえ、どうして妹がいること黙ってたんだ?」 「あ? 別に黙ってたわけじゃないよ。そんな話にならなかっただけだ」 「そうか。別にいいんだ」 相変わらず、わけのわからない男だ。 「ところで、どうだ? 例の件は」友部が訊いた。 「何が?」 「アレだよ。あの話」 「あ、ああ、アレね」 「もっまいぶらないで話せよ。少しぐらいは進んだか?」 「それなんだが……」真人は気が重かった。 真人は友部に今日の出来事と、田中の話を聞かせてやった。もちろん、強力なライバル上原のこともである。 「そうか、やはり上原か」友部の声も幾分沈んでいた。 「知っているのか?」 「少しな」 「そうか」 それ以上、友部は何も言わなかったし、真人も訊かなかった。 少しの間、沈黙が続いた。 「合宿の方はどうだ? 調子いいか?」 「今日から始まったばかりだ。調子も何もねえよ」 「そうか、いつまで続くんだ?」 「3週間くらいかな」 「がんばれよな。オマエ結構、期待されてんだから。オレの方も大丈夫だから。安心しろ、合宿が終わる頃までにはなんとかするよ」 「……マサト」 「ん?」 「……いや、何でもない」 「変な奴だなぁ。まあいいから練習だけに打ち込め」 「すまん」 「バカ、何を謝ってるんだ。ほんじゃ、切るぞ」 「じゃあな」 真人は受話器をフックに戻し、ため息をついた。 友部は、しばらく受話器を握りしめたまま、ガラス窓に映る自分の顔をじっと見つめていた。もう、外は暗くなっている。 合宿所は山の中の木造校舎だった。大きなラグビー場が隣にある。 広間やそれぞれの部屋から笑い声が聞こえている。男の汗と体臭がもわ〜と匂って来る。 友部はふたたび、受話器を耳にあてるとナンバーをプッシュした。 呼び出し音が2回鳴ってから、相手が出た。 「はい、友部鉄工所です」 「ああ、母ちゃん、オレ」 「なんだ。裕己かい」 「おやじ、出かけたのか?」 「また高橋さんのところだよ。頼りになるのはあの人だけだからねぇ」 「でも、借金を返すための借金じゃ、いつまでたっても同じことじゃねえのか」 「そりゃそうだけどね。今のウチの状態じゃ仕方ないよ」 友部は言葉に詰まって、唇を噛んだ。 「おまえはそんな心配することはないんだよ」 「……母ちゃん、オレ、……」 「なんだい」 「大学やめて働いたっていいんだよ」 友部の母親は一瞬、絶句した後、 「バカなこと言うんじゃないよ!」すさまじい怒鳴り声を張り上げた。 「……母ちゃん」 「親の商売の心配なんかしてないで、おまえはしっかり勉強して立派に大学を出ておくれ。それが一番の親孝行なんだよ!」 「けど……」 「他に用がなけりゃ、切るよ。ラグビーもいいけど、怪我などしないようにやっとくれよ」 「ああ、分かってるよ」 電話は切れた。 友部裕己は、長い間、その場に立ちつくしたまま、窓の外の暗闇を見つめていた。
/18ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加