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一
月が水面に静かに揺れる夜だった。
八月、芝浦埠頭に香港からの荷を載せた船が停泊していた。月が低い位置にあるせいか、普段より大きく見える。それは作り物のようでもあり、盛り上がった卵黄のようでもある。船が港の明かりに照らされ、船首の反ったカーヴがシルエットとして浮かんでいる。腐りかけた潮のにおいがする。襟元に湿った生温かい風が絡む。どこか遠くで、汽笛がボウッと小さく息を吐いた。
船内では二人の男が積荷の確認作業をしていた。錆び付いたコンテナの中に、木製の箱が積まれている。荷受人は記されていない。スキンヘッドの男が額の汗を拭い、大きな溜息をついた。
「しかしクソ熱いぜ、まるで蒸し風呂じゃねえか! 何で俺たちがこんなことしなきゃなんねえんだよ。なあ、ヤス」
痩せた男の名はアベヤスオ。スキンヘッドの男の舎弟である。
「仕方ねえっすよ、社長の命令っすから」
「あの野郎、チビのクセして偉そうにしやがって、せめてクーラーの効いてる部屋じゃないとよ、見ろよ、このシャツ」
シャツは脇から腰にかけ、また首周りから背中へと黒いシミができている。スキンヘッドの男がタオルで頭を拭い、
「汗が目に入って痛てえよ。一体何を密輸したんだ? どうせ、香港で盗んだ時計か何かだろ」
箱を持ち上げようとしたが持ち上がらなかった。
「クソ重い! なんだこりゃ?」
と吐き捨て、スキンヘッドの男がハダに言われた通り、積荷を数え、中身を確認するためにバールで木箱の蓋をひっぺ返した。缶詰めが入っていた。手に取ってラベルを確認する。中国語で「トマトジュース」とある。
「何でトマトジュースなんか」
スキンヘッドの男はラベルを見つめたまま、次第に顔が青褪めて行った。
「兄貴、どうしたんすか?」
スキンヘッドの男は溜息をつき、
「これか、これだったのか」
アベヤスオが首を捻る。
「おい、ヤス、これはトマトジュースなんかじゃない」
「じゃあ、何すか?」
「恐らく『ブラッド』だ。噂で聞いたことがある」
「兄貴、そのブラッドって?」
「麻薬だよ、今、都内に出回っている。チューインガムのような形で噛むと効果が現れる。唾を吐き出すと血を吐いたように見えることからそう呼ばれている。まさか液体で密輸していたとは思わなかったぜ」
アベヤスオがポカンと口を開けている。
「ヤス、俺たちゃヤバいモノを運ばされてんぞ」
積荷を見上げた。一箱の中に百本ある。その箱が三十箱積み上がっている。合計で三千本。成分をガムに浸透させて売るのである。一本から製造できるチューインガムが末端価格で十万円ほどだとしても、およそ三億円ということになる。ハダはこれを山梨県富士吉田市に所有する忍野倉庫に運ぶよう指示した。恐らくそこがチューインガムの製造工場なのだろう。しかしよくも堂々と首都東京の港から密輸しようと考えたものだ。確かに見た目ではわからない。万が一中身を確認されたところで、ただのトマトジュースである。けれども抜き取りで成分検査された時に備えて、通関業者は買収してあった。計画は完璧なはずだった。
「無茶なことさせやがる」
スキンヘッドの男の汗は引いていた。この大量の麻薬をどうやって忍野まで運ぼうか。例え不審に思われ途中で止められたとしても、すぐにはバレないことはわかっている。それでも指先が震えた。港の駐車場に停めてある四tトラックをできるだけ船の近くに横付けし、一気に運び込む。幸い通関監視員は買収されていて、こちらの動きを黙認している。飲酒運転取締りの検問などが無ければ、普通に考えて中央自動車道で忍野まで持ち込めるはずだった。しかし万が一途中で交通事故やスピード違反を犯したら、積荷は調べられるかもしれない。バレて麻薬が警察に押収されでもしたら、自分はその翌日、今目の前にある腐ったにおいの漂う東京湾の底に沈んでいるに違いない。スキンヘッドの男は急に体が硬くなるのを感じ、数回吐き気を催した。
「やるしかない、逃げたら逃げたで殺られる」
「兄貴、忍野まで運んだ後、まさか口封じってことないっすよね」
「バカヤロウ、中国マフィアじゃあるまいし、日本人に限ってそんな理不尽なことする訳ないだろ」
「だといいんすけど、兄貴、前にハダのヤロウが中国人を銃で撃ち殺すのを見たんすよね?」
スキンヘッドの男が低い声で、
「ああ」
手に持った缶詰を戻すため、再び箱の中に手を入れた時だった。
「痛ッ!」
思わずスキンヘッドの男が仰け反り、大声を上げた。右手首を左手で握りしめ、人差し指を凝視している。指の先から血が滴っていた。顔が青褪めている。
「兄貴、どうしたんすか?」
「刺された」
「え? 何に?」
「わからねぇ、でも、今、俺の指先に何かが刺さった。ほら見ろ、血が出てる。それに指先がジンジンする、痛てぇ」
「木箱の棘でも刺さったんじゃないっすか? 全く兄貴はでかい身体して大袈裟なんだから」
「いや、違う、指先が熱い。まるで火傷したようだ。見ろ、もうこんなに腫れてきてやがる」
アベヤスオが覗き込み、そしてスキンヘッドの男の顔を見た。
「兄貴、何か凄い汗っすよ、顔色も悪いし」
しかし、スキンヘッドの男は首を振り、
「おい、そんなことより今はコイツの始末だ。ヤスオ、コイツを今すぐ運び出せ、そんで忍野まで行け」
「兄貴は、すぐに医者に行った方がいいっすよ」
「わかってる。倉庫まで無事に運んだら、朝一で病院に行く。だから今はとにかくコイツを運び出せ」
二人は腰が沈むほどの木箱を台車に乗せ、船から降ろした。横付けした4tトラックの荷台に積み込むと、車を急発進させた。静まり返った港にタイヤの擦れる音が響く。助手席でスキンヘッドの男が呻いている。
「寒い、寒いぞ、チキショー」
「兄貴、やっぱ、どこか救急病院探した方がいいんじゃないすか」
「バカヤロー、今、こんなもん大量に抱えて病院なんか行けっかよ。こんな深夜にヤクザが転がり込んだら、それこそすぐに通報されるだろうが。ブツが見つかったら俺たちは終わりだ。今は余計なこと考えずに忍野に向かえ」
スキンヘッドの男は意識が朦朧としてきたのか、口をポカンと開けたまま、ドアと背もたれに埋もれるようにしてぐったりとした。
「どうなっちまってんだよ! 一体、何なんだ。わけわかんねぇ」
苦しそうな呻き声を聞く度にアクセルをベタ踏みした。深夜の一般道は空いていた。信号が赤に変わったが、そのまま突っ切った。そして首都高速の入り口の近くまで来た時、背後でパトカーのサイレンが鳴った。
「やっちまった」
振り切って逃走しようか迷ったが、逃げ切る自信が無かった。仕方なく車を路肩に停車させた。パトカーから警察官が降りて近づいて来る。
「運転手さん、急いでたかなぁ、わかるよね、信号無視」
「すんません、連れが急病で・・・・・・」
警官の一人が助手席を覗き込む。そして顔を歪めた。声をかけたが反応が無い。すでに呻いてもいなかった。警察官が助手席のドアを開けると、スキンヘッドの男の首がだらりと垂れた。
「おい! 救急車!」
警察官の一人が大声で叫ぶ。ヤスオに向かって怪訝そうに、
「おい、どうなってるんだ? 何故、もっと早く救急車呼ばなかったんだ?」
ヤスオが下を向いたまま何も答えない。挙動がおかしい。
「お前、何か隠しているな? 車両を調べさせてもらう。エンジンを切って、荷台を開けろ!」
するとヤスオが真っ青な顔を上げた。
「に、荷台もですか?」
「そう、今すぐ開けて!」
遠くで救急車のサイレンが聞こえる。音が近づいてくる。ヤスオがエンジンキーを回した。アクセルを踏んで急発進する。タイヤが白い煙をあげた。もう後のことは覚えていない。パトカーに追われ、秋葉原付近で捕まった。気付いたら警察署の取調室にいた。
警視庁万世橋警察署。朦朧として自分は何を話してしまったのだろうか? 全く覚えていない。今、机を挟んで目の前で吠えている男の声もよく聞こえない。兄貴はどうなったのだろうか? 北華貿易とハダケンゴについて口を割ってしまったのだろうか? すでに大量の『ブラッド』の原液は押収されている。メディアで放送されてしまっただろうか? だとすれば俺の人生は終わりだ。この取調室にいることで安心感を覚える。皮肉なものだ。もしシャバにでたら、きっと北陽会の奴らによって、東京湾に沈められる。コンクリートブロックを抱いたまま、冷たい海底に沈められるのは嫌だ。けれども忍野の山中まで連れて行かれて、撃たれ、人知れず埋められるのも御免だ。そんなことばかり考えていた。刑事の一人が口を開いた。
「おい、さっき病院から連絡があって、お前の兄貴分が死んだぞ」
初めは誰が死んだのか理解できず、呆然と机の角を見つめていた。
「昨夜、お前たち二人は一体どこで何をしていたんだ? 一体どうしてお前の兄貴分は死ぬハメになったんだ?」
そこで初めて、兄貴が死んだという言葉が理解できた。
「ええ? そんな!」
刑事が眉をひそめる。
「兄貴が死んだなんて嘘だ。ちょっと指先に何かが刺さっただけじゃないか。なのにどうして?」
刑事たちが顔を見合わせる。
「指先に何か刺さっただと?」
「そうだよ、兄貴が船ん中で香港からの荷を調べてたら、急に棘が刺さったとか、刺されたとか叫んで、見たら指先から血が流れていたんだよ」
「棘が刺さったくらいで人は死なんだろ?」
ヤスオが机を叩いた。
「だから、俺も何がなんだかわかんねぇんだよ!」
「お前たち二人は船の中にいたんだな?」
刑事の一人が頷くと、取調室を出て行った。
「ああ、チキショー、どうなってんだ、一体」
アベヤスオが机に突っ伏した。
その頃、万世橋署では緊急の捜査会議が行われていた。
「昨夜、管内で信号無視車両を調べた際、荷台から、今都内に出回って問題になっている禁止薬物『ブラッド』の原液三千本、末端価格にして三億円分を押収した」
「三億円!」
オオッという声が漏れる。会議室がざわついた。
「被疑者はアベヤスオ三十一歳、北陽会系の準構成員。さらに同乗していた男は死亡。死因は不明、現在調査中。死亡したのは同じく北陽会系組員、オオタタカシ四十三歳、アベヤスオは現在取り調べ中だ」
捜査会議は殺人事件の容疑で捜査一課が、そして被疑者が北陽会系暴力団組員で、薬物が押収されていることから組織犯罪対策課、通称『組対』との合同になっていた。
その中に、タザキショウ刑事三十歳の姿があった。ショウは地域課の課長ヨシオカの推薦を得て、二十九歳の時に刑事への昇進試験を受け、最高の成績で突破した。その後、刑事専科を受け三十歳で再び万世橋署の『組織犯罪対策課』の刑事として配属されていた。
「被疑者の死因が不明って、本当っすか?」
刑事課の若い捜査員が声をあげたが、組対の陣取る一角は冷ややかだった。殆んどヤクザと見分けがつかないような出で立ちで、髪をオールバックにした通称『リーゼント刑事』ことシンジョウ警部補が声をあげる。
「死人の捜査はそっちで勝手にやってくれよ、それより、北陽会とヤクについてはこっちでやらせてもらう」
会議室がまたざわめく。ショウがため息をついた。
「ヤマガタさん、なんでウチっていつもケンカ腰なんです?」
ショウの一年先輩であるヤマガタジュンイチが、
「ウチのお客さんが、そういうお客さんだからな、自然にそういう口調になってしまうんだよ。一種の職業病だな。だってそうだろ? 組事務所にガサ入れして、丁寧な言葉使ってたら、それこそ奴らにナメられちまうだろ? シンジョウ先輩も毎日ケンカのつもりで真剣に戦ってるんだ。ショウ、お前だってまだ組対に入ったばかりかもしれないが、いくら物腰の柔らかいお前でも、自然にそういうのが身についてしまうんだ」
「そうでしょうか?」
「ああ、間違いない。俺だって、家でカミさんに時々注意される。あなたの言葉遣い、まるでヤクザそっくりって。そう言われて慌てて直すんだけど、周りはドン引きだよ、全く」
ショウが苦笑した。
「ところでショウは何でまた組対なんか選んだのさ、噂によると試験の成績がトップだったんだろう? 他にも行くとこあったんじゃないの? ショウの柔らかい雰囲気だったら組対じゃなくて、捜2とかさ、頭も良いわけだし。それに比べてウチはシンジョウさんには悪いけど、皆、頭筋肉質だし、元ヤンも結構いる。来るとこ間違ったんじゃないの?」
ヤマガタが笑った。
「いいえ、そんなことないです。外国人犯罪をどうしても扱いたかったんです」
「へぇ、そうなんだ。物好きだね」
「ヤマガタさんは何故組対に?」
「俺か? 俺は、どうせやるなら最も危険なところでやりたかったのさ、ショウもその口かい?」
ショウが苦笑して首を横に振った。
ショウは二年前の冬、ミウラユキナの父が万世橋署に訪ねて来た時のことを思い出していた。新宿で発生した女子中学生誘拐殺人事件の容疑者に接触したショウは、左足を撃たれ負傷した。ちょうどその傷が癒えた頃にユキナの父が現れ、娘との交際を断念するように迫った。ショウはしばらくの間、そのことをユキナには伝えなかった。ユキナが逆上して、父親とケンカになるのは目に見えていた。ただ、地域課課長のヨシオカの薦めで、刑事への昇進試験を受けることは心に決めていた。
「ユキナ、ちょっと話がある」
「ん? 話って何だ? 改まって」
ショウは神保町の裏通りにある行きつけのショットバーにユキナを呼び出していた。この店はショットバーではあるが、元々はイタリアンレストランで、料理が美味い。きょとんとしたユキナの顔を見たら、何も話せなくなった。近頃のユキナは、以前にも増して綺麗になった。自分の恋人だから贔屓目に見ているわけではない。ユキナもショウと同じく来年三十歳になる。表現は悪いが大人の色香が漂っていた。
「居酒屋より、バーが似合うようになったな、お前」
「今更何言ってんだよ、アタシだって来年三十歳だよ。そこら辺の若い子からしたら、もう立派なオバサンだかんよ、全く歳とるの早くて参っちまうぜ」
ショウが微笑した。
「お前がアイドルやってたとはな」
ユキナが顔を真っ赤にした。
「おい! ショウ、怒るぞマジで。お前さ、さっきから何か言いたそうにしてっけど何だよ、ハッキリ言ってみろよ」
ショウがユキナの目を見て頷いた。
「今度、刑事の試験を受ける」
ユキナが目を大きくした。
「そ、そうなのか」
「嫌か?」
ユキナはしばらく黙っていたが、何度か小さく頷いた。
「いいや、そんなことないぞ。お前の決めたことだ。アタシは何があってもお前のことを応援するって決めているから。そりゃ、心配もあるし、会える時間が少なくなるのは辛いけど、お前が決めたことに、ごちゃごちゃ言わねぇって決めたんだ、アタシ」
「そうか」
「アタシに言いたかったのはそんだけか?」
「そうだ、それだけだ」
ユキナの父の顔が思い出された。
「ここのイタリアンは美味いぞ、心置きなく食べて帰ろうぜ」
「ショウ」
と言いかけて、口篭った。
「実は、アタシからも話があるんだ」
ユキナの瞳の奥を覗き込んだ。
「何だよ、ショウ、そんな目でアタシを見るんじゃねえよ、ドキドキしちまうだろ?」
「で、話って何だ?」
「実はな、たいした話じゃねえんだけどさ、アタシ、新宿の料理学校通ってるだろ、そこの講師が結構有名な奴でよ、今度テレビの収録があるんだ。で、その講師がよ、アタシにアシスタントとして収録に付き合ってほしいとか何とか言ってるんよ、アタシどうしたらいい?」
「何だ、その講師に惚れられたのか?」
「そ、そんなんじゃねえよ。じゃあ、やっぱアタシ断る」
ユキナが下を向いた。
「いいんじゃないか、テレビに出てみれば」
「い、いいのか? テレビに出ても」
「良いも悪いも、お前自身が決めることだ。俺もお前を応援する」
「あんがとな、ショウ。何、ちょっとテレビに映るだけだから心配すんな。それにアタシにはアンタという強い味方がいるかんな。芸能界に悪い奴がいたってアタシの彼氏が警察官だって知ったら、誰も手出しなんてしねえだろ?」
「これまで無理させて、悪かったな」
「ん? 無理なんかしてねえよ、考え過ぎだ」
「そうか」
心のどこかに、女優の道を諦めさせたという思いがあった。
「ユキナ、テレビカメラの前であまり話すなよ」
「またバカにしてぇ、そんなこと言うんだったら、もうエッチさせてやんないぞ」
ショウの背中を叩いた。
「ユキナ、俺も今は自分の信じた道を歩んでいる。だからお前も俺に構わず、自分の好きな道に進め、後悔しないように生きろ」
ユキナの表情に一瞬影が差した。学生の頃にショウと別れた時のことが脳裏に浮かんだ。あの時も同じだった。恐らくその時のことを思い出したに違いない。
「でも、ショウ、今のアタシはあの時のアタシとは違うかんな。アタシはずっとお前と一緒にいるって決めたんだ。アタシの中には道は一本しかねえ。もう、別々の道なんて歩んだりしない」
「わかってるよ、ユキナ。だから俺に遠慮せず頑張ってこい」
「ああ、わかってる!」
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