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飲んだら危険?
魔性という言葉を出したとき、人は悪役を思い浮かべるのが常だ。悪い男、悪い女。悪を憎みつつ心密かに憧れる。
そして、危険なものに出来心で興味を示す。
レンタル・メンタル・ファムファタルは、名前の大袈裟さとは裏腹に、ただの人工甘味料でカロリーをゼロにした平凡な炭酸水だった。
なんだ、大したことない。そう思っていたのに、飲み干す頃には世界が澄んだ青に見えた。
「これが、アオハルかー!」
違う、それヤバい奴じゃ…。脳内の理性が語り掛けるてくる。しかし止まらない。
「葉多ちゃん主役の10年後の小説書くぞー!思い切りキャラ変して、最後に笑う悪女役だけど、みんなが涙するような壮大な物語!」
ダメだ、大風呂敷広げ始めた。脳内の理性が急ブレーキを踏む。いい加減にしろって。
「悪女は悪いだけじゃ面白くない。悪に至るまでの過程を描いて、一欠片の清純さを残して葉多ちゃんの良さを引き出す。徹夜で書くぞ!」
やめとけ、中年の徹夜は仕事に響く。脳内の理性が私の背中をさする。可哀想に、中二病をぶり返したのか、もう四十路なのに痛すぎる。
ただの炭酸水で酩酊、アオハルモードの私は葉多ちゃん主役の物語を書き始めた。独り言の三連打を聞いたはずの夫も何か言っている。
「田部アナが考古学者になって古代文明の謎を解く漫画を描くぞ!漫研の頃の情熱が蘇る!」
「アイドルなんか、アイドルなんか。会えたって嫁にならない、嫁もこんなだし田部アナ!」
こんなとはなんだ?レンタル・メンタル・ファムファタルの効き目が薄れて来たのだろうか。
「俺の運命の女性は田部アナしかいない!嫁なんか捨てて、考古学者になって一緒に添い遂げるんだ。田部アナじゃない、俺の佑依と世界中を旅して謎を解いて、悪を打ち砕く!」
いくらレンタル・メンタル・ファムファタルの効き目とはいえ、私の方が先に酔いが冷めた。
「ハリウッド映画のパクり、捻りなしか!」
薄紫色の帯が付いたペットボトルを、べこりぐしゃりと両手で潰しつつ、夫に詰め寄る。
「いつまで酔ってるつもり?運命の女性がなんだって?もう一度言ってみて」
笑顔を作りつつ眉間に深く皺を刻んだ私の顔の恐ろしさで、夫の酔いも冷めたようだ。
「お、おはよう。この飲み物危ないな。なんかヤバいもの入ってるんじゃない?」
「おはようじゃない。でも、何か入ってるよね。おかしいから飲むの止めよう」
謎の現象を引き起こしたレンタル・メンタル・ファムファタルは、残り8本をキッチンのシンクに流して無かったことにされた。
SNSを覗いても、炭酸飲料で有名な某外国の会社の陰謀論しか出て来ない。レンタル・メンタル・ファムファタルの噂話は見当たらない。狐につままれたような気持ちで、私達夫婦はスマホやパソコンから目を離した。
「プラシーボ効果かな?効かないのに何かが変わるはずだと思い込むことで引き起こされる現象。これを飲めば性格が変わるなんて、荒唐無稽で馬鹿げた話でも、信じてその通りになると思っていたから、そう振る舞っていた。それなら納得がいく」
夫の冷静な分析に頷きつつも、首を捻る。
「それにしてもSNSは静かだね。陰謀論ってデマだから放置されるんでしょ。本当の陰謀なら書いた瞬間消されたりして?」
冗談交じりに試しにSNSアプリを立ち上げる。「レンタル・メンタル・ファムファタルを飲んだら、中二病ぶり返した」と書こうとする。大したことのない内容のはずなのに、投稿送信ボタンを押しても反映されない。
私のスマホの画面を見ていた夫が、
「SNSで何か悪い事したんじゃない?俺なら大丈夫……。なんで違う内容だと投稿出来て、これだけ書けないんだよ…」
夫も私も本気で青ざめた。アオハルどころじゃない、恐怖で血の気が引いて真っ青だ。
「葉多ちゃん…大丈夫かな…。変な事に巻き込まれてたりしないかな…」
「人の心配をしても仕方ないだろ。ネットに書こうとすると書けない事に関わってるって時点で、触れない方がいい」
「でも…あんなに可愛いくて実力派なのに…」
「そういう人選にしたんだろ。信じて貰いやすい優しい人に広告をやらせた奴らがいる。このレンタル・メンタル・ファムファタルを飲んで、やけにポジティブになって何が起こると思う?中二病かよと笑えるうちはいい。戦争や貧困の悲惨さを誤魔化す、『良薬』として使う気があるってことだろ。そのための実験…」
「SNSに規制が掛けられるって、もしかしてもう…何か起きてる?」
「不味い事が始まるのかもしれない。その前段階なのかもしれない。どちらにせよ自分の心の芯をしっかり持つ事。借り物の変身なんかに心を奪われない事。何かを変えたいという人々の気持ちに、悪い意味で漬け込んでくる、その最悪の形が戦争という殺し合いなんだよ」
「絵に描いた餅かもしれないけど、たとえ借り物でもいいから良い方に変わりたい、変えたい、そんな気持ちを大切にしていきたいね」
「ああ。こんな嫁でも、中二病ぶり返したとか馬鹿話してられる日々が続いてほしい」
「こんな嫁とか言う夫でも、いないと寂しいから。変に格好つけないでよ、もし世の中が変わっても」
「格好つけて、田部アナと心で添い遂げるために命を懸けるって言ったら怒る?」
「怒らない。私は冷ややかな目で見て、しぶとく生き延びるから勝手にしたら?」
「寂しいってさっき言ったじゃん」
「冗談でも命懸けるとか言わないで!」
柄にもなく私は涙ぐんで夫に抱きついた。甘え慣れしていないせいか、ラグビーのタックルか、牛の頭突きのような不恰好さになっている。そんな不恰好さをいつもなら笑う癖に、暴れた闘牛を宥めるように夫はぽそりと呟く。
「一緒にしぶとく生き延びるからさ、ごめん」
まるで、私の頭に牛の角でも生えてるのか、心配の角を矯めるように髪を撫でてくれた。
(了)
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