ピリオド

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 最近、吐き気がする。どうしたのだろう。でも、病院には行きたくない。検査なんか嫌だ。数年前に胃カメラを飲んだ。口から入れて検査する方法で医者の腕が悪いからか、嗚咽(おえつ)が酷く大変な目に合わされた。結果は胃壁が荒れている、ということだった。  息子は母親に似ると言うが、母親も胃が悪い。常に胃薬を飲んでいる。病院から処方されたものを。母親は今年で71歳になり、毎年のように検査を受けている。詳しく訊いたことはないが、今のところ元気な様子。  母親は息子の山下健太(やましたけんた)に、病院に行って検査を受けなさい、と言う。だが、健太は断固拒否。  健太は今年で45歳になる。仕事は順調だが、胃の調子が悪い。きっと、よっぽど症状が酷くならないと病院には行かないつもりだろう。  過去の辛い経験が彼を病院に行く気にさせないのかもしれない。そもそも病院が好きな人はこの世にいるのだろうか? もし、いるとしたら好きな職員がいるとか、好きな患者がいるとか。そういった理由がなければ行きたいと思わないだろう。  健太には、かかりつけの病院がない。しかも、彼の住んでいる小さな町に胃腸科専門の病院がない。内科なら何軒かあるのだが。それにしたって大きな総合病院はここから2時間程車で走らないとない。治安が良い、という事くらいしかこの町には良い所がないと誰しもが思っているだろう。  さっき健太は職場の現場で嘔吐した。今日も携帯電話の電波が届かないような山奥での仕事。最近の仕事は重機を載せる足場づくり。単管パイプと呼ばれる鉄の棒を組み合わせて、足場を作る。単管パイプは最長で6mある。かなり重い。故に危険な仕事だ。給料は日給月給制。仕事が仕事だけに給料もそこそこ良い。  吐いたところを主任に見られて、「山下さん。今、吐いたでしょ。体調悪いの?」 主任は40歳。健太より5つ下。でも、主任は資格を持っていて肩書きもあるので上司になる。「ちょっと、胃の調子が悪くて」 すると主任は少し驚いた様子で、「えっ。病院には行った?」 淡々と落ち着いて喋っている。「いや、病院は嫌いだから行ってない」 主任は険しい表情になった。そして、「山下さん、嘔吐するくらいだから結構悪化しているかもしれません。なので、有給使って病院に行って下さい。仕事に支障が出てこちらとしても困るのでこれは頼んでいる訳ではありません。命令です」  健太は帰宅してから考えていた。命令か。いくら上司とはいえ若造のぶんざいでなめたことを言いやがる。  だが、仕事に支障をきたすのは確かにまずい。うーむ、どうしたものか。やはり病院に受診しないとだめか……。  きっと、また検査だろう。胃カメラで。最近は、鼻から入れる方法もあるみたいだからそれを希望して検査してもらうかな。もし、口から入れる検査なら拒否すればいい。以前のような苦しみは2度と味わいたくない。  翌日、健太は主任に言った。「総合病院に言って診てもらうよ」 すると主任は明るい表情になり、「それが賢明ですよ。でも、どうしてあれだけ嫌がっていたのに、どういう心境の変化ですか?」 ふふん、と健太は得意気に鼻を鳴らしこう言った。「以前は胃カメラは口から入れてかなり辛い目に合ったけど、よく考えてみると今は鼻からカメラを入れる検査方法もあるなと思い、診てもらう気になったんだ」 主任は感心した様子で、「なるほど! 確かに」 と言った。  有給も明日取る事にして病院に行ってくる。主任は、「早急な対応をした方が良いよ」 言っていた、確かに。吐くくらいにまで悪化してしまったから果たしてどんな病気なのだろう。死に関わる病気だったりして。それはないか。まだ、仕事も出来ているし。自分の事だけれど笑ってしまった。そんな重病でもあるまい。  翌日。健太は朝6時に目覚めた。やはりどこか不安なのだろうか。いつもなら早くても7時には起きていたのに。  でも、片道約2時間かかる。受付はネットで調べてみたら9時からだ。だから、支度して出発すれば丁度いいかもしれない。  そう思いまずはシャワーを浴びた。それから昨夜タイマーをかけておいた炊飯器の蓋を開けた。綺麗に炊き上がっている。でも、食欲がない。帰宅して夕食の時食べよう。  健太は普段から飲み食いや仕事でかなり無理をしている。食べすぎ、飲みすぎや、寝る前にお腹いっぱい食べて寝る、そしたら胸やけがするという悪循環。45歳にもなって若い頃のような無茶はどうやら出来ないようだ。身を持って感じた。年齢に関係なく、暴飲暴食は良くない、そう思った。その結果、胃の調子が悪いということに繋がっているのかもしれない。  何故、暴飲暴食をするかと言うと、ストレスが原因だと思う。主に仕事でのストレスが大きいだろう。  吐き気をもよおしながら健太は支度を終えたので、出発した。何だか具合いが悪い。  約2時間後。ネットで調べた病院に着いた。胃腸科専門らしい。初めて来た。  病院の外観は、クリーム色の優しい壁。どうやら4階まであるようだ。院内は広く、内壁は白色。受付と書かれたプレートがあったので、そこに行って保険証を提示した。女性職員は、「初めてですか?」 と言うので、「はい」 だけ答えた。 受付の女性は髪が背中まで伸びていて、縛ってある。細身でもう少し肉がついている方がいいのではないかと思った。受付の奥にも職員が数名いて、まるで銀行のようだ。白衣を着た男性がいて、この人は医者なのかな。多分、60代くらいだろう。  受付の職員から問診票を受け取り、面倒臭いと思いながら記入していった。相変わらず胃の辺りがモヤモヤする。それと食道のあたりも気持ちが悪い。悪い病気でなければいいが……。  そう思いつつ、受付の反対側にある大きなテレビを観ている。患者の数は10人くらいいるだろうか。まだ、訊いてはいないがこの病院は予約制だろうか? あとで訊いてみよう。  受付を済ませてから約1時間は待っただろうか。なかなか呼ばれない。もしかして忘れられている? それはないか。そんなことがあったら大変だ!  その間、何度も吐き気に襲われた。でも、結局吐くことはなかった。それが救いだ。もし、吐いてたらそこらじゅう汚してしまっていたし、他の患者にも迷惑をかけていただろう。  そしてようやく、「山下さーん」 と呼ばれた。「はい」 返事をし、「どうぞー」 処置室に呼ばれた。椅子に座り、「血圧を測りますね」 測った後、「さっき座っていた席でお待ちください」 言われたので、また、「はい」 とだけ返事をし、戻って座った。健太は完全に意気消沈している。彼は思った。(俺はこのまま死ぬのかなぁ)と。 再び看護師に呼ばれ診察室のドアが開いた。「山下さんどうぞー」 彼は診察室の中に入った。そして、今の症状を話した。  医師に言われたのは、「明日胃カメラで検査しましょう、それで異常がなければ大腸の検査をします」「わかりました」 健太は小声で言った。「それと、ピロリ菌がいるかどうか採血もしておきましょう」「はい」 今の健太はされるがままの状態。反発もしない。とにかく体調が良くなりたくて、その一心だ。  待合室で健太は看護師から明日の説明を受けている。「9時までに来れますか?」「はい」「それと、夜8時以降は何も食べないで下さい。水やお茶はいいけど」「はい」 山下は人が変わったように素直になっている。普段なら反発するのに。特に嫌なことは。  今日、医師に話した症状は、胸やけ・下痢・食欲がないなどだ。 病院に来る前に炊いたご飯は、食べたくて炊いた訳ではなく、食べた方がいいだろうと思って炊いたまでだ。  受診を終え、支払いを済ませ、健太は自分の車に戻った。不安が募る。胃カメラが嫌だ。さっきまではあんなに素直だったけど、自分の車に乗ると我に返ったかのように嫌な気分になった。  病院に行かないで我慢するかな。胃カメラの検査、嫌だ。苦しそう。すっかり健太は怖気ついてしまった。  翌日。健太は病院に行かなかった。胃カメラが嫌で嫌で堪らなかったのだ。 だが、それが健太の人生に終止符を打つことになるとは本人も考えていなかった。  仕事に行けないくらい具合いが悪くて、ある日の朝、健太は自宅の絨毯(じゅうたん)の上に吐血した。これは本当にやばいと思い近くの診療所に行ってみた。事情を話してすぐに検査することになった。朝ご飯も食べていなかったし。  検査結果は、「スキルス胃ガン」という進行性の厄介な病気らしい。医師はここでは入院施設もないし対応出来ないのと言うので救急車で地方の病院に搬送されることになった。  地方の病院に到着して、救急隊に渡してあった紹介状は医師に渡っていたらしく、暫くして医師が病室に来た時の説明は、「手術をすれば完全にがんを取り除けないのに少しでもがんを減らそうとして無理に手術を行うと、体へ大きなダメージが加わって体力や免疫力を奪うことになるため、むしろがんの病勢が増して症状が急速に悪化してしまう恐れがあるため、抗がん剤治療にします」と言われた。  俺は内心、死ぬのか? と思った。 かなり具合いが悪いが、スマホでスキルス胃ガンについて調べてみた。抗がん剤治療は根治を目指す治療ではなく治療目標は延命です、と書いてあった。(やはり俺は死ぬのか……) と思った。  こんなことになるとは思わなかった。後悔先に立たずとはこのことか。  抗がん剤治を療初めてから数日後、酷い副作用が出た。嘔吐が主だ。  そして、数週間後、健太は息を引き取った。                            (終)
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