否定排他的論理和

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 キーボードをたたくと、真っ黒なウィンドウに白い文字が次々と表示され、文字が上に流れていく。デバッグ用に出力させているだけだが、見る限り順調にシミュレーションは実行されているようだ。  世間一般では真っ黒な画面をキーボードだけで操作している人をハッカーだと思う節があるようだ。だが、ちょっとでもプログラミングをかじったことがある人ならそんなもの一笑に付するだろう。広く普及しているパソコンの操作がキーボードのみになっただけだし、真っ黒な画面に白い文字も目に優しいからそういう設定にしているだけのことだ。 プログラムに初めて触れたのは大学生のときだった。当時は世間一般の人たちと同じように、黒い画面をキーボードだけで操作する様にときめいた。だが、大学で四年間プログラミングを学び、卒業後はシステムエンジニアとして就職し、二年目ともなると当初のときめきなど消え失せ、毎日の仕事に疲弊するばかりだ。  そんなことをぼうっと考えていると真っ黒なウィンドウにerrorの赤文字が一瞬表示されたように見えた。だがすぐに別のログ表示が画面を埋め尽くし、赤文字はウィンドウの外へ消えていった。 見間違いであってくれ、わたしはそう祈りながらマウスを使ってウィンドウを上にスクロールし、出力されたログを確認する。  errorの赤文字はその名のとおり、シミュレーションで意図しない動作をした場合に表示される。つまりたった五文字でわたしの気分をどん底に突き落とす存在なのだ。  スクロールしていると、errorの文字を見つけてしまった。  わたしは周りに聞こえるか聞こえないかくらいの音で舌打ちをした。クソだ、なにもかもが。わたしが汚い言葉を使うと両親や友人にたしなめられることが多いが、そんなことはどうでもいい。とりあえず、クソだ。好きでもない仕事も、それにしがみつかないといけない自分も、産廃みたいなソースコードを書いた前任者も、全てが。  わたしは一度深呼吸してシミュレーションを打ち切った。一度でもerrorが出力されたソースコードに価値はない。  こんなにすさんだ気分になるのは、きっと今の仕事が上手くいっていないからだ。気持ちを落ち着かせるためにもう一度深呼吸してから、立ち上がった。 「綾木さん、飲み会会場予約した?」  隣の席で三つ上の細貝さんから声をかけられた。細貝さんは入社時のわたしの指導係だった。女性同士だし、お互いやりやすいでしょう、という配慮がなされたらしい。そのこと自体は別にいいが、というよりかはありがたかったのだが、あまりスキルはないようで、入社半年もすればわたしのほうができる人になってしまった。だからといって下に見ているとかはない。今もこうして本業ではない仕事のフォローをしてくれるいい人だ。 「いえ、まだです」 「もう六月でシーズンではないから大丈夫だとは思うけど、早めにね」  わたしは「はい」と気のない返事をしてから廊下に出た。エレベーターに乗り込み、最上階まで移動する。最上階にはこぢんまりとした喫煙所が設けられていて、その隣にわたしのお目当ての自動販売機がある。ペットボトルの冷たいコーヒーを買ったところで、喫煙所に春宮さんを見つけた。  春宮さんはわたしの五つ上の男性の先輩で、おちゃらけていて軽い人だ。なにを間違ったのか、文系出身でパソコンすら満足に操れない状態でシステムエンジニアとして入社したらしい。入社してしまえば、なんとかなるものらしく、これまでやってきたと本人は自慢気に語っていた。ただ、その裏にはきっと春宮さんの仕事を「なんとかしてきた」人たちがいるはずだ。その苦労を知る日が春宮さんにくるだろうか。いや、きてほしい、是非とも。 「お、綾木ちゃん」  喫煙所から出てきた春宮さんがわたしを認めると話しかけてきた。 「どう、元気?」 「……まあ、なんとか」 「いやいや、そうは見えないって」  春宮さんの大きく明るい笑い声が耳障りだ。煙草の匂いも、無責任な言動にも腹が立つ。春宮さんは三〇分に一回は煙草休憩に消える。その分成果を出しているかといわれると、ノーだ。 「どう、おれから引き継いだ仕事は」  そう、わたしを今苦しめているソースコードはこの人が書いたのだ。一度世にリリースしたものの、不具合報告が相次ぎ、調べるとほとんどこの人の担当箇所でバグが起きていた。不幸にもその事実が発覚したのが、人事異動でこの人が担当を外れ、わたしが引き継いでからだった。 「大変なんですけど。というより、メール返してください」  この人のソースコードはぐちゃぐちゃで、目を覆いたくなる。どうしてこんな実装をしているのか、この変数の意味はなにか、不明点が多すぎる。そのことをメールで聞いてもほとんど返ってこない。 「まあ、おれも忙しくてさ」  そう言うと春宮さんはすぐにこの場を立ち去ってしまった。向こうからわざわざ話しかけてきたのに、仕事の話になると途端にこれだ。担当を外れたことをいいことに、逃げの姿勢が透けて見える。  殺すぞ、わたしは逃げゆく背中に呪詛を吐き、ペットボトルを握りしめた。  自席に戻ってゆっくりとコーヒーを流し込んだ。コーヒーが特別好きなわけではない。連日残業続きで睡眠の質が低下しているのか、日中に睡魔が襲いかかってくる。それに勝つために飲んでいるだけだ。コーヒーが原因で眠れないんじゃないの、と言う人もいるが、それは違う。目の前のモニターに映し出されている穢らわしいソースコードこそが原因だ。  エラー内容を確認し、該当箇所を探り当てていかないといけない。原因を特定し修正、またシミュレーションを流す。問題ないことが確認できたので再度リグレッション試験を実行する。リグレッション試験とはソースコードに変更を加えた際に他の箇所に影響がないかを調べる試験だ。言ってしまえば、検証内容に沿ったテストパタンをすべて流し直すのだ。  真っ黒なウィンドウに次々とログが表示されていく。だがすぐに、ウィンドウがerrorの文字を吐きだした。ここ一ヶ月これの繰り返しでうんざりする。どこかを直すと、別の箇所でエラーになる。この機能とこの機能は独立しているから影響ないだろう、と油断していると大体エラーになる。  これを作った人は死ね、わたしは頭の中で何度も春宮さんを呪い殺した。  金曜の夜だが、飲み会会場はがらんとしている。いくらシーズンを過ぎているからといっても、金曜の夜にわたしたち二十人弱しかいないのはどうなんだろうか。  半ば強制の飲み会以外参加しないわたしが飲み会会場にいるのは、これが半ば強制の飲み会で、幹事がわたしだからだ。 今週の月曜日に、わたしたちの部署に派遣社員が三人やってきた。今日はその人たちの歓迎会だ。 「はい、それでは、飲み物は用意できましたね」  春宮さんが意気揚々とこの場の進行役を務めようとしている。どこから聞きつけたのか知らないが、違う部署にも関わらず、なぜか春宮さんが飲み会会場に現れてしまった。そのせいで幹事のわたしは予約時より一名増えてしまったことを店員さんに平身低頭伝えなくてはならなくなった。どこまでも迷惑なやつだ。  春宮さんが乾杯の音頭を取り、それにみんなが続く。わたしも適当にグラスをぶつける。この男は仕事を全然しないくせにこういうことだけは目ざとい。わたしからのメールは依然として無視され続けている。 「まずは自己紹介をしましょうか」  春宮さんがすっかりこの場を仕切ってしまっている。周りの人もそのほうが楽だからか、とくになにも言わない。この人は営業部でお客さんとお酒でも飲んでいたほうがいいんじゃないだろうか。営業といえば飲み会、みたいな考えは古いのだろうか、そんなことを考えているうちにわたしの番がきた。 「綾木果穂です。二年目の若手ですが先輩の仕事を完璧にフォローしています。よろしくお願いします」  場を乱さない程度の皮肉を効かせたつもりだが、本人は自覚がないのか、無邪気に拍手をしている。手元のビールを春宮さんの頭からかけ、グラスで頭蓋骨を陥没させてやりたい。 「名波(なは)優子です。わたしも二年目で、分からないことがいっぱいですけど、頑張ります。よろしくお願いします」  わたしの斜め左前に座っている女性が自己紹介をした。派遣社員三人のうちの一人で、今日の主賓というわけだ。三人とも表向きは同じ会社から派遣されていることになっているが、それが本当かどうかはわたしには分からない。人材の派遣を依頼した会社がさらに別の会社から人を引っ張ってきている場合が多々ある。このへんは、手垢がついた表現をするなら、IT業界の闇といったところだ。  それにしても、初対面のときにも思ったが、名波さんはいい声をしている。鈴をころがすような声とはこういうことをいうのだろう。おまけに容姿端麗ときた。名波さんとは今日がはじめましての春宮さんは頬を上気させている。 全員の自己紹介が終わり、自由に話す段になると、自然と名波さんが中心となった。派遣社員のうち他二人は冴えないおじさんで、あまり見向きされていない。  わたしも当たり障りのない範囲で受け答えし、会話に参加する。こんな無益な時間は早く終わってほしい。仲良くする気も、仲良くなりたいという気持ちもない。だからといって和を乱したり、あからさまな態度はとったりはしない。そんな子供じみたことはしないし、なによりこれは処世術だ。 わたしの表情筋が痛み始めたころにようやくお開きとなった。明日は顔が筋肉痛だろう。  腕時計をちらりと見ると時間は二三時近かった。次々と人が引き上げていくなか、名波さんはテーブルに突っ伏して寝ている。 「名波さん、起きて下さい」  わたしが名波さんの肩に手をかけ揺すると、名波さんが小さくうめいた。名波さんの柔らかな肉付きが手に伝わってくる。 「寝てなーいですよ」  名波さんが突然立ち上がり、お酒がまだ残っているグラスを全てかき集めた。それらを一つのジョッキに次々とぶち込んでいく。ビール、日本酒、ワインの赤と白、焼酎。ジョッキからお酒があふれても気にすることなく名波さんは注ぎ足していく。あふれたお酒はテーブルに広がり、やがて派手な音を立てながら床に零れ落ちていく。ブランデー、ジン、ウイスキー。 「これぞ、ちゃんぽんです」 「ちょっと……」  わたしの制止も聞かず、名波さんはオリジナルブレンド酒を一気にあおった。なんともいえない匂いの液体が、名波さんの口からこぼれ、服を濡らす。細貝さんもこれには目を丸くし、春宮さんも引きつった顔をしている。 「お酒がもったいないですからね」  名波さんは飲み干した後、こともなげに言ってのけた。  名波さんがテーブルを回ってこっちに来たかと思ったら足元がおぼつかない。名波さんがよろめき、わたしに正面からしだれかかってきた。わたしは名波さんと一緒に倒れそうになったが必死に受け止めた。アルコールと香水とが混ざった香りがわたしの酔いに拍車をかけ、吐き気を催しそうになってしまう。 「綾木さん、悪いけど、名波さんを送ってもらえる」  わたしにそう頼んだ細貝さんは名波さんと関わりたくなさそうな表情を浮かべている。わたしだって関わりたくないが、こればかりはしかたがなかった。 「大丈夫らすって、ちゃーんと帰れまうよー」  名波さんの目がとろんとしているし、呂律が回っていない。 「……家の最寄り駅は?」 「えーっと、どこですかねえ」  名波さんがどれだけ正常な判断ができているか確認したかったのだが、どうやらだめそうだ。人間の帰巣本能を期待して名波さんを放り出したかったが、細貝さんにお願いされた以上そうするわけにはいかない。 「綾木さんは家近かったよね」  細貝さんの質問に「はい」と頷く。 「綾木さんの家に連れ帰ってもらってもいい?」  わたしの家は飲み会会場から三駅だ。帰るのが楽だから、と幹事権限でこの場所を選んだのが裏目に出てしまった。  そんなお願いはつっぱねたかった。よく知らない人を、しかも酔っ払いを自分の家に連れて帰るなんて。一人暮らしだからだれに迷惑をかけるでもないが、そんなことを気にしているのではない。 でも無碍にはできなかった。気がつけば春宮さんを含め、他の連中はみんな引き上げてしまったのに、細貝さんだけは私たちを心配してくれている。 「分かりました」  家に着く頃には日付が変わっていた。名波さんはほとんど自力で歩かず、わたしが必死にひきずらなければならなかった。普段の運動不足もたたってか、足腰が痛い。明日は顔も全身も筋肉痛だろうし、今日が金曜日で本当によかった。  玄関を開けてすぐの細い廊下に名波さんを横たえた。細貝さんとの約束どおり、家には連れ帰ってきた。この人が廊下で寝て、次の日に体の節々を痛めていたり、体調を崩したりしてもそれはわたしの預かり知るところではない。  部屋着に着替え、一人掛けのソファにどかっと座った。 「疲れた……」  今日は散々だった。ただでさえ嫌いな飲み会に、酔っ払いを連れて帰ってこなければならなかった。東京の片隅の小さなワンルーム、ここは社会人になってからのわたしの城だ。大学の友人とはまだ交流があるが、この家に上げたことは一度もない。そもそもわたし以外の人がこの家にいたことがない。初めて家に上げたのが、どこのだれともよく知らない職場の、しかも正社員ではない人間だとは、変な気分だ。  風呂に入って寝ないといけないのに動けず、ついついスマホをいじってしまう。生産的でも有益でもないことは分かっているのだが。  廊下からかすかにうめき声が聞こえた。起きたのだろうか、と思ったが、すぐに声が消えた。そういえば、吐瀉物を喉に詰まらせて死亡する事故をなにかで見た気がする。  名波さんはどうでもいいが、わたしの城が汚れるのは嫌だ。わたしはゆっくりと立ち上がって廊下にでた。  名波さんわたしが廊下に置いたときと同じ姿勢のままだった。 「名波さん」  わたしは呼びかけながら、何度も頬を強めに叩いた。整っている綺麗な顔を物理的に攻撃しているシチュエーションに若干のいやらしさを覚えてしまう。この顔とお酒に酔った勢いでいったいどれだけの人を手玉に取ってきたのだろうか、と柄にもないことを考えてしまう。名波さんを叩く手につい力が入ってしまった。 ううんと名波さんが呻き、上半身を起こした。 「ここは……」 「わたしの家です。名波さんが帰れなさそうだったので連れてきました」 「そうだったんですね、ご迷惑をおかけしました」  名波さんがゆっくりと立ち上がったが、その足下はまだおぼつかない。もう平気ですよね、と言って追い出したいが、それはできそうにない。 「泊まっていってください。名波さんには床に寝てもらいますけど」 「いいんですか? ありがとうございます」  名波さんを部屋に招き入れ、床に座らせた。わたしは台所に行き、コップに水道を注いだ。冷蔵庫にはミネラルウォーターが入っていて、それを出そうかと思ったが、もったいないからやめた。氷も入っていないぬるい水道水で十分だ。  名波さんにコップを渡すと、嫌な顔ひとつせずに飲み干した。  ソファに座り、名波さんとは小さなテーブルを挟み向かい合った。ソファもテーブルも、部屋が狭いから小さい。 「綾木さん、助かりました」  さてどうしたものかと困惑していたところ、名波さんが口を開いた。 「綾木さんの家に連れてきてもらえて。綾木さんと仲良くなりたいなと思っていたので」  そう言って名波さんが微笑んだ。この笑顔と社交辞令の餌食になった人は多いだろう。でも私には無意味だ。魅力的であることは認めるが、わたしは仲良くなりたいなどとは思わない。そんなだから、どう返せばいいか分からず 「そうですか」 と曖昧にしか返事ができなかった。 「本当に仲良くなりたいと思っていますよ」 「どうして……」 「わたしたち、結構似ているなあと思いまして。この会社に来てからまだ一週間ですけど」 不快だ。社会人二年目でだれかに介抱されないといけないような飲み方をするような人と一緒にされたくはない。 「どの辺がですか」 「一番は、頼まれたら断れないところですね。仕事もそうですけど、さっきみたいにわたしの介抱を頼まれたときも断らなかったじゃないですか」 「それは名波さんのためじゃないですよ。細貝さんには日頃……」 「そういうところです」  名波さんが口を挟み、ぴしゃりと言い切った。まるでこちらの言い分をすでに知っていたみたいだ。 「自分の本心とは裏腹に、周りからの目や評価を気にしてしまう。そうですよね」  名波さんはしたり顔で話しているが、断じてそんなことはない。だいたい上の人から言われた仕事を、理不尽である場合を除いて、一会社員が断れるわけがないのだ。 「細貝さんにはお世話になっているから、引き受けた。それだけですよ」 「他人に指摘されたら、あたかも本心であるかのように振る舞う。それもわたしに似ています」  こっちが必死に否定してもむだだろうとわたしは悟った。この人は結論ありきで話している。こちらがなにを言おうと、その結論に必ずたどり着くように論理を述べるだけだ。 「名波さんがどう考えていようと自由ですよ」  体が重くて目が覚めた。昨日はあの後、少しだけ険悪になってしまい、逃げるようにシャワーを浴びた。部屋に戻ると名波さんは床で寝てしまっていた。スーツではなくビジネスカジュアルとはいえ、仕事で着ていた服のままよく寝られるものだと感心した。  窓からカーテン越しに日が差しているからそろそろ昼頃だと分かった。  体を動かそうとするが上手く動かせない。筋肉痛かと思ったが、わたしの上に大きな固まりがのっかっているのに気がついた。さらに右手は指と指を絡めるようにして手が繋がれている。名波さんだ。 「名波さん、起きて下さい!」  名波さんの耳元で叫ぶと、名波さんの体がびくりと震え、寝ぼけ眼の名波さんが顔を上げた。 「あ、おはようございます」 「とりあえず、どいて」  名波さんは素直にわたしの言葉に従い、すぐにベッドから這い出て床に座った。 「床だと寝にくくて、すみません」  名波さんに悪びれる様子はない。なにが床だと、だ。酔って自宅に帰れなさそうなほど飲んだ自分を恨め。 「名波さん、シャワー浴びました? 汚いままベッドに入られるのすごい嫌なんですけど。それに飲み会後の服って、煙草にアルコールに香水と、匂いが染みついて、それがベッドに移るし……」 「いやがるのは、そこなんですね。……ふーん」 名波さんが遮り、意味ありげな笑みを浮かべた。 「え、春宮さん、あのお店のケーキ食べたことあるんですか」 「あるよー。一時間くらい並んだけど、それだけの価値はあったよ」 「いいですね、わたしも行ってみたいんですよね」 「今度一緒に行く?」  春宮さんからの誘いを、名波さんは巧みに躱し、春宮さんが自席に戻った。雑談は終了したようだ。 名波さんを家に泊めてから二週間が経っていた。あれ以降大きな事柄はなく、ほとんど同じような毎日が繰り返されている。同じとはつまり、担当しているソースコードのエラーと戦う日々のことだ。  どうも変な作りをしている。春宮さんにメールで問い合わせても、直接顔をつきあわせて会話をしても、はぐらかされてしまう。名波さんと雑談する暇があるなら、仕事をしろ。そしてわたしの質問に答えろ。  それと、名波さんについても大体のことは分かった。愛想と人当たりがよく、人柄に関しては問題がない。それどころか人気者だ。若い人からおじさん社員まで、なにかと理由をつけては名波さんに話しかけている。おじさん社員は「名波さんのおかげで職場が華やぐよ」とよく言っているのを耳にする。反面、仕事はいまいちで、名波さんの仕事は同じ派遣社員の他二人がカバーしているようだ。依頼している分の仕事はこなされているから、こちら側としては文句を言う人はいない。  定時になると、名波さんはさっさと帰ってしまう。残業しているところは見たことがない。  わたしは一時間程度残業し、荷物をまとめ会社を後にした。今日は金曜だというのに、気分が晴れない。今頃パソコンがリグレッション試験を必死に実施し、大量のエラーログを吐き出しているだろう。来週からのことを考えると、すでに憂鬱だ。  家の玄関の前にだれかが座っている。だれだろうかと警戒していると向こうから声をかけてきた。 「あ、ようやく帰ってきましたね」  声で名波さんだと分かった。家を覚えられてしまったのか。最悪だ。 「なにか用ですか」 「一緒に飲みましょう」  名波さんがスーパーの袋を高々と掲げた。中身が重いのか、腕がわずかに震えている。袋が白いせいで中身は分からないが、名波さんの口ぶりからすると大量のお酒が入っているのだろう。 「いやです」  わたしは一瞥もくれることなく、背を向け、家の玄関に鍵を差し込んだ。 「どうしてですか、いいじゃないですか」 「疲れているし、そういう気分じゃないです」 「了承してくれるまで、ここで騒ぎ続けますよ。近所迷惑になりますよ」  この時点で十分うるさい。名波さんの言うとおり近所迷惑になる。近隣住民との無用な衝突は避けたい。 「……入って。でも絶対静かにね」  名波さんを介抱しなければよかった。そうすれば、家を知られることなく、名波さんに気に入られることもなく、貴重なわたしの時間を削らなくてすんでいたはずだ。  部屋に入ると、名波さんは勝手にテーブルの上にお酒とおつまみを広げていく。まだなにも言ってないのに、自由な人だ。  わたしは名波さんの横で部屋着に着替えた。 「これは全部わたしのおごりです。……あ、綺麗な体してますね」 「名波さんが勝手に来ただけだから、当然でしょ。それと、褒めても一銭も出しませんよ」  名波さんはちぇ、とわざとらしい舌打ちをし、口をとがらせた。こんな感じに調子を合わせていれば、名波さんは満足して帰ってくれるだろうか。  お互いビール缶を開け、「お疲れ様です」と言って缶をぶつけた。わたしは一人掛けのソファに、名波さんは床に座布団もなしで直に座っている。人が来ることを想定していないからしかたがない。 「綾木さんって仕事熱心ですよね」 「いや、全然」 「そうですか? 結構残業しているって聞いてますよ」  残業していれば仕事熱心という図式はよく分からない。だが、一切残業をしない名波さんからすればそう見えてしまうのだろう。  ビールを一気に飲み干し、二本目を開けた。面倒だし、さっと酔って寝てしまおう。 「わたしは絶対いやです、残業。というより仕事が」 「まあ、仕事が好きな人なんて滅多にいないんじゃないですか。特にIT業界は」  わたしの偏見もあるかもしれないが、ITが好きでこの業界に入ってくる人は少ない。門戸が広いのと、飯の種として困らないことを理由に入ってくる人がほとんどだ。 「名波さんは毎日定時で上がって、なにをしているんですか」 「特になにかしているわけではないですよ。大きな目標もやりたいこともないので。ただ、仕事で私生活の時間を一秒たりとも削りたくないだけです」  名波さんのお酒を飲むペースが早い。もう五〇〇ミリリットルのビール缶を三本空けている。わたしもつられてついピッチがあがってしまう。いい具合に酔いが回ってきた。このまま寝てしまえそうだ。 「仕事が残っていてもですか」 「はい、そうですよ。わたしの力量に見合わない仕事量を振ってきた人の責任ですから」  根本は春宮さんと一緒だ。あの人は適当に仕事をこなし、まずくなったら周りの人がフォローに入り、帳尻を合わせる。本人はそれでなんとかなっていると主張している。きっと名波さんも。とはいえ、春宮さんとは違い、名波さんが仕事できなくてもわたしに影響はないから、名波さんがどんな考えでもわたしの知ったことではない。 「そんなわけでわたしからすれば、残業している綾木さんは仕事熱心に見えるわけです」  名波さんが五本目の缶を開けた。アルコール九パーセントのお酒だ。あれを飲むと次の日は必ず頭痛になるから嫌いだ。  名波さんと春宮さんは同じだと思ったが、決定的に違う部分があるではないか。お酒を飲んでいるのに、思考回路は生きている気がする。 「名波さんは、いずれ結婚して寿退社できる人だからそんなふうに考えられるんですよ」  そう言ってから、名波さんが動きを止め、同時に空気も固まった。名波さんが少し目を伏せ、しばらくしてから缶と一緒に天井を仰いだ。喉が勢いよく上下し、口に入りきらないお酒が顎を伝い名波さんの服を濡らしていく。飲み干した缶を名波さんが片手で潰した。その指は白くなり、震えている。名波さんが勢いよく腕を振って缶をテーブルに投げつけた。ガン、と大きな音を立て、壁際まで飛んでいく様子をただ見ることしかできなかった。中身が少し残っていたのか、液体が壁に飛び散ってゆっくりと広がり、アルコール臭が部屋を満たした。 「よくもまあ、そんなことを言えますね」  名波さんがわたしに顔を近付ける。お酒の匂いにくらっときてしまうが、名波さんの深くて黒い目を見て、そんなものは吹き飛んだ。 「わたしがどういう人間か知りもせず」 「ちょっと……」  なにか言おうとしたが遅かった。唇を唇で塞がれた。  強烈な喉の渇きで目が覚めた。起き上がろうとしたが、頭が割れるように痛いし、体が重くて動けなかった。  あの後の記憶がない。名波さんが怒ったはずだ。それから……。  少しだけ肌寒さを感じ、掛け布団を首元まで引き寄せるために右腕を動かそうとしたがびくともしない。それに、普段寝るときとは違う肌触りが全身でする。首をゆっくり動かすと右腕には名波さんが絡みついていて、お互い裸だ。しばし呆然としていると、名波さんが起き上がった。 「おはようございます」 「……どうして、裸なの……」 「覚えていないんですか?」  名波さんはわざとらしく目を見開き、すぐにいつもの笑顔に戻った。酒焼けしておらず、声も相変わらず綺麗なままだ。 「一緒に寝たんですよ。いやあ、お酒の勢いってやつですね」  寝た、とはつまりそういうことなのだろうか。お互い服を着ていないからそういうことだろう、と妙に冷静な分析が脳内を駆け巡る。 「すみません、あまり覚えていなくて……」 「行為のことはどうでもいいですけど、結婚して寿退社する人って言われたのは傷つきました」  そのことは微かに覚えている。アルコールが回っていない頭で考えるとなんとも無神経な発言だったと思う。 「綾木さんがそんなステレオタイプな人だったなんて……」  名波さんはまたわざとらしく大袈裟な動作で泣き真似をした。 「仕事が嫌いであることを熱弁していたからつい、結婚して家庭に入るつもりだとばかり……」  無神経な発言にさらに言い訳を重ねているようで、自分の発言に落ち込みそうになる。決して傷つけるつもりはないのに。いや、昨日はどうだっただろうか。仕事のストレスと名波さんが急に現れたことの両方で苛立っていたのは確かで、傷つけようとしていたのもまた、確かだ。 「理想はそうですけど、この国じゃあむりですから」  結婚はもとより、生活面でも厳しいだろう。男女の給与格差は盛んに叫ばれている。そもそも男女に限らず、人を一人養うだけの給与を貰えている人が今の日本にどれだけいるのかすら疑問だ。わたしも一人だからなんとかなっているのが現状だ。  名波さんがシャワーを浴びにいった。その間にわたしはとりあえず服を着て、部屋の片付けをすることにした。どうして家主がこんなことを、と思いもしたが、お酒の代金と昨日の言動を考えるとまあ仕方がない。  名波さんが浴室から出てきたので、わたしも入れ替わりでシャワーを浴びる。浴室から出ると名波さんは昨日の残ったぬるいお酒を飲んでいた。長居されるのはたまったものではない。やいのやいの言う名波さんを家から追い出した。  月曜になり出社すると、エレベーター内で名波さんと鉢合わせた。名波さんは何事もなかったかのようにあいさつをしてきた。ああいうことには慣れているのだろう。わたしはこんなこと初めてで、昨日の夜から悶々としていたのに。  会話らしい会話もなくフロアに入り、お互いの自席に座った。始業前だが、シミュレーション結果の集計用スクリプトを実行させた。出るわ出るわ、エラーの数々。この嫌な習慣にも慣れてしまっている自分に嫌悪感を覚える。  毎日同じことの繰り返し。変化があるとすれば、仕事量くらいだ。細貝さんに別の仕事を頼まれてしまった。シミュレーションを流しているときは基本的に手が空くから断り切れなかったのだ。  変化といえばもう一つ。名波さんだ。金曜の夜に家に帰ると、やはりというか、予感がしたというか、名波さんが玄関で待っていた。先週と同じように大量のお酒も抱えている。抵抗するのはむだだと思い、なにも言わず家に上げた。お酒が進み、先週と同じことが起きた。 「ゆい、ってだれですか?」  小休止中に気になっていたことを聞いてみた。わたしの言葉に名波さんが目を見開いた。これは演技ではなさそうだ。わたしの下の名前は「果穂」だから絶対にわたしではない。 「どうして……」 「いや、ずっと名前間違えてましたよ」 「……元カノです。いいでしょこの話は」  ずっと敬語だった名波さんが初めてそれを崩した。そこに動揺を見て取ったが、それ以上つっこんで聞く気にはなれなかった。名波さんの過去に興味はない。そもそも名波さんを好きではないし。じゃあこの状況はなんだ、といわれてしまうと返答に窮する。 「綾木さんも、気をつけたほうがいいですよ」 「なにをですか」 「大事なものは失ってから気がつきます。綾木さんとわたしは似ているので、綾木さんもきっとそうなりますよ」 「わたしに大事なものなんてないですよ」 「ですから、失ってから気がつくんですって。例えば、わたしとか」  それは一番ありえない、と苛立ちを隠さず言おうとしたが、それは名波さんの唇にさえぎられた。  名波さんとは毎週金曜日にわたしの家で飲むようになった。特段約束しているわけではないが、定時で上がる名波さんは必ずわたしの家の玄関前にいる。そんなことが一ヶ月ほど続いている。  そして今日は金曜日だ。 「名波さん、まずいらしいじゃん」  いつものように最上階の自販機でコーヒーを買うと、春宮さんが話しかけてきた。 「名波さんはいいから、メール返してくださいよ」  わたしは六月から続く仕事にまだ苦しめられていた。何度か修正版をリリースしているが、細かい不具合報告が後を絶たない。改善はしているが、ゼロにはならない。 「まあまあ、名波さんのこと知りたいでしょ」 「いえ、とくには」 「仲いいみたいだし、ちょっと小耳に挟んだことを教えてあげるよ」  名波さんとは社内でほとんど話さない。それでも春宮さんが仲いいと称するのはどういうわけなのか。おおよそ名波さんがわたしと家で飲んでいることを話しているのだろう。 「で、なんですか」  春宮さんを適当にあしらいたかったが、しつこいので大人しく聞くことにした。 「名波さんの契約が切られるかもしれないってさ」  青天の霹靂とはこのことだ。派遣社員である以上、いつかは切られる。それが一年後か十年後かは分からない。しかし、名波さんはここに来てまだ二ヶ月弱だ。契約面のことはてんで分からないが、それは横暴ではないだろうか。 「どうしてですか」 「どうも、名波さんの成果物がだめだめらしくって。ほら、名波さんのチームを管理しているの青木さんじゃん」  青木さんか……。青木さんは、定年間近のベテランで仕事がすごいできる人だ。ただ、言動が粗野で、仕事内容に不満があると声を荒げることが多い。 「だからっていきなり契約終了は話が飛びすぎじゃないですか」 「それが、どうも基本動作すらまともにできていないものを出してきたらしくってさ。『こんなもん出してきやがって御社のチェック体制はどうなってんだ』とか『できないならできないとはっきり言え』とかすげえキレてるらしい」  わたしはそうですか、と言って春宮さんから逃げた。 一緒に仕事をしているわけではないが、名波さんのスキルについては薄々察していたつもりだ。だが、わたしの予想をさらに上回っているらしい。普段の様子を見ていると、ほとんど手も動いていないのに、毎日定時で上がっているし、それではまともな成果物もないだろう。  自席に戻ると定時を五分過ぎていた、名波さんの姿はそこにない。名波さんと同じ派遣社員の人はあせくせと働いているにも関わらずだ。  あの人たちの立場を考えるとこちらの胃が痛む気がする。こちらが巻き込まれませんようにと祈りながら、残りの作業を終え、退社した。  帰宅すると、やはり名波さんは玄関前で待機していた。 「おかえりなさい」  今日もお酒を飲み、肌を重ねるのだろう。わたしは無言で玄関を開け、名波さんを招き入れた。  名波さんがテーブルにお酒を広げ、わたしはその横で部屋着に着替える。毎週名波さんは来るが、なにがそんなに気に入っているのかいまいち理解に苦しむ。  ビールがおいしく、今日もお酒が進む。 「名波さん、大丈夫ですか」 「まだ飲み始めたばかりじゃないですか。酔いませんよ、これくらいで」 「そうじゃなくて、仕事が、です」  名波さんは缶ビールを飲み干し、二缶目を開けた。その表情はうんざり、とでも言いたげだ。 「普通ですよ、普通。振られた仕事を適当にこなしています」  名波さんの言う適当とは、いい加減に、の意味だろう。春宮さんの噂話を信じるならばだが。  こんなところで仕事の話は野暮だ。いつもは名波さんが喋って、わたしは聞き手に徹する。珍しくわたしが口を開くと、どうしても仕事の話になってしまう。 「仕事なんて、お金が貰えればどうでもいいです。派遣契約は切られるかもしれませんが、派遣元の会社をクビになるわけではありません。別の会社に派遣されるだけのことです」  わたしだって仕事を好きでやっているわけではない。それでも名波さんの考えは相容れない。適当なことをすれば、それだけどこかのだれかに迷惑がかかるはずだ。春宮さんの仕事にわたしが苦しんでいるように。わたしと名波さんは同い年なのに、こうも考え方が違うものかと愕然としてしまう。  今日は名波さんのペースが早いのか、お酒が残り少なくなっている。いつもなら今くらいの量が余るのに。  名波さんは、歓迎会の後初めてここに連れてきたときのように目が虚ろになり、今にも寝そうだ。一方わたしはいつのペースで飲んでいるが、全然酔いが回ってこない。私が嫌いなアルコール九パーセントのお酒でもだめだ。それどころか神経が過敏になり、思考もどこか冴え渡っている気さえする。  名波さんは立ち上がって、ソファに座るわたしの手を取り、ベッドに引き倒した。いつもの流れだ。  ふと、名波さんが羨ましいと思った。この人は自分のやりたくないことを最低限しかやらない。いや、最低限すら怪しいのだが。でも、それが許される土壌がある。名波さんの仕事をカバーすべく奮闘してくれる人がいるからだ。その土壌は社会人になる前からあったのだろう。名波さんの容姿や雰囲気には、ついつい手助けをしてしまいたくなる力がある。名波さん自身も周りに助けを求め、助けられることに慣れている。わたしにはできないことだ。わたしは自分で抱えこむ。名波さんのように自分の負担を軽くしたいが、それができない。  名波さんの性格が、名波さん自身が妬ましく、柔らかそうな首筋に歯を立てた。  春宮さんの噂話は本当だったらしく、名波さんの契約が今月で終了することが正式に決定した。今月の最終日である火曜日に名波さんが全員に挨拶をして回った。この会社にいたのはわずか三ヶ月だ。上司は職場に華がなくなって残念がっていたが、口調から仕事ぶりはあまり評価していないのが覗えた。  その週の金曜日、家に帰ると玄関前に名波さんはいなかった。 「契約の切れ目が縁の切れ目」 そう呟いたとき、がっかりしている自分に驚いた。名波さんはわたしのことが気に入っていて、今日くらいは来るのではないだろうかと、愚痴を言いに来るのではないかと思っていた。いや、この先もしばらくは顔を出し続けると思っていた。プライベートで用事はないからと連絡先も交換していないため、この先名波さんがここを訪れないかぎり会うことはできない。   月曜日になり出社し、リグレッション試験の結果集計スクリプトを実行した。ようやく全てのシミュレーション結果で合格を確認できた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

10人が本棚に入れています
本棚に追加