十五

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十五

 ジュンコが勤める六本木のクラブ『クリスタルエレメント』の常連客の中に、芸能プロダクション社長ヤマザキカズオがいる。ハダはジュンコからの情報で、そのヤマザキがタザキノボル『月』(runa)を所有していることを知った。ハダにとってこの『月』という絵は、実は父を自殺に追いやった因縁の絵であったが、ハダの父が贋作を掴まされたように複数枚の贋作が噂されるある意味有名な絵だった。勿論、ヤマザキは自分が所有するものが本物であると主張する。しかしハダは、この目で見てみなければわからないが、恐らく贋作であろうと推測していた。では本物の『月』は一体誰が持っているというのだろうか? そして贋作はどこで作られているのだろうか? これまでの情報では台湾、白蓮幇の小老こと孫小陽が所有していることがわかっている。異国の言葉。幼かったケンゴにはそれが台湾の言葉であったのか、中国本土の言葉であったのか聞き分けられるはずもない。確信は持てないが、台湾マフィアと取引を始めたのも、その記憶を確かめるためだった。その贋作を作らせたのが台湾人だったとして、果たして本物を所有していたのかも不明である。だが言えることは、その贋作はハダの父が騙されるほどの優れたものだったということだ。そしてそれが一枚に止まらず複数枚出回っている。つまり本物を知る人物が贋作を複製している可能性が高い。この贋作事件の闇は、きっと真紅に燃える『月』を所有する者だけが知っている。一つ一つ調べて行く以外になかった。ハダはとりあえずヤマザキの所有する『月』を調査することにした。  ヤマザキの自宅は、ハダが住む六本木の高層マンションの階違いだった。招待された時刻に尋ねると、インターフォンから女たちの声が聞こえた。室内に入ると下着姿の女が酒に酔っているのだろうか、赤ら顔で出迎えた。 「ハダ君、よく来たね。まぁ寛いでくれよ。どれでも好きな女の子持ってっちゃって構わないからさ」  自分は一人の女の乳房を揉みながら、もう一人の女の乳首に吸い付いている。 「お酒も女もセルフサービスだから、勝手にどうぞ」 「自分はそういうのは、ちょっと」  ヤマザキが顔を上げる。 「何だよハダ君、まだ若いのに、興味ないの?」  今まで乳首を吸っていた女の尻を軽く叩き、ソファを空けさせると、ハダに座るように促した。女がハダの隣に座り、グラスに氷とジン、それからライムソーダを注いだものを出した。すると女はテーブルの上に白い粉をばら撒き、スニッフィングを始めた。スニッフィングとはコカインを紙筒で鼻から吸うことである。鼻の粘膜から吸収された成分が脳に最も早く届きやすい。 「あ、ハダ君、もしよかったら珍しいものがあるよ」  シガレットケースから、チューインガムのようなものを取り出した。 「ブラッド、どう試してみる?」  ハダが手に取った。 「社長、その薬はどこから?」 「そりゃ、ハダ君、いくら君にでも言えないよ。それとも何かい、君のところで安く仕入れられるとでも言うのかい?」  ヤマザキが笑った。ハダのサングラスの中で瞳が動いた。 「ええ、まぁ、そんなところです」  するとヤマザキの笑みが消えた。 「君は確か貿易会社の社長だったよね、自分で入れてんの?」 「はい、そういう場合もありますし、他のルートからも入ります」 「へぇ、そうなんだぁ、じゃあ仲間ってことだ。ここはひとつお互いの秘密ってことでよろしく頼むよ。さぁ、好きなようにやってください」  ヤマザキもテーブルの上にコカインをばら撒き、スニッフィングを始めた。ヤマザキは五十代前半。世間的に言うと「チョイ悪オヤジ」と呼ばれるような格好をしている。元々ハンサムだったのだろうが、金にモノを言わせて女を侍らせる姿が、ハダは好きではなかった。 「社長、できあがる前に、以前話していた名画、見せてもらえませんかね」  するとヤマザキは面倒臭そうに隣の部屋を指差した。 「どうぞご勝手に、ウチは全部セルフサービスだから」  また恍惚な表情を浮かべて鼻から白い粉を吸い込んだ。 「まるで猫に小判だな、名画が泣いてますよ」 「ん? 何だって? クスリが効いてきた! セックスしたくなってきたぞ、ほら君たちパンツ脱いで、みんなでしよう、ほら」  全裸になり、女を抱き始めた。ハダは苦笑しながら隣の部屋に逃れた。そこで壁に掛かっているタザキノボル『月』を見つけた。近づいて目を凝らす。一目で贋作だとわかった。その月は満月の夜、白い光を海に反射させたものだった。ハダが知っている『月』とは似ても似つかなかった。 「これがタザキノボルの『月』なのか?」  今目の前にある絵は贋作だとしても、この絵の元になった絵がどこかにあるはずだ。そう感じさせる贋作だった。ふと自分のイメージの中にある紅い月を思い浮かべた。色彩は異なるが似ていた。同じ画家による作品であると感じた。 「まさか」  と疑念が湧いてくる。近代絵画の真贋を見分けるのは実は難しい。特に所有者不明、比較対象の無い一点物はハダでさえ、待てよ、これは本物では? と思ってしまう時がある。オリジナルが古ければ古いほど贋作は見分けやすいのだ。それは一つには絵具の染料の違いである。当時のものに限りなく近づけたとしても、全く同一というわけにはいかない。現在の化学分析にかければ違いが明白だ。そして風化、劣化具合もまた人工的なものと長い年月を経たものとでは異なってくる。それに知識も重要である。画家の背景となっているものの考え方、宗教、生まれ育ち、妻、友人、どこで生まれ、どんな環境で育ったのか、どんな趣味をもっていたのか、それらとその画家の生きた時代の技術や流行、それらのものを全てひっくるめて考えなければ、サインひとつ本物であるかどうか見抜くことができない。それくらい高額な絵画の真贋を見抜くことは難しいことなのだ。しかし、最終的に決断する決め手は、オリジナルを自分の目で見た経験が有るか無いかによって違ってくる。最後は自分の研ぎ澄まされた感覚だけが頼りなのである。そういう意味で白い『月』の存在を匂わすような贋作を見つけた。ハダは二十年前、父が自殺した当時まで意識を戻す。オリジナルの記憶は無いが、父が騙されて購入した『月』はこの目で何度も見ている。神経を研ぎ澄まそうとして目を瞑るが、隣の部屋で女たちの喘ぎ声がして集中できない。タザキノボルの『月』は幻月という自然現象を描いたものだと言われている。幻月とは、雲のある夜に月光が反射して、その月の両側に明るい光の輪が見える現象で、それがまるで複数の月に見えることを言う。そしてタザキノボルの絵画に特徴的なのが、その夜空を見上げる一組の家族が描かれていることである。ハダは思わず顎の辺りに手をやった。この月の美しさといい、幻想的な雰囲気といい、絵の質感、タッチ、全てがタザキノボルに合致している。恐らくこの贋作も本物を模写したに違いない。それも相当の実力者が描いている。父が購入するはずだった赤い『月』もきっとどこかに存在している。ハダが唸った。唸ったまま息をするのを忘れた。 「まさか『月』が二枚存在するとは」  きっとその事実を知る者は殆んどいない。複数の贋作を見てきたハダだけが推理し得たことである。それでもまだ仮説に過ぎない。月をモチーフにした絵画なら腐るほどあるだろう。けれども、ハダの確信は、ただ一点、軽視されがちな家族を入れ込んだ絵の構図から来る勘であった。実は初めて目黒の父のギャラリーで紅い月を見た時、幻月のことも何も知らなかったが、素人が目を奪われる真紅の月よりも、浜辺で家族が月を見ているという不思議な構図の方が気になっていた。思えばその頃から絵画を観る才能があったのかもしれない。印象とは実に不思議なものだ。 「早くオリジナルを観たいものだな」  ハダはそう言って苦笑した。部屋には他の画家の絵も飾られていたが、特別興味を惹くものは無かった。隣の部屋に戻ると、ヤマザキが女三人とセックスの真っ最中だった。ハダはそれを無視して部屋を出た。どこかで独り飲みたい気分だった。
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