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二十四
その頃、ハダケンゴは偽名を使って都内のホテルを転々としていた。すでに台湾に高飛びするために準備をしていたのだが、ここで思わぬ邪魔が入った。元々、今回の『ブラッド』の密輸は、北陽会のセリザワカツミが香港ルートを使ったものだった。それをハダケンゴが横取りする形になった。横取りは失敗した。ここまでは想定の範囲内だった。代金は取引後に支払う算段になっていたが支払われなかった。北陽会の怒りもさることながら、香港黒社会『Σ(シグマ)』が取引の失敗で被った被害は尋常ではなかった。シグマはまだ香港では新興のマフィアである。日本最大の暴力団である北陽会と戦争することは避けたかった。ハダに計算の誤りが生じていた。北陽会が自分を追うことは想定していたが、シグマと北陽会の関係が拗れるだろうと考えていた。ところが北陽会はハダケンゴを戦犯に仕立て上げ、シグマの怒りの矛先をすり替えた。北陽会がハダを放置したのはそのためである。そのことは想定外だった。事件発覚後、すぐにでも台湾に向かうべきだった。ところが思いの他早く捜査の手が回り身動きが取れなくなった。一つの計算の狂いが、その後の全てを狂わせていた。周囲がやけに静かだった。そう感じていた矢先だった。
見知らぬ番号から着信があった。この携帯電話の番号はニッタジュンコにしか教えていない。嫌な予感がした。しばらく無視し続けた。何度目かの着信の後に、再び着信があった。今度はニッタジュンコからのものだった。電話に出た。
「女ハ我々ガ預カッテイル。六本木ノマンションニ金ヲ持ッテコイ」
血の気が引いた。
「わかった。だから女には手を出すな」
受話器の向こうで数人の男たちが広東語で笑い合う声が聞こえる。
「約束ヲ守ラナカッタノハオ前ラノ方ダ」
「すぐにそっちに向かう。しかし俺は警察にマークされている」
「オ前ガ来ナカッタラ、コノ女ハ死ヌ」
ヒアリのような奴らだ。知らないうちに日本に侵入し、根を張ろうとしている。
「女の声を聞かせてくれ」
通話が切れた。絶望的だった。今すぐ金を用意したところで、ジュンコを助けられる可能性はない。奴らの残忍さは知っている。ならば、奴らを殺すまでだ。ハダはアタッシュケースを開けた。オートマチックの銃が入っていた。銃弾を確認して弾倉を装填した。自分も無傷ではいられないだろう。この戦争で死んでも構わなかった。犬死だけはしたくないが、味方もいない。そう思った時、ふと房総の父の霊園で会ったタザキショウという刑事のことを思い出した。奴を利用するしかない。奴ら警察は今頃、俺を逮捕するために血眼になって探しているはずだ。シグマと奴と自分の三つ巴で状況をかき回せば、万が一にもジュンコが生きていてくれたなら、命だけでも救ってやれるかもしれない。ハダは新宿W書店のT社長を通じて、ショウと連絡を取った。タザキショウ、あの男が台湾で出会ったキョウゴクシズカの兄であることは、霊園で会った時にわかった。弟が台湾にいると聞いてピンと来たのである。思えば顔も似ている。あの男ならば弟の情報と交換に、単独で自分に会いに来るに違いない。弟のことは警察の仲間には知られてはならないはずだ。
ハダはレンタカーを借りて、六本木のマンションの地下駐車場に車を置いた。タザキショウに連絡を入れる。しばらく呼び出した後、ショウが電話に出た。
「タザキ刑事か?」
「ハダケンゴか? 今、どこにいる」
「お前の弟の情報を持っている。一人で来れるか?」
「勿論だ。で場所はどこだ」
「六本木。仲間には知らせずに一人でヒルズのB1駐車場に車を止め、ウエストサイド1Fの喫茶店『サンライズ』に来い」
「お前、弟の何を知っている?」
ハダが鼻を鳴らした。
「台北で俺はお前の弟に会った。今、どこにいるのかも知っている」
「それは本当か?」
「本当だ、嘘は言わない」
「わかった、すぐに向かう。ウエストサイドのサンライズだな?」
と言うと、通話が切れた。
ショウが車で六本木に向かっていた。サヤカには適当な理由をつけてきた。嫌な予感があった。ハダの方から連絡してくるということは、余程の理由があるはずだ。奴は弟のリュウのことを知っていて、それを隠していた。取引のカードに利用するつもりがあったのか知らないが、信用できない。どこまでも食えない奴だ。しかしハダがリュウの居場所を知っていると聞いては黙っていられない。奴は確かに台北で会ったと言っていた。嘘は無いはずだ。奴もギリギリの行動に出ていると感じる。念のために銃を携帯した。通常、組対はS&W社M3913(アメリカ製)を使用するが、ショウには拘りがある。シグザウエルP230J(スイス製)は32口径ACP弾を使用するため、殺傷力が比較的低いことで知られる。日本警察でもSPや要人警護などで使われるものだ。ショウは自分の銃で人が死ぬのを嫌った。両親が銃で殺害されているからということもあるが、二年前に左足を撃たれてから、その思いはより強くなった。以前はそうではなかった。両親の敵と対峙したら、きっと胸部より確実に死に至る頭をぶち抜いてやりたいとさえ思っていた。今でも逮捕して罪を償わせるだけの、甘っちょろい復讐で済ませるつもりはないが、脳天を撃ち抜いて、脳髄を地べたにぶちまけてやりたいとは思っていない。その代わり数発撃ち込んで、その苦しみを味あわせたいという思いはある。だから肉を貫通する、殺傷力の低い銃を選んだ。
六本木の交差点を曲がり、車はヒルズの地下駐車場へと入る。高級車がずらりと並んでいる。ショウのアウディクワトロが霞んで見える。扉を閉める音が響き渡る。エレベーターで地上に出て、ウエストサイドに向かった。地上は人通りが多かった。平日の昼間で、近隣のビジネスマンやOLの姿も見える。指定されたサンライズという喫茶店はすぐに見つかった。店内に入ると、ハダが軽く手を振った。昔からの友人に手を振るような軽さがあった。ショウは抑えながらゆっくりと近づいた。席の手前で立ち止まる。
「やあ」
サングラスをして口元は緩めているが、頬の辺りがやつれたように見える。張り詰めた雰囲気が漂っている。不思議なオーラをまとった男だ。
「どうぞ、座ってください」
ショウが向かい合って座る。
「弟の情報を持っているとか」
「ええ、ですがその前に、タザキ刑事は私を逮捕しないのかな?」
「逮捕されないという確信があるから、俺を呼んだんでしょう?」
ハダが苦笑する。
「さすがだな、そんなところも弟によく似ている」
ショウが大きく目を開く。
「最近、弟に会ったのか?」
ハダが静かに頷く。
「弟のリュウは今、台北のどこで何をしている」
「弟の本名は、リュウというのか」
「そうだ、タザキリュウ」
ハダは控えめだが、声をあげて笑った。
「現地ではそう呼ばれてはいないがな、タザキ刑事と雰囲気がよく似ている。それに声もそっくりだ」
と言って、白い歯を見せた。
「弟は、現地では何と?」
「キョウゴクシズカ」
「キョウゴク・・・・・・シズカ」
声に出してなぞった。そして四年前、リュウが台湾行きの飛行機に乗ったと義理の妹であるサエキキョウコから知らされ、搭乗者名簿を調べた時のことを思い出していた。弟が偽名を使って出国していたとは。それでは見つかるはずもない。
「弟は、その偽名を使って、今、何をしている」
ハダが苦笑する。
「立場はアンタと対極にあると言っておこう。私の側にいると言うべきかな」
重苦しい雰囲気が漂った。
「タザキ刑事は、台湾黒社会という言葉をご存知かな? まあ、刑事なんだから、一度は聞いたことがあると思うが」
「ああ、聞いたことがある。マフィアのことだろう?」
ハダが頷く。
「シズカは、今、台北の白蓮幇という組織にいる」
ショウはその白蓮幇という組織の名を、情報屋の李俊明の口から聞いたことがあった。確か日本人のメンバーを受け入れたと聞いたが、それがリュウだったということか。
「で、その組織の中で弟は何をやらされているんだ。それを何故お前が知っている?」
「タザキ刑事は、私の商売をあまりご存知ないようだ。私が代表を務めていた北華貿易と台北の白蓮幇とはビジネスでの取引があった。あなたもよく知っている通り、日本のアダルトDVDは国内ではもうダメだが、海外ではコピー品が大量に出回るほどの人気がある。私はフロントビジョンの流通を北華貿易にやらせる傍ら、台湾に日本のアダルトDVDを横流ししていた。地元台湾でその窓口になっていたのが白蓮幇というマフィアで、シズカとはそこで出会った。北京語がわからない私の通訳兼世話役もやらされていたんだろうが、私は彼のことがとても気に入った。それ以来、彼とは私が台湾を訪れる度に会うようになったのさ。そこで彼には日本に残してきた兄がいると知った。初めはタザキ刑事の顔など全く思い浮かばなかったよ。何しろW書店で少し顔を合わせただけだったからね。まさかあなたが、シズカが探している兄だとはさすがの私も気づかない。日本の人口を考えたら、それこそ奇跡的な確率じゃないかね? 縁というやつは、恐ろしいものだ。私が房総の父の墓を見舞った時、偶然、タザキ刑事に出くわしましたよね。あの時、台湾のキョウゴクシズカとタザキさん、あなたが私の頭の中で繋がった。これはもう奇跡としか言いようがない。運命と言い換えてもいい」
「そうだったのか、あの時・・・・・・」
ショウは同僚で自殺したオカダジロウが、この奇跡的な出会いを引き合わせてくれたのだと思った。
「弟には、それを?」
ハダが首を横に振る。
「まだ話していない。私は元々ズルい男でして、何かの時に役立ちはしないかとある意味計算していたんですよ。それに私とシズカはこれから将来、大きなビジネスを一緒に立ち上げなければならない。だから今はあなたとのことで、波風立てたくなかった」
「新しい、ビジネス?」
「そう、まあ、それは今、申し上げるわけにはいかないが、私はそのためにこれから台湾に向かわねばならない。しかし邪魔が入ってしまった。それを私とタザキ刑事で取り除いて、私を無事に台湾に向かわせて欲しい」
ショウが苦笑する。
「俺にお前を台湾に逃がす義理などないはずだが」
今度はハダが苦笑する。
「それがあるんですよ、タザキ刑事。私を無事台湾に逃がさないと、弟の命がどうなるか保証はないと言っているんです」
「汚い真似をするんだな」
「まあ、そう言わないでくださいよ。ビジネスですから。その代わり、上手くいったら、私がタザキ刑事がシズカに会えるように、組織に話をつけましょう。これでどうです?」
ショウが苦笑する。
「で、俺はお前と何をすればいいんだ?」
「さすが、そう来なくっちゃ。実は今、六本木の私のマンションで、私の大切な人がある組織によって人質になってる。それを何とか助け出したい」
「ある組織って?」
「あなたもご存知かも知れないが、香港を拠点に活動しているシグマというマフィアだ。新興の勢力なんであまり知られていないが」
「知らないな。でもなぜ奴らに狙われている?」
「最近、芝浦埠頭で麻薬の密輸事件があったでしょう? 警察はその件で私を捜しているはずだ。あのブツは北陽会がシグマと取引するはずのものだった。それを私がくすねようとしたのさ」
「お前は北陽会の傘下だろう?」
「建前はな、だが奴らは一枚岩じゃない。俺は猫をかぶっていただけさ。奴らに従ったことは無い」
「奴らにも追われているのか?」
ハダが苦笑する。
「ところがそうではないらしい。奴らはまだ押収された麻薬の代金を払っちゃいない。本当に腹を立てているのはシグマの連中さ。北陽会はトカゲの尻尾を切ったのさ。いずれそうなることはわかっていた」
「俺にはお前が故意に取引を失敗したように思えたがな」
ハダが声をあげて笑う。
「面白いことを言う。確かに台湾にずらかる俺にとっては、麻薬の取引などどうでもよかったのさ。ただ北陽会の香港ルートを潰してから高飛びするのも一興かと思っただけだ」
「北陽会は香港以外にもルートを持っているんだろう?」
「まあな、それによって喜ぶ奴らもいるんじゃないか? でも俺にとってはそんなことどうでもいい」
「なるほどな。ところで人質は女か?」
ハダが初めて表情を歪めた。
「ああ、もう長く付き合った大切な女だった」
ショウが顔を上げる。
「だった?」
「ああ、ビジネス抜きで愛した最初で最後の女だった。俺の立場が危なくなって、女に危害が及ぶ前に別れたつもりだったんだが。六本木の部屋を女にやったのが失敗だったかもしれない」
と言って唇を噛む。
「お前にも、ビジネス以外の感情があり、それが仇になったということか」
「まあ、そう皮肉るな」
「よし、いいだろう。取引成立だ」
ショウが席を立つ。ハダを見た。
「お前、銃はあるのか?」
「タザキ刑事、俺を舐めてもらっちゃ困りますよ」
そう言ってハダが白い歯を見せた。
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