十九

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十九

 その頃、都内では若者を中心に『ブラッド』と呼ばれる合成麻薬での検挙が相次いでいた。ブラッドは不法滞在の外国人の手から手へと渡り歩き、末端で若者の手に入る。ほんのチューインガムを買うような手軽さで広まって行く。麻薬の出所が北陽会であることは、その筋の情報から見当が付いていたが、末端を押さえる度にトカゲの尻尾切が行われるだけで、北陽会本体へ捜査のメスが入らなかった。それというのも、北陽会本部には、厚生労働省の麻薬捜査官が潜り込んでいる。身の安全を確保するためにも、慎重な捜査が求められた。今回ハダが起こした事件は、ある意味、北陽会の麻薬取引に決定的なダメージを与えかねない事件だった。ハダが組織に追われる身になっていることは想像に難くない。けれども北陽会の動きは緩慢だった。表立って動くことは、逆に組織のブラッドへの関与を裏付けることになる。それに、実際に組織が被った損害はそれほどでもない。むしろ取引相手である香港の組織の痛手が大きいと見ている。北陽会は香港ルートを守るためハダを破門にし、自ら手を出さぬ代わりに、その責任を全てハダに被せたに違いない。それにしても組織の内側にいたと見られるハダが、どうして組織を裏切ったのか? その動機が不明だった。  ショウが所属する組織犯罪対策課の動きも鈍かった。北陽会がらみの一件だとわかっていても、厚生労働省との確執があった。特に麻薬取締官がエスとして潜入捜査している場合は動くに動けなかった。実際、ショウが組対に入ってからの北陽会への捜査は地味なものばかりだった。よくテレビドラマや刑事小説で派手な手入れのシーンが誇張されるが、そんな場面は一度もなく、組事務所に顔を出す時でも本当に丁寧なものだった。捜査令状無しで踏み込むなんてことは有り得ないことなのだ。奴らも法律に関してはよく研究して知っている。法律に詳しい人材を組に入れたり、顧問弁護士を付けたりと奴らも必死に対抗してくる。昔のように奴らの懐に飛び込んで違法捜査したところで、得られるものは少ないのである。今は奴らの行動を監視し、細かな情報を収集し、その変化を分析することで本丸の捜査に繋げようとしているのである。すでに万世橋署管内のブラッド常習者を二十人程取り調べているが、未だに北陽会との関係がハッキリしない。バイヤーもまちまちで、まるで個人経営のようである。本庁の科捜研の調べで、少なくとも二種類の異なった『ブラッド』が出回っている可能性があると報告があった。密輸ルートの解明が必要だった。しかし取り調べの中で、複数人の口からある台湾人の名前があがった。その男の名は洪英春。それ以外のことは依然と闇に包まれていた。ショウは再び情報屋、李俊明の力を借りようとしていた。 「ショウ先輩、洪英春について何か情報を持っているんですか?」 「いや、初めて聞く名だ」  サヤカに李俊明のことを話すわけにはいかなかった。ショウが独自に情報屋を使っていることは、地域課課長ヨシオカ以外誰も知らないことだった。ヨシオカはショウを刑事に推薦してくれた恩人だが、そのヨシオカもショウが独自に情報網を持つことに、驚きと疑念を持ったが、何かを察知してそのことを黙認してくれた。しかし警視庁のキャリアであるサヤカにその存在を明かすことは、彼女を苦しめることになるに違いない。李俊明の身の危険にも繋がる。どこかで奴と接触しなければならないが、サヤカが付いていては難しかった。多少、やりにくさを感じていた。 「何かあてはあるんですか? 先輩」 「地道に台湾人の知り合いをあたるしかない。まずは歌舞伎町からあたってみましょうか、警部補」 「はい。先輩と一緒ならどこへでも」  ショウが苦笑する。  アウディを歌舞伎町のコインパーキングに入れた。ボディこそ濃紺だが、ウィンドウは黒のスモークがかかっていて、歌舞伎町周辺の路地を徐行していると、歩行者はどこのヤクザが来たのかと思い路を勝手に開けてくれる。時々地回りのチンピラがショウの車を止めて、因縁をつけようとするが、パワーウィンドウを半分だけ下げて手帳を見せ、マル暴だと告げると、急に低姿勢になって道案内までしてくれる。そもそも街で一般市民とトラブルになる奴は、下っ端のヤクザであることをショウも知っている。荒くれ者を束ねる人物は、勿論、マル暴にも動じないが、見た目も穏やかで紳士的である。一般市民に因縁をつけたりしないものだ。  細い路地裏を抜け、台湾料理の店やパブなどで洪英春について聞き込みをした。サヤカは歌舞伎町が初めてらしく、しばらく物珍しげにその雑多な街並みを見ていた。 「私が思っていたほど歌舞伎町って恐くないんですね」 「まあね、色々と映画や小説に描かれているけど、実際にはこんなもんだよ。だけど歌舞伎町って街は、昼と夜とでは違う顔を持つんだ。こうやってネオンが灯る前に顔を出している分には、気の抜けたビールのような街なのさ。まして昼は飲み屋は閉まっていて、チェーン店の居酒屋がランチやってるような、極平凡な街の顔もある。必要以上に恐がることもないし、ここが特別危険なわけでもない」  ショウは一瞬、躊躇った。 「ちょっと寄りたい場所があるんだ」  足早に歩き出した。サヤカは少し遅れてショウの後をついていった。幾つかのラブホテルの脇を通る度に、サヤカは顔を紅くして下を向いた。ショウはホテルに入るわけでもなく、淡々と慣れた足取りで通りを抜けて行く。 「ちょっと先輩、どこまで行くんですか?」 「ああ、もうすぐそこだから」  すると歌舞伎町一番街の裏通りにある雑居ビルの前でショウが立ち止まり、地下の入り口を指差した。 「ココだよ、俺が昔、バイトしていた店」  地下へと続く通路には、所狭しとAV女優の裸のポスターが貼ってある。拡大された巨乳がちょうどサヤカの目の前にあり、サヤカがそれを見て目を背けた。 「何ですか、ココ? 風俗店ですか、先輩」 「あれ? 前に話したことなかったかな? 昔、この店でバイトしていたことがあるんだ。ここの社長は新宿の裏情報通でね、洪英春のこともそうだけど、ハダケンゴについても何か知っているかもしれない。俺が初めてハダケンゴに会ったのもこの店だから」 「そうなんですか、でも、ちょっと」  サヤカが眉間に皺を寄せる。確かに若い女の子が入れるような店ではない。店内に入るとサヤカが更に仰け反った。 「何ですか、これ? ポルノショップじゃないですか、先輩!」 「だから前に言ったでしょ、AVセル店だって」  サヤカが店内のDVDを一枚つまんで顔をしかめる。 「変態じゃないですか、先輩、信じられない、もう!」  すると店の奥からショウの声を聞きつけたT社長が顔を出した。 「よう、ショウじゃねぇか、久しぶりだな、元気か?」  ショウがペコリと頭を下げる。 「ご無沙汰してます」 「そちらの可愛いお嬢ちゃんは? もしかして彼女か?」  ショウが首を横に振る。 「警視庁万世橋署、組織犯罪対策課のホンダです」  さっと手帳を見せた。T社長はサヤカを上から下まで見て苦笑した。 「何だよ、刑事さんか。随分と可愛い刑事さんだな」 「すみませんが職務中ですので、その可愛いとか言うのやめて下さい」  サヤカが目を吊り上げると、T社長がショウを見た。 「ショウ、組織・・・・・・ウンチャラカンチャラって何だ?」 「組織犯罪対策課です!」  サヤカが噛み付く。ショウが苦笑する。 「T社長、マル暴のことですよ、マル暴」 「おお、マル暴か、こちらのお譲ちゃんがマル暴ね、ハイハイ。でショウ、お前はまだ交番勤務なのか?」 「いえ社長、実は私もホンダ警部補と一緒、マル暴に配属されました」 「そうか、そうか・・・・・・え? ショウ、お前、刑事なの? しかもマル暴って、アンタ。それにそこのお譲ちゃんが警部補だって? こりゃ、驚いたな」 「何よ失礼ね、今度バカにしたら許しませんよ!」  T社長が再び苦笑する。 「悪かった、悪かった、ところでショウ、今日は何しに来たんだ? まさか彼女を自慢しに来たんじゃないだろ?」 「ええ、最近、ハダさんは店に来ませんか?」  T社長が腕を組んだ。 「全く来ないな、いつから顔見てないだろ? 相当前だぞ最後に会ったの。そういや彼、フロントビジョン辞めたって聞いたけど何かあったのか?」 「はい。今、ハダさんを覚醒剤等取締法違反容疑で捜しています」 「ええ? ハダ君が覚醒剤? それ本当かよ」  ショウが頷いた。 「マジか、やっぱな、おかしいと思ってたんだ」 「何かあったんですか?」 「いやね、最近妙に脱法ドラッグの種類が増えたなって、特にフロントビジョン経由の商品が多くて、売れるんだけど、本当に大丈夫なのかなって、今度ハダ君が来たら聞こうと思ってたんだ」 「脱法ドラッグ、ですか?」 「ああ、最近は新しい知らないメーカーから脱法ドラッグが自動的に送られてくるんだ。注文もしてないのに勝手に送ってきやがる。で、富山の置き薬じゃないけど、もし売れたら代金払ってください、みたいな。勿論、ウチじゃあ置かないことに決めたけど、送り返すのも送料かかるし、正直、扱いに困ってたんだ。仲間内では仕方なく置いてみたらすぐ売れたっていうんで、最近になって置く店増えたんだ。ハダ君がフロントビジョン辞めたって噂で聞いたし、フロントビジョンも前の横浜倉庫から流通に戻したから、何か変だなって」 「物流まで変えたんですね」 「そう、ショウがいた頃って横浜本社の倉庫から直接商品が届いてたろ? その後、ハダ君がやってる物流会社に業務委託したとかって、山梨のどこだったかな? 確か富士吉田の方にある物流倉庫に変更になってたんだ。それが先月くらいからまた横浜の物流倉庫に変更になって、正直あの会社もキツイのかな? って思ってた矢先、急にハダ君が辞めるって噂が流れてさ」 「そうだったんですね、物流が山梨にあったんですね」 「そう、あれからハダ君の黒い噂は絶えなかったけど、最近になってまた妙なメーカーから脱法ドラッグなんか送ってきたから、やっぱハダ君あたりが一枚噛んでるんじゃないかってね」 「T社長、それはまだ手元にありますか?」 「あるよ、おい、例のドラッグ持って来いよ!」  店の奥からアルバイト店員がトローチのような円形のドラッグが入った箱を持って来た。一錠一錠がアルミ包装され、それが十錠連なっている。 「一錠、もらってもいいですか?」 「ああ、いいよ」  アルミ包装の表面に『クイーンズエクスタシー』とある。製造元などは記されていない。ショウはそれを一錠ポケットに入れた。 「これはどうやって精算するんですか?」 「それがな、月に一回、忘れた頃に営業マンがふらっとやってきて、在庫を確認して、その場で精算するんだ。領収書は出すけど、口座取引は無い。な、ちょっと変だろ?」 「そうですね、領収書の住所と社名も、恐らくいい加減なものでしょうね」 「だろうな、こっちは別にそれでも困らないからな」 「ところで社長、話は変わりますが、台湾人で洪英春という男を捜しているんですが、聞いたことありませんか?」  T社長はしばらく目を瞑っていた。 「悪いな、聞いたことない。少なくとも歌舞伎町では知らない」 「そうですか、有難うございます。もしハダさんから連絡があったらすぐに俺に知らせて下さい」 「おう、わかった、また来いよ。お譲ちゃん連れてな。今度はみんなで飲みに行こう」  白い歯を見せて笑った。サヤカがまた何か言い返そうとしたが、それをショウが制止し、二人で店を出た。 「何なんですか? あのT社長って」 「警部補、まぁそんなに怒らないで。顔は恐いけど中身はそんなに悪い人じゃないんですよ。捜査に協力してくれるし」 「そんなにってことは、多少は悪い人ってことじゃないですか?」 「まあね、必要悪ってことで」  ショウが笑う。 「先輩が歌舞伎町に詳しい理由がわかりましたけど、一体なんで先輩みたいな素敵な人が、あんなイヤらしいお店なんかに」  ショウがサヤカを見て微笑んだ。 「警部補、人は見かけによらないって言うでしょう? 人を見た目だけで判断しない方がいいですよ。特に優しそうな顔、声、親切そうな言動、そんな奴に限ってストーカーみたいな奴だったりするでしょう」 「じゃあ、どうやって人を見抜くんですか? 先輩は」 「そうだなぁ、相性というか、縁があるかどうか、かな? 第一印象は思い込みに似ている。当たったためしがない」  ショウが苦笑する。 「付き合ってみないとわからないってことですか?」 「まぁ、そうとも言える。これは俺の持論なんだけど、個々人は皆、個人経営者なんだと思ってる。経営者なんだから誰と一緒に経営しようが、それは自己責任だ。誰か他人に依存しようとしたり依存されたりするべきじゃない。人選びも一緒で、相手との付き合いにおいて、今からでもその人と付き合いたいか? って自問してみるといい。素直にそう思えるならそうしたらいいし、そう思わないなら、いくら相手が自分のことを思っていて、依存されていても関係を解消した方が幸せになれるんだよ。縁が無かったんだ」 「でも先輩、縁ってどうやってわかるものなんですか?」  ショウの心にユキナの顔が思い浮かんだ。 「第一印象じゃわからないよ。いつまでも自分の傍にいて、何故か離れていかない人。一度離れても、再び巡って出会うような人のことを言うんじゃないかな? 自然体で無理無くいられて、自分が自分でいられるような人。そんなお互いの人生設計を尊重し合える関係が最高の関係なんだよ」 「それが先輩には、ユキナさん、だったんですね」  ショウが驚いて目を大きく開けた。 「警部補、何でそれを?」  サヤカが顔を真っ赤にして、ぺろっと舌を出した。 「サワムラ警視長から聞きました」 「サワムラ警視長が君を送り込んだってこと?」 「バレたんで言っちゃいますが、その通りです」  ショウが大きく溜息をついた。 「そうか、偶然にしてはおかしいと思ってたんだよ。組対に入りたての自分に本庁の新人キャリアを組ませるなんて有り得ないと思っていたんです。でもまさかサワムラ警視長の差し金だったとは」 「私、バレた時点で本庁に戻される予定だったんですけど、気が変わりました」  ショウが首を傾げる。 「私、このまま万世橋署に残って、先輩と捜査を続けさせてもらいます。最初は先輩に警戒されないように、ちょっとおバカな女を演じていました。でも最近、先輩のことが本気で好きになっちゃいましたので、どうか気にしないでください!」  ショウが額に手をあてて目を瞑り、小さな溜息をついた。 「あのね警部補、いいですか、あなたも知ってるように俺には・・・・・・」  と言うのをサヤカが制止した。 「はい、わかってます。だから気にしないでください。私が勝手に先輩のこと好きになっただけですから。今はまだ先輩に私のこと好きになってもらおうなんて思ってません」 「でもね警部補、それでは仕事、やりにくいでしょう?」  サヤカが首を横に振った。 「先輩の方こそ意識し過ぎですよ。仕事はちゃんとできます」  ショウが溜息をついた。 「まあ、サワムラ警視長が決めることなので」 「さあ、早いとこ、洪英春に繋がる情報を見つけましょう」  サヤカがショウの手を取って歩き出そうとする。ショウはサヤカの手の冷たさを胸の中で感じた。それにしてもサワムラ警視長の真意がわからなかった。暗にユキナとの関係を否定しているのだろうか? まさか盛岡の祖父、タザキコウゾウの考えではあるまいなとも勘ぐってしまう。単にショウの行動を監視するためにサヤカを付けたのなら、それはそれで構わないが、何故入庁二年目のキャリアを自分に付けたのか、その点が理解できなかった。サワムラ警視長に何か考えがあってのことだろうが、そのサワムラにしても、サヤカがショウに好意を抱くとは予想外だったかもしれない。しかしホンダサヤカとは何者なのか? 逆にショウの方が考えてしまう。まだ女子大生気分の抜け切らない東大出のキャリア娘。ショウは苦笑した。 「サワムラさんも面白いことをする」  胸の内で呟いたが、思わず笑ってしまった。 「先輩、何、ニヤニヤしてるんですか? 次行きますよ、次」  案外バランスが取れているのかもしれないと思った。ショウが無理して両親の事件を追うあまり、深く裏社会に関わり過ぎるのを心配しているに違いない。サヤカと一緒であれば、いくらショウでも無理はできないと考えたのだ。 「サワムラさんも、まだ何もわかっちゃいない」  今度は声に出して呟いた。
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