34人が本棚に入れています
本棚に追加
1
現在七時二十三分。
七時五十八分の電車に乗ろうと思えば四十分には家を出なければいけないはずだ。
もう何回目だろう? そもそも居候の身のあいつがギリギリまで寝て、それを俺が起こしに行くのはおかしくないか?
別に朝に早く起きるのは辛くない。仕事を辞める時も生活リズムだけは崩さないでおこうと心に決めたし、小学生のころの夏休みのラジオ体操にも毎日参加できたほうだ。文句があるとすればそこではない。
自分のペースを崩されるのが嫌いだ。何事も計画的に進めることが好きだし、石橋は叩いて壊すぐらいの性格だ。できる限りいろんなリスクを減らしたい。もし自分が五十八分の電車に乗るのなら途中で忘れ物をしたり、トイレに行きたくなる可能性も考慮して七時半には家を出るはずだ。
そんなことを考えていても仕方がない。時間は刻一刻と過ぎていく。イライラも限界に達している。仕方なくいつもより大股で肩で風を切りながら、あの女の部屋のまで行く。部屋の中でも活動している気配はない。
大きく息を吸い込んでから、扉を激しく叩く。
「あかり、起きろ‼ いつまで寝てんだよ!」
あかりの寝起きが悪いのはこの二週間でいやというほど経験済みだ。根気強く扉を叩き、声をかけ続けた。時計の針はもう七時半を指そうとしている。しばらくしてバタバタと部屋の中で活動の音が聞こえ始める。時計を見て慌てて準備をし始めたのだろう。
「えっ、こんな時間⁉ ヤバい、ヤバい‼」
部屋の中から声が聞こえた。最低限やるべきことはやったと思い、リビングで日経新聞を広げ、飲みかけのコーヒーに口をつける。
しばらくして着替えたあかりが出てきた。
「おはよー」
着替えは済んでいるが、寝ぐせで髪の毛は見事なまでぼさぼさだ。
「おはよう。早く顔洗って来ないと遅刻するぞ。そのまま行くつもりか?」
あかりの髪の毛あたりを指さす。自分で触ってみて髪がはねていることに気づいたあかりは「あー」と叫びながら洗面所に向かってかけていった。
「もう少し早く声かけてくれたらよかったのに……」
歯ブラシをくわえながら恨めしそうにあかりが言う。
「起こしてもらえただけありがたいと思っとけ! いいから早くしないとほんとに間に合わないぞ」
全く危機感のない様子を見ているとこっちがイライラしてくる。ずいぶん厄介な荷物を託されたものだ。
女子の準備がこんなに時間をかけずに済むものなのかと半ばあきれるようなスピードであかりが洗面所から出てきた。鞄を肩から下げ、「行ってきます」と声をかけて玄関の方にかけていくのを背中で聞いていた。
「そうだ、もっちゃん……」
「ん?」
あかりは俺のことを「もっちゃん」と呼ぶ。岡本歩の「おかもっちゃん」が縮まったものだが、一度もその呼び方を許可した覚えはない。
「今日は夕ご飯待っててね。一緒に食べよ」
あかりの意図が分からず聞き返そうとしたがその前に玄関のドアが閉まる音が聞こえた。追いかけてまで問い詰めるような内容ではないのでとりあえずはそのままにしておく。あくまで成り行き上、間借りをさせているだけで、生活すべてを共にしているわけではない。
食事だってそれぞれの好きなものを食べるし、気が向けば一緒にとることもある。せっかくFIREしたのに生活を縛られてしまっては意味がない。
FIRE……ファイナンシャル・インディペンデント・リタイア・アーリーの頭文字を取った言葉だ。経済的な自由を手に入れて早期に仕事を退職しようというこの考えに大学時代に出会った。
最初のコメントを投稿しよう!