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電話が鳴っている。
ドタドタと足音を立て、吉永由加里は廊下を走って来て、受話器を取る。
「ハイ、吉永です」と言おうとして、由加里はお箸を口にくわえたままだったことを思い出した。
慌てて、お箸を抜き取って喋ろうとしたら、相手の声が聞こえて来た。
「もぉし、もし」ずいぶんテンポの遅い話し方だ。
「あっ、はい、吉永です」由加里はいつもの可愛い声を出した。
「ああ、よしながさんですかぁ」
「ええそうですよ」
「ボォク、トモベといいます」
「はい」
「マァサトくん、いらっしゃいますかぁ」
「お兄ちゃんなら、まだ帰ってませんが」
「は? お兄ちゃんということは、も、もぉしかして、い、いもぉうとさんですか?」
「はあ、そうです。弟ではないようです」
「そぉうですかぁ。ま、マァサトくんに、い、いもぉうとさんがいらしたとは、き、きいてなかったなあ、いやいやハハハ」
(何を感心してるんだろ)由加里が黙っていると、
「あ、そぉそう、それで、マァサトくんはまだ、かえってぇないんですねぇ」
「そうなんです。いつもはもうとっくに帰ってるんですけど、今日に限って何も連絡しないで……」
「そぉいつは、い、いけないなぁ」
「何か急用ですか? 伝言ならお聞きしますが」
「あ、いやぁ、そ、それはけっこうでぇす。また、かけなぁおしまぁすから」
「そうですか」
「ええ、そ、それじゃあ…あ、あの、い、いもぉうとさんは、お、おいくつでぇすか?」
「は?」
「いや、あ、あのぅ、そ、それでおなまえは? あ、いや、そのぉ」
「はあ?」
「い、いえ、そのぉ、なんでもぉないでぇす」
「そうですか」
「じ、じゃあ、また、あとでぇ、かけなおぉしますからぁ」
「何をですか?」
「な、なにをって、で、でんわでぇすけど」
「その必要はありませんよ」
「え? ど、どぉうして?」
「今、帰りましたから」
「だ、だれがでぇす?」
「お兄ちゃん」
「は?」
「では代わりますね。お相手は妹の吉永由加里。十六歳でした」
由加里はそう言って、玄関でボーッとしたまま様子を見守っていた真人に受話器を放り投げた。
何だ、あいつは? 真人はとりあえず靴を脱いで、受話器を握り直した。
「もしもし、代わりました。真人ですけど」
「…………」
「もしもし、もしもし」何だか受話器の向こうでブツブツ言ってる。
「……ん? なんだ。真人か」
「何だじゃないよ。友部か?」
「おまえ、どうして妹がいること黙ってたんだ?」
「あ? 別に黙ってたわけじゃないよ。そんな話にならなかっただけだ」
「そうか。別にいいんだ」
相変わらず、わけのわからない男だ。
「ところで、どうだ? 例の件は」友部が訊いた。
「何が?」
「アレだよ。あの話」
「あ、ああ、アレね」
「もっまいぶらないで話せよ。少しぐらいは進んだか?」
「それなんだが……」真人は気が重かった。
真人は友部に今日の出来事と、田中の話を聞かせてやった。もちろん、強力なライバル上原のこともである。
「そうか、やはり上原か」友部の声も幾分沈んでいた。
「知っているのか?」
「少しな」
「そうか」
それ以上、友部は何も言わなかったし、真人も訊かなかった。
少しの間、沈黙が続いた。
「合宿の方はどうだ? 調子いいか?」
「今日から始まったばかりだ。調子も何もねえよ」
「そうか、いつまで続くんだ?」
「3週間くらいかな」
「がんばれよな。オマエ結構、期待されてんだから。オレの方も大丈夫だから。安心しろ、合宿が終わる頃までにはなんとかするよ」
「……マサト」
「ん?」
「……いや、何でもない」
「変な奴だなぁ。まあいいから練習だけに打ち込め」
「すまん」
「バカ、何を謝ってるんだ。ほんじゃ、切るぞ」
「じゃあな」
真人は受話器をフックに戻し、ため息をついた。
友部は、しばらく受話器を握りしめたまま、ガラス窓に映る自分の顔をじっと見つめていた。もう、外は暗くなっている。
合宿所は山の中の木造校舎だった。大きなラグビー場が隣にある。
広間やそれぞれの部屋から笑い声が聞こえている。男の汗と体臭がもわ〜と匂って来る。
友部はふたたび、受話器を耳にあてるとナンバーをプッシュした。
呼び出し音が2回鳴ってから、相手が出た。
「はい、友部鉄工所です」
「ああ、母ちゃん、オレ」
「なんだ。裕己かい」
「おやじ、出かけたのか?」
「また高橋さんのところだよ。頼りになるのはあの人だけだからねぇ」
「でも、借金を返すための借金じゃ、いつまでたっても同じことじゃねえのか」
「そりゃそうだけどね。今のウチの状態じゃ仕方ないよ」
友部は言葉に詰まって、唇を噛んだ。
「おまえはそんな心配することはないんだよ」
「……母ちゃん、オレ、……」
「なんだい」
「大学やめて働いたっていいんだよ」
友部の母親は一瞬、絶句した後、
「バカなこと言うんじゃないよ!」すさまじい怒鳴り声を張り上げた。
「……母ちゃん」
「親の商売の心配なんかしてないで、おまえはしっかり勉強して立派に大学を出ておくれ。それが一番の親孝行なんだよ!」
「けど……」
「他に用がなけりゃ、切るよ。ラグビーもいいけど、怪我などしないようにやっとくれよ」
「ああ、分かってるよ」
電話は切れた。
友部裕己は、長い間、その場に立ちつくしたまま、窓の外の暗闇を見つめていた。
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