第5話

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第5話

 その夜以来、若旦那さまの顔を屋敷で時折見かけるようになった。 普段は忙しく旦那さまについて、あちこち走り回っている方だったのが、機嫌の悪いお菊さまの要望に応じた形だ。 「ずっと家にいるのも、退屈なものだね」  だがそれは表向きな話しで、常にわめき散らし奥さまとの喧噪が絶えないことに、旦那さまの堪忍に限界が来ただけのことだ。 おかげで若旦那さまの田や畑の仕事を手伝うことは増えていたが、お菊さまとの仲がよくなったかと言われれば、そうでもないようであった。 それでもお菊さまの機嫌が少しは持ち直したのも事実で、家の中は静かになっていた。 「お前はいつもこうして、一人であれの面倒をみていたのかい?」  お菊さまが休んでいたりする時には、若旦那から声をかけられることも多くなった。 とは言っても、他愛のない言葉を一つ二つ交わす程度で、すぐに終わってしまう。 そんな気まぐれが、たまたま昼の縁側で行われていた時だった。 「あの子の名前は? 多津は知っているのだろう?」  草刈りを終えて戻って来た八代たちに向かって、若旦那はそう言った。 「お富のことですか?」 「お富、こちらへおいで。お菓子をあげよう」  冬に牛にやる草を刈って戻ったばかりで、汗をかき土に汚れ、真っ黒に日焼けしたお富は、首を横に振った。 あたしは盆の茶碗に白湯を注ぐ。 「おや、あれはどうしたものだろうね」  頂き物の落雁の一つを口に放り込むと、若旦那は白湯をすすった。 声をかけられたのだから、素直に寄ってくればいいものを。 お富はちらちらとこちらを窺いながらも、近寄ってこようとはしない。 「多津もいただきなさい」  あたしは作業の様子を見ながら、梅の形に押されたそれをつまむ。 ほんのりと広がる甘みは、口の中ですぐに溶けてほぐれた。 「儂は嫌われておるのかな?」  三人はそのまま、刈ってきたばかりの草を干す準備を始めている。 「照れているだけでしょう」  あたしは若奥さまのお下がりの、山吹色の着物を着てそれを見下ろしていた。 今は青いあの草も、乾けば細かいクズが飛び散って、目に入るととても痛い。 「飯の支度をしてまいります」  奥さまは寺へ出かけていていない。 旦那さまも寄り合いへ行ってしまった。 土間に入ると、すぐにお富がやってくる。 「裏切り者!」 「なにが裏切り者だ」   その声に、いつにも増してうんざりする。 「又吉さんと上手くいかなくなったってのは、若旦那のせいか!」 「誰がそんなこと言った」 「若旦那に懸想なんかしたって、お前なんか相手にされるもんか!」 「二度とそんな口、利けないようにしてやる!」  冗談じゃない。 変に誤解されて妙な噂でも立てられたら、困るのはこっちの方だ。 あたしは持っていた柄杓を投げつける。 わずかに残っていた水が、お富に降りかかった。 「楽しいか、男二人にかわいがられてさぁ!」 「違うと言ってるじゃないか」 「又吉と若旦那を、いいようにしやがって」  負けじとザルを投げつけてきた、お富につかみかかる。 お富はあたしを突き飛ばした。 柄杓で叩きつけてくるのに、膳で応戦する。 思いつく限りの雑言を浴びせた。 「くだらない喧嘩なんかしてないで、さっさと飯の支度をおしや」  じっと見下ろしていたのは、腹の目立つようになったお菊さまだった。 身重となった体で、家に引きこもることの多くなったお菊さまは、ふくよかな肌がよりいっそう白く透けて見える。 「お腹空いた。早うおし」  そのまま廊下の奥に消えてゆく。 あたしは立ち上がった。 「ほら、お前も動きな」  泣き虫のお富はすぐに泣き始める。 日に焼け、力仕事で鍛えられた腕は、それでも休むことなく、言いつけ通りに動かされていた。 めそめそと泣きながら作る飯ほど、不味いものはない。 出来上がった飯を座敷に運ぶと、あたしはお菊さまに声をかけてから退出する。 主人たちの残り物で賄う飯を、あたしは一人廊下の隅で済ませた。  どこかでまた、野犬の吠えているのが聞こえる。 月は大きく傾いた。 ガサガサと足音が聞こえ、狸と目があう。 どうせなら化けて出てくれればいいものを。 狸のままでは、助けも請えぬ。  心配事というのは思わぬところからやってくるもので、あたしと若旦那さまのことが疑われるよりも早く、奥さまと八代の件が旦那さまに知れた。 八代に対する旦那さまの態度は明らかに邪険となり、奥さまは奉公人たちに寄りつかなくなった。 腹を大きくしたお菊さまは、天下を取ったかのように大手を振るう。 「お多津、今日は出かけるから供をおし」  体調もよく、以前にまして遊び歩くことが増えた。 奥さまに厳しく反対されていた芝居まで見に行くと言う。 境内に建てられた簡素な屋根の下に、小さな舞台が出来上がっていた。 渡された金で水飴を買い、お菊さまに手渡す。 敷かれた筵の上に座れるのは見物料を払った客だけで、あたしはその周辺を取り囲む、立ち見の山の隙間からチラチラとその姿を垣間見た。  芝居唄のたおやかな声が朗々と響く。 その声とお囃子だけは、あたしにも届いていた。 「あぁ、いい声だ……」  派手な衣装に身を包み、軽妙な動きにどっと笑い声を浴びる。 明日にはまた旅に出る彼らは、風のように身軽に思えた。
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