ナナの音

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 りんごは赤色。いちごも赤色。トマトもさくらんぼもサンタさんが着ている服も私たちの中を流れる血の色も赤色――七海(ななみ)の母は娘にそう教えた。しかし七海には、りんごが、いちごが、赤色が、それらが一体どんな色なのか分からなかった。  それでも七海は母に色のことをたくさん訊いた。りんごには赤色のりんご以外に青りんごというものもあるらしいけど、それは緑色らしい。青信号も本当は緑色なのに信号らしい。 「じゃあ本当に青いものは何なの?」と七海が訊ねると、母親は少し考えて「海や空かしらね」と答えた。七海は海も空も見たことがない。だけど自分の頭の上をずっとずっと突き抜けていく空の青さを、頬を撫でる風の青さを、降り注ぐ太陽の青さを、それが青色なのだと、青色を自分の心の中に見た。  ある日テレビから『夕陽で真っ赤に染まった街並み』という言葉が聞こえた。七海はいつものように「夕方は街が赤色になるの?」と訊くと七海の母は「うーん……赤よりもオレンジ色かしらねえ」と答えた。七海はオレンジを食べたことがあるけど、それがどんな色なのかは知らなかった。しかしこの日から、夕方に聴こえてくる『夕焼け小焼け』のメロディ――それが七海の中でオレンジ色になった。  七海はそれからも自分の周りの色に名前を当てはめていった。 桜の香りに包まれた公園で、お母さんが髪の毛についた花びらをとって右手にそっと握らせてくれたときに見えた色は、あったかくて優しいピンク色。  海の粒同士がぶつかる音と、裸足の足を突然撫でた水の冷たさに身体が跳ね上がったときに見えた色は、パチッと弾けるコバルトブルー。  お父さんのために、お母さんと一緒に作ったクッキーが失敗したときに見えた色は、焦げた苦い苦い茶色。  クリスマスの朝、朝ごはんもまだなのに「特別に」って、あったかいストーブの前でサンタさんからのお菓子を食べたときに見えた色は、あまいあまいキラキラと輝く白色。  七海が知っている色の名前だけでは足りないほど、七海の世界はたくさんの色であふれていた。  小学二年生のとき、七海は今まで全く見たことのない、衝撃的な色に出会った。  その日、七海は母に連れられて市民ホールへと行った。世界的にも有名なヴァイオリニスト――テラダユミの演奏会があるらしく、「こんな小さな街にやって来るなんて」と母は興奮気味に自分の娘の手を引いた。  七海は母と手をつないだまま、市民ホールの入り口へとつづく階段をゆっくりゆっくりと上った。お母さんの左手から喜びや楽しみ、興奮、緊張、いろんな気持ちが伝わってきた。「本当にすごいのよ」と語りかける、母の言葉は優しいパステルピンクだった。  ホールの入り口でお母さんがチケットを渡すと、受付の女の人は「ホール内は段差が多いのでお気を付けください」と言った。  お母さんと一緒に重たい扉を二つ、身体で押すように開けると、少しひんやりとした空気と開演時間を待ちわびる人たちの小さなざわめきの熱がぶわっとやってきた。その雰囲気に七海もにわかに緊張し始め、お母さんが教えてくれたひとつ目の段差を踏み外して危うく転びそうになった。そんなことがあったから、ふたつ目の段差は手をつないだまま、転んでも大丈夫なようにお母さんが右手で胸を前から抱えるようにしてくれた。  段差をふたつ下りたところでお母さんが「こっちよ」と言った。お母さんに手を引かれながら座席の間を手探りで進んでいく。お母さんが「すみません」と小さな声で言ったところにはもう座っている人がいる。その人の足に引っかからないように注意しながらゆっくりゆっくりと進む。お母さんが「ここよ」と言って止まった。握っていた七海の右手をさらさらとした手触りの座席の上に置いて一緒にそれを倒した。七海はそれをまた手探りで確かめ、ゆっくりと腰掛けた。  この席はホールのどの辺に位置しているのだろうと七海が思っていると、「ここは舞台の正面だからきっとすごいわよ」とお母さんが興奮気味に言った。  席に座って待っている間、七海は静かにしていたが、興奮と緊張はどんどんと膨らんでいった。 「一曲目はなんていう曲?」  七海はそわそわしながら母に訊いた。 「『チャルダッシュ』っていう曲よ。たくさんの音があって、きっと楽しいわ」  知らない曲だった。お母さんが教えてくれた二曲目、三曲目も七海の知らない曲だった。 「あっ、でもアニメソングメドレーっていうのもあるわよ。これなら七海も知ってるんじゃないかしら?」  お母さんはメドレーにあるアニメのタイトルをひとつひとつ教えてくれた。最近流行りのアニメタイトルなら七海にも分かったが、母親が観ていたような時代のタイトルは知らなかった。だけど知っている曲も知らない曲も関係なく、七海の胸は高まっていった。  突如ブザーが鳴り響いた。開演の合図に七海は背筋を伸ばして息を呑んだ。  ざわめいていたホールがすうっと静かになる。静寂――他の人も七海と同じように姿勢を正し、息を呑んでいるのが伝わる。  舞台上で足音がコツコツと鳴り、それを客席の拍手が出迎える。その熱を帯びた音にみんなの期待が現れている。波が引くように再び静けさが訪れる。 さらに空気が張りつめた、と思った次の瞬間、静けさを撫でるようなピアノの音が響いた。  重く、一歩一歩踏みしめて歩くようなピアノの音色、そこにヴァイオリンの音色が重なる――。  哀しい、お母さんに叱られたときやクッキー作りに失敗したときの『かなしい』とも違う、七海が初めて見る哀しい音色。大人の哀愁の音色が七海を包んだ。  この女の人は何を哀しんでいるんだろう。この女の人も自分と同じように暗い暗いところにいるんだろうか――七海は思った。ヴァイオリンの音色を通じて、七海は女の人の哀しみを見た。  だけど、哀しい響きなのに、これから起こる何かを期待してしまう。七海の鼓動は徐々に高鳴る。深い深い群青に情熱の赤が隠れているような複雑な音色に七海は釘付けになった。  重くゆっくりとしたメロディと相反してどんどんと高まる七海の期待と鼓動、それが頂点に達したところで一瞬の空白が訪れた――。その無音に、身体が宙に放り出され浮いたかのような感覚をおぼえた。期待していた何かが来る――そう思った次の瞬間、唐突に激しく情熱的なリズムが七海を襲い、心を揺さぶった。  今すぐ立ち上がって踊り出したい――カラフルな雨のように降り注ぐそのヴァイオリンの音は七海の心臓を直接掴み、突き動かした。  七海は座ったまま、前のめりに身体を上下に揺さぶった。ローズレッドの長いスカートをひらひらと舞い上げながら踊る自分の姿を胸のうちに見て。  さっきよりもずっとずっと七海の鼓動は速くなっている。それに呼応するようにメロディの雨ももっともっと激しくなる。もっと激しく、もっと情熱的に、七海はいつまでも踊り続けたかった。  しかしヴァイオリンは不意に眠りにつき、『ああもう終わりなのか』と七海は思った。  楽しかった一日が終わり、布団の中でまどろんでいるような音色。お母さんが布団の上からポンポンと優しくたたいてくれている。さっきまでの余韻を残したまま、本当に眠ってしまいそうだった。  そして時間が止まったかのような静寂に、これもまた次へのであることを肌で感じた。  跳び起きるように再び色が弾けた。  七海は思わず立ち上がった。七海の母はそれを止めなかった。  会場に手拍子が巻き起こる。七海も小さな身体を震わせながら目いっぱい手をたたいた。ヴァイオリンと手拍子が追いかけっこをするようにどんどん、どんどん速くなる。  ホール全体が踊っている。情熱と歓喜の色に満たされる。  最高潮に達した興奮のまま、割れるような拍手が鳴り響いた。  七海も手のひらが痛くなるほど歓喜と興奮を爆発させた。心を(じか)に揺さぶるヴァイオリンの音色に、七海は今までに見たこともないほど色鮮やかな景色を見た。 「お母さん、わたしもヴァイオリン弾いてみたい」  閉演後、ホールを出る人の波が落ち着くのを席で待っている間、七海は言った。  今日、七海はたくさんの彩られた景色を見た。  荒れる海の上で剣を持って勇ましく戦う海賊。すべてを凍てつかせる北風が吹きすさぶ雪景色。アルプスの山もハイジも見たことないはずなのに、高原の草っぱらで少女と一緒に踊った。  ヴァイオリンの力に七海は魅了された。  今よりももっと幼かったころ、近所の公園で知らないおばさんに「まだ子どもなのに光を失っているなんて――」と言われたことがある。そのおばさんからすれば、ただの比喩表現だったのかもしれないが、七海はかなしくなった。違うんだ、わたしは暗闇にいるわけじゃない、わたしにもたくさんの色が見えているんだ――。ヴァイオリンを通せば自分の見ている世界をみんなにも見せられる、七海はそう思った。  七海の言葉にお母さんは「いいじゃない」と答えた。その言葉は東雲(しののめ)色の喜びに満ちていた。  市民ホールからの帰り道、七海は母と早速楽器店に寄った。所狭しと並ぶギターやベースといった楽器にぶつからぬよう、七海の母は娘の小さな肩を抱きながら店の奥へと進んだ。七海は店内のあちこちから聴こえてくるいろいろな楽器の音にわくわくしながら歩いた。まるできらきらと七色に輝く宝箱の中を歩いているような気持ちだった。 「あったわ。ケースの中にヴァイオリンがたくさん並んでる」お母さんの声もわくわくしているみたいだった。 「ちょっと待ってね。店員さんを呼んでくるから」  七海の左肩に置かれていた手がすっと離れた。ひとりになった七海は胸を高鳴らせながら、おそるおそる右手を伸ばした。不意に現れた冷たいガラスの感触に身体が一瞬緊張した。けれどそのまま指先でガラスに触れ、この中にあるという未知の楽器に想いを馳せる。  ――どんな楽器なんだろう。その音色しか知らない七海は頭の中で鍵盤ハーモニカのような姿を思い描いた。  しばらくそうしていると、お母さんともう一つの足音が遠くから聞こえてきた。 「この子なんですけど」お母さんの声がした。 「そうですね……この子くらいの身長なら四分の一か、二分の一サイズのものがいいと思いますね」  男の人の声がしてガラスケースが開かれる音がした。 「これが二分の一サイズのものですね。それじゃあちょっと左手を出してもらえる?」  男の店員は七海に優しく語りかけた。七海は言われた通り左手を声の方向に差し出した。手のひらに細い棒のようなものが置かれる。男の人のしっかりとした手が添えられ、七海の手と一緒にそれを包み込ませた。七海の指の腹に、ピンと張られた弦が触れた。 「しっかり持っててね。それじゃあ右手もいいかな」  店員は七海の右手をとって、ヴァイオリンの胴体に触れさせた。 「どんな形をしてるか分かるかな?」  七海はガラス細工を扱うように優しく右手を滑らせた。  ヴァイオリンはとても軽かった。なめらかな曲線をした本体に、左手で持っている棒がついていて、そこに弦が四本しっかりと張られている。本体にはお皿みたいなものが付いていたり、細長い(あな)が開いているけれど――。 「ウクレレみたい」  七海は家にあるウクレレを思い浮かべた。 「おっ、ウクレレを知ってるんだ。すごく近いかもしれないね」 「だけど今日聴いたのはウクレレみたいな音じゃなかった……」  七海は声のする方向に顔を向けて言った。 「うんうん。それじゃあもうちょっといいかな? 左手は優しく握ったままで少し顔を上に向けてもらえる?」  七海が言われた通りにすると、店員は七海の左手を優しく支えたままヴァイオリンの胴体部分を七海の首元にあてた。 「そのまま顎をおろしてごらん」  七海の左顎がさっき触れたお皿のようなものの上に乗っかった。  店員さんはさらに姿勢の細かな部分も手をとって教えてくれた。 「サイズはこれくらいがちょうど良さそうですね」店員さんは言った。 「それじゃあどうやって音を出すかだけど……姿勢はそのままで、右手だけお化けの手にしてくれる?」 「おばけのて?」  七海には手をだらんとさせるお化けのポーズが分からなかった。 「ああ、じゃあ右手の力を抜いててね」  店員さんは七海の右手をとって『お化けの手』をつくった。  お化けのポーズをした七海の右手にもっと細い棒が触れた。 「これはヴァイオリンの『弓』っていうんだ。持ち方が難しいから頑張ってね」  店員さんはそう言うと、弓に触れた七海の指一本一本の位置を調整した。 「力を入れて握らないように、支える感じかな? それで弓を弦の上に置くと――」  弓が弦に触れた瞬間、ポンと小さく跳ねて、短く小さな音がした。七海の胸も小さく弾んだ。 「弓を横に引いてごらん」店員さんは言った。  七海は息を呑んで、右手を動かした。(かす)れたような音しか出なかった。 「もうちょっと弓を弦に押さえながら動かしてみて」  店員さんの言う通り弓を動かすと――音が鳴った。七海の右手に小さくしびれるような振動を残しながら、長く伸びる音が出た。 「ウクレレみたいに弦によって出る音は違うし、弦を押さえながら弾くと違う音が出るよ」  七海は左手で四本の弦をいろいろな位置で押さえながら弾いてみた。  いろいろな音階が響いた。高い音、低い音、どの弦をどの位置で押さえればどんな音が出るのか、ひとつひとつ(いと)おしむように確かめた。綺麗な音色とは言えなかったが、七海の前にぱあっと華やかな光が見えた。  実際にヴァイオリンに触れながら、今日の演奏会を思い起こした。テラダユミさんの立ち姿、弦の上を踊る左手の指、それに合わせて力強く躍動する右手。自分にも同じように演奏できるのだろうか、小さな不安を胸に感じながら今日聴いた『チャルダッシュ』の冒頭をなぞってみた。とてもおぼつかなくて、ふらふらとしていて、音程もはずれ、全くなぞったとも言えないメロディだった。 「今のは……」  店員さんの声は少しの緊張を帯びていた。 「もしかして今日聴いた曲をおぼえてたの?」  お母さんの声は驚きに満ちていた。  七海は顎からヴァイオリンを外して小さくうなずいた。  母親と店員は目を丸くして言葉を失った。初めてヴァイオリンに触れた少女が(つたな)い指づかいながらもメロディを奏でたのだ。店員は壊れたレコードのように何度も何度も「すごいですよ」と繰り返し、母親は夫に相談する前にヴァイオリンの購入を決めた。  七海は不安を抱えながらもテラダユミさんに少し近づけたような気がして嬉しい気持ちだった。
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