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8
真人は自分の部屋の机に座ってじっとしていた。
熊田という名だった。あの由加里と親しくしていた不良じみた男のことである。
電車の中で偶然に見つけ、無意識のうちに後を尾けて行ってしまったのだ。
男は駅を出ると、入り組んだ路地を入って行き、小さなアパートの一室へ消えて行った。
真人にも、それが男のアパートだということは分かった。
真人はしばらく様子を伺ったあと、その部屋の前へと近付いて行った。
ドアの横に郵便受けがあり、そこに『熊田』と紙で書いたネームプレートが貼り付けてあった。
ドアをノックするだけの勇気もなく、結局その文字を見ただけで真人は帰って来てしまったのだ。
男のアパートと名前が分かっただけでも尾行した成果はあったわけだが、さて、それでどうしたものか。
真人はドサッとベッドの上に倒れ込んだ。
十分後、真人はいびきをかいて眠っていた。
それから、あっという間に1週間が過ぎた。
真人にとっては何の収穫も意義もない1週間だった。
何となく流れるように日々は過ぎて行くのだ。
友部が合宿を終えるまで、あと1週間だ。それまでに少しでもメドをつけたいとは思っているのだが……。今のところ、何も進んでいない。
なぜなら、あれから大学構内で1度たりともアリサの姿を見つけられずにいるのだ。
中学や高校と違って学生の数が段違いに多いので、同じ大学であっても顔を合わさないということはよくある。しかし、こっちが気をつけているのに関わらず、1週間も姿を見かけないというのは少し変だ。
ありさは大学を何かの理由で休んでいるのだろうか?
そういえば、護衛隊の連中も誰ひとり姿を見かけない。
アリサの身に何か悪いことでも起こったのだろうか。そう考えると真人は急に心配になって来た。
しかし、よくよく考えると、真人は午後の講義を受けるだけしか大学に行っていない。しかも、たいてい週に2度か3度は休日をとることにしている。
今週は3回休んだから、大学へは4回しか(それも午後だけ)行ってないということになる。これでは1週間顔を合わさないということもあり得るというものだ。
よし! それならば朝早くから大学へ行って見張っていれば、そのうち会えるだろう。と真人は決心した。
そして朝になった。
7時に目覚め、30分後には家を出る用意が出来ていた。
「どうしたの? お兄ちゃん、熱でもあるんじゃない?」
そう言う由加里の驚いた声を聞きながら、真人は表へ出た。
テニス部の早朝練習は7時から始まっていた。
上原隼人は久しぶりに朝から汗を流していた。
大学テニス界のヒーローと言われて、2年が経つ。その間、数々のトロフィーを殆ど、独占して来た。
それと同時にその甘いルックスにより、その一挙手一投足に女性ファンが溜息を漏らす。
いわゆる、アイドルスターなのだ。しかも実力が伴う。
したがって、この日の早朝練習は女子部員たちでごった返していた。
「よし! 行くぞ。もう一丁」
華麗なフォームから矢のようなサーブが繰り出される。
このサーブだけでも打ち返せる部員はいない。
上原にとってはここでの練習は遊びのようなものだ。
本格的な練習は社会人、もしくはプロの選手としている。
今日の上原はもっぱらサーブ練習に時間を費やしていた。
「ちょっと休みましょうか?」
上原の相手をしていた部員が声をかけた。相手というのは、むろん玉拾いのことである。
「そうだな。じゃ、少し休憩だ」
上原がそう言うと、その部員はホッとしたように、ため息をついた。何しろ玉拾いと言っても、右に左に走り回らなければならない。かなりの運動量なのだ。
「でも、さすがだなあ。あれだけのサーブを30分以上も続けて打ったのに、上原さん呼吸ひとつ乱れてませんね。ぼくなんて、ひどいもんですよ」
と、その部員ーー小山は言って額から流れる汗を拭った。
「いや、そんなことはないさ。いつだって練習は苦しいものだよ」
「ええっ! 上原さんでも、やはりそう感じるんですか。ああ良かった」と、どういう訳かしきりに感心している。
「上原先輩! タオルをどうぞ」
1年生の女子部員がかけよって来て、上原にタオルを差し出した。
「ああ、ありがとう」
上原がタオルを受け取ると、その女の子は急にはにかんだような表情をして頬を赤く染め、走り去って行った。
「何だ。ありゃ」
小山が女の子の行方を目で追うと、向こうに数人の
女子部員が集まっていてキャーキャー言ってる。その視線は当然、上原に注がれている。
「ああ、ぼくも1度でいいから上原さんのようにモテてみたいなぁ」
小山は率直な希望を述べた。
「小山」
「は? なんですか。上原さん」
「吉永真人って奴、知ってるか?」
「え? 吉永……真人ですか?」
小山は上原のことを『さん』付けで呼んでいるが、実際は同じ学年なのである。別に上原が年上で留年したというわけでもない。ただ単に小山は上原を尊敬しているだけなのだ。
「吉永って、あの吉永ですか?」
「知ってるのか?」
「ええ、そりゃまあ」
「どんな奴だ」
「……どんな奴って言われても、う〜ん、そうだなあ、ごく普通の奴ですよ。頭もそんなに良さそうには見えないし、運動もダメそうだし、何の取り柄もなけりゃ背も低い。あっ、これじゃ、普通以下ですね。まあ、そんな感じの男ですよ。あいつがどうかしましたか?」
小山は真人が聞いたら、身体中の血が逆流してしまいそうなことを言った。
「いや、別に何でもないんだが」
上原はそれ以上、何も言わなかった。
小山はしばらく、わけが分からないような顔をしてポカンとしていたが、やがて上原がラケットを持って立ち上がったのを見て、
「よし、モテるためにはまず第一にテニスの腕を上達させることだ」と呟いて、ふたたび玉拾いに走り出した。
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