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ぐぅ、と腹の虫が鳴ったのは電車を降り、自宅アパートに向かって歩いているときだ。
日が長くなってきたのか、空が西日に赤らんでいる。居酒屋ではグラス二杯のビールとお通し、二~三切の刺身だけしか口にしていない。昼も営業先店舗のネット回線が急に切れ、対応に追われていたら食べ損ねてしまった。
家の冷蔵庫には豆腐ともやしがあった気がする。でもそれだけじゃさすがに白飯のおかずにはならない。ていうか、考えだしたらもっと味が濃くてガツンと腹にたまるものが食べたくなってきた。
牛丼、ラーメン……は駅前にしかない。駅に戻るのは面倒だ。いっそコンビニ弁当にするか。幸い、ちょっと行った先にはコンビニがある。
舌はすっかりこってり味の気分だった。コンビニを目指して歩いていた俺の前に、それは現れた。
「餃子……無人、直売所?」
歩きながらふと横を見ると、白い暖簾にまるで習字で書かれたような達筆な字で『餃子の無人直売所』とあった。なんてわかりやすい店構えだろう。ガラス張りの向こうには、業務用の大型冷凍庫が無機質にずでーんと横に並んでいる。見る限り先客は金髪の男で、スマホで誰かと通話しながら餃子を選んでいるみたいだった。
餃子。いいかもしれない……いや、めちゃくちゃいい。家にはビールと昨日の夜に炊いた白飯があるし、今の気分的にもぴったりだ。
俺は迷うことなく、餃子の無人販売店のガラスドアを引いて開けた。
けれど開けた瞬間に後悔した。頭が割れそうなくらいでかい男の話し声が、耳に入ってきたからだ。なんでそんなにでかい声を出す必要があるんだ、と大声を被せたくなるほどの大音量。
「えー、ニンニク入ってた方がおいしいじゃん。一緒に食べたらおんなじだって」
遠慮のない笑い声に、俺の脚は一瞬ためらった。だが、そんなときに限って俺の腹は空気を読まずにぐぅと鳴る。
だめだ。男のでかい声のせいで、さらに体力が奪われてしまったようだ。今からコンビニに行き、何を買うか選ぶ元気もなくなった。なによりこの男一人のために餃子を諦めるのはなんだか悔しい。
男を斜め後ろから窺う。ウルフカットの金髪から見える小ぶりな耳には、いくつものシルバーピアスが刺さっている。全身ゼブラ柄の薄いパーカーに身を包み、手に持ったカゴの中で天日干しのように寝ているのはブランド物の長財布だ。極めつけは「マイちゃんカワイイ~」という軽い口調。タンポポの綿毛の方がまだ重たい気がする。男の印象は『チャラい』以外には、いい表現が思いつかなかった。
男の特徴からホストだと見込んだ俺は「ま、いっか」と思った。余計なことをしなければ、向こうも自分みたいな地味サラリーマンに絡んでくることはないだろう。
とはいえ、でかい声のせいで耳がイカレでもしたら大変だ。俺はなるべく気配を消し、三つ並んだ冷凍庫を一つ挟んで男と距離を取った。
餃子は一パック八個入りらしい。種類はノーマル、ニンニク増量、ニンニク無し、野菜のみ、大葉入り、と五種類のようだ。バリエーションが豊富で、地味にテンションが上がった。
まずは王道のノーマルからいこうか。いやでも明日は仕事が休みだからニンニクを増量させたい気もする。大葉入りも安定感があって安パイだ。というか、冷凍なんだからいっそのこと全種類買ってしまうか。
うーん、と冷凍庫の前で唸っていると、隣からギョッとするセリフが飛んできた。
「じゃあチューしないの? おれはマイちゃんのこと、こんなに愛してるのに?」
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