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 春。四月一日に辞令を交付するから出勤する様にと通達が来たため、この日、おれは指定された時間通りに学校へ向かった。地元の高校だから、所在はよく知っているし何度も学校の側を通ったこともある。だが、この門の向こう側へ入るのは今日が初めてだ。  正門を抜けるとすぐ目の前にグランドがある。グラウンドと言っても、そう広くない。バスケットコート三面分よりやや広いくらいのものだろうか。そのグラウンドを囲う様に、東西南北に校舎が据えてある。街中に構えている学校だからか、何とも言えない閉塞感からか、いやはや。足を踏み入れてみると、大きいのか小さいのかよく分からない学校だ。  正門から入って右手、東側の校舎の一階に在職の教員らしき人を見つけた。新任だから今日やって来たのだが辞令はどこで受け取るのかと尋ねたら、南校舎の二階、階段を上がって左手に進めば分かると言う。ただでさえ校舎が沢山あり教室も数えきれないのだから、今日くらい案内を出しておけば、こう一々説明する手間も省けるのに。そんな案内や貼り紙を出していたら、それはそれで仰々しいとおれは思うのだろうが。  案内された部屋は会議室か何かだろう。明らかに教室と言うには狭く、生徒が使う様な木の机や椅子は一つも無い。代わりに四人がけの長いテーブルとパイプ椅子が用意されていた。もう今日呼ばれたおれ以外の全員が集まっているのが目に見て分かる。八つ用意されたパイプ椅子の空席は一つしか無いからだ。椅子に腰掛けおれも定刻を待つことにした。  皆、何か話をする訳でもなく静かに時計を見つめている。この人達はいつからこうしているのだろうか。おれが来たのは定刻の五分前。その時点では皆、微動だにせず彫刻の様に固まっている。公務員はお堅い仕事だと言うが、それに勤めようとする人間も確かに堅い。それとも皆、これから始まる学校生活に緊張しているのだろうか。  それぞれの顔を覗いてみると、若そうなのもいるがおれよりは歳上だろう。半分は年配者で見たところ四十代、所謂中間管理職といった具合の見てくれだ。  新任だからと言って、おれの様なルーキーばかりではないのは当然であろう。公立学校の職員には異動というものがあるのは、おれでも十分に知っている。小学生の時分から、他所の学校へ行く先生、他所からやって来る先生が毎年の様にいたのだから。この石像達は、去年度は別の学校に勤めていて、今日からここへ勤めることになったのだろう。何年かに一度、県内とはいえ、言わば転勤を命じられる訳だ。せっかく勝手が慣れてきた頃に、また新しい場所で一からその学校に馴染む様努めていかなければならないのだ。ご苦労なこった。  隣の一人、この黒縁眼鏡の男だけは明らかに若い。スーツもリクルートで、革靴も下ろしたての様に光っている。おれと同じ新入の新任であろう。試しにこの黒縁に話し掛けてみることにした。 「おれ、初めてなんですよ。新卒なもんで。辞令交付って何するんですかね?」 「本当ですか?僕も新卒なんです。もう右も左も分からないんで緊張してしまって」  やはり黒縁もおれと同じ新米の様だ。そして、取って食われる訳でもあるまい。何を緊張する必要があるのだろうか。でも、それもこの男に限っては、もっともかもしれない。背丈はおれと変わらないであろうが、おれよりも随分と華奢だから、いくらか小さく見える。こんな者と比べたら、それよりも屈強な生徒の方が多そうだ。自分より強そうなそいつらの前に立って、偉そうに授業だ指導だなんだと、講釈を垂れないといけない訳だから、それはさぞかし緊張するであろう。見た目の線の細さと緊張が相まって、さらに小さな男に見えた。見ていて何やら、この黒縁が不憫に思えてきた。 「本当、気の毒ですね」 「え?」  つい口から漏れてしまった。黒縁は驚いて目を丸くしていたので、「いや、気に毒ですね、この待ち時間は」と適当に濁しておいた。  そうこうしているうちに、定刻ぴったりに何やら偉そうな者たちが三人やって来た。付き人の様に後ろにくっついているのが教頭と事務長、それらを引き連れて来たのが校長だ。背はおれより高そうで、表情はキッと引き締まっている。勤勉さが売りといった様な、背広とネクタイが似合う人だ。  打って変わって教頭の方はと言うと、スーツの上からでも分かる程腹は出ており、顔も丸々としていて団子っ鼻。四月の頭のこの時期だというのに額には汗が滲んでいる。校長と教頭といえば学校の顔役の様な立場の人間のはずだが、一つ階級が違うだけでこうも見た目に差があるのかと不思議に思った。  事務長の仕切りで、この辞令交付なるものが始まった。それに先立って校長から、教育者とは何か、教育の何たるかという精神論の演説が始まった。教師とは生徒の模範であるべきだの、常日頃から勉強と研鑽を惜しむなだの、学校を一歩出ても保護者や生徒は見ているのだから慎んだ私生活に努めろだの、段々と話が無茶苦茶になっていやがる。そりゃあ国民の血税がそのままお給料として手元に入ってくる様なものだから、公務員は公務員らしくしろと言うのも分からんでもない。でも今日から公務員になるおれだって税金は払っている。それは今日までにもだ。タバコも毎日一箱買うし、たまにだが酒も飲む。それに公務員だって、教師だって人間だ。腹が立てば喧嘩をするかもしれないし、たまには仕事終わりには街に繰り出し、羽目も外したくなるだろう。しかし、仕事以外でも品行方正に努め、常に聖人の様に振る舞えなどどおかしな事を言っている。  そしてその話を、黒縁も他の人間も、メモを取りながら真面目に聞いている。軽い気持ちで教師をやると引き受けたが、何やらおかしな所へ来てしまった。それともおれがおかしいのかと不安になった。  校長の長い談義が終わり、一人ずつ辞令なる賞状の様なものが配られた。常勤講師として嘱託するという文言と、今日、四月一日から三月三十一日までという日付が印字されている。隣を見ると、黒縁は嬉しそうにそれを眺めている。おれは二つに畳んで鞄にしまっておいた。  皆に辞令が行き渡り、事務長から何やら手続きの話が終わると、さっそく自分の受け持つ教科の先輩方に挨拶に行く様促された。おれは社会科で、聞いたら黒縁は国語科だそうだ。国語の教師だと言われれば、納得と言えば納得だ。新任の中の若そうな見た目の奴の一人が同じ社会科だと言うので、そいつと一緒に指定された部屋へと向かった。  道中、自己紹介がてら、少しこの男と言葉を交わした。正採用ではない講師だが、よその学校で数年講師をしていたとのことであった。この四、五年、毎年受験はしているが、二次試験でどうにも落ちてしまうらしい。しかし、この男はなかなか賢そうな面構えをしているのに、こんな男でも教員採用試験は通らないものなのか。おれなんかが通る訳が無いはずだ。  社会科準備室という札が掲げられていたため、目的地は一目で分かった。中に入ると三人の職員がいて、申し合わせたかの様に三人ともがこちらに顔を向けた。今日からお世話になりますと隣で自己紹介をはじめたので、おれも続いて名乗り、頭を下げておいた。  向かい合わせに並んだ机が二組並び、一つはお誕生日席の様に皆の方に机を向けて配置してある。その、一番偉いのであろう位置に席を構えている男が挨拶を返してきた。社会科主任の様だ。禿げてはいないが、白髪に丸い眼鏡で、ずんぐりむっくりといった見た目の、博士の様な人だ。社会科なのに博士とは少し変な気がしたが、歴史博士であろうことは間違いない。この人は博士だ。博士は偉い場所に座っている割には腰が低く、おれの様な新米にも丁寧に挨拶をしてくれた。話し方からもその態度からも、校長の言いつけを体現した人物であろうことが伺える。素直な男だ。  もう二人は、芸人の様な派手な花柄のシャツの女に、ポロシャツの襟を立てた小太りの男。こいつらは顔にいたって特徴が無い。博士と花柄と立襟シャツ、四浪の若者と、おれを含めた五人で社会科の授業を回していく。「いやぁ、この部屋も若返りましたねぇ」年配の三人が口々に言っている。若いから何だと言うのだ全く。年寄りというのは、若さを羨んでいるのだろう。年々と、髪は抜け色も落ち、知らぬうちにシワが一つ二つと増えていき、体の自由が効かなくなっていく様を、ただただジッと見守るしかないのであろう。老いていく自分と目の前の若者を見比べて、「俺も若い頃はこうだった」「昔は良かった」などと、酒を飲みながら口々に溢すのだ。そんな奴らは多分、今を生きていない。自分が輝いていたであろう日々を思い返して、今の自分から目を背けているだけに思える。人生必ずしも、若ければ良いということではないであろうに。おれの様な若造は金も地位も無く、身一つで世に出てきたばかりだから、贅沢もできなければ、博士の様な席に座ってふんぞり返っていることも許されないのだ。吸い始めた時分は三百円だったタバコは、今や軽く四百円を越えているから、おれみたいな貧乏人は根元まで吸って凌いでいる。  歳を取り、体が言うことを聞かなくなってくるのは仕方ない。でも、何かに挑戦し続けることで、心を若く保つことはできるはずだ。いや、そう挑戦していくための体力が追いつかなくなってくるのか。体が老いた結果、心までくたびれていって……。成る程な。歳を取るのも良し悪しだということか。  顔合わせの後は、新学期からの授業の進行についての軽い打ち合わせをした。おれは現代社会を受け持つこととなった。授業で使えと教科書を渡されたのだが、一通りめくって見てみると、自分が学生の頃使っていた物とはまるっきり違う。発問のポイントや解説がビッシリ書き込まれており、何なら板書の例まで載せてある。これに書いてある通りにすれば、どんな馬鹿でも授業ができる様に作られていた。おれには有り難い。生意気盛りのガキどもが相手だが、これなら本当に何とかなりそうだ。  別に明日からも毎日来て構わないが、出勤は約一週間後の始業式で良い。それまでに授業の段取り等を考え勉強しておく様にと、まだ昼も回らぬうちから、帰っても構わないというお許しが出た。四浪の若者はすでに教科書を開いて、残って授業の下調べやら何やらするとのことであったが、こんなもの、学校で読もうが家でソファーに寝っ転がって眺めようが同じことだ。おれは帰ることにした。  帰り際に黒縁に会った。真面目そうな奴だから、こいつも四浪の様に残って勉強に勤しむかと思っていたが、どうやら黒縁の方は明日にも出勤を命じられており、その際に授業の段取りをしていくとのことだった。皆、働き者で何より。  別れ際に、同期のよしみだということで連絡先を交換することになった。悪い奴ではなさそうだから、断る理由もなく承諾した。  おれが言うのもなんだが、改めて見ると、教師にもいろんな奴がいるものだ。子どもの頃から毎日見てきたが、先生というと、真面目で偉くて立派な人間ばかりかと思いきや、黒縁の様な頼りなさそうなのもいれば、四浪の様に苦労の絶えないのもいて。まぁ何せ、おれが教壇に立つことになる訳だから、色んな奴がいるものだ。  黒縁と別れた後は、街に繰り出す様なことはせず、まっすぐ帰路についた。初日くらいは校長の言いつけを守って、慎ましくしておいてやろう。家に帰ったら、辞令と教科書の入った鞄は放っぽって、そのままダラダラと過ごした。辞令の紙は、始業式の前日の夜に引き出しに片付けておいた。
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