7人が本棚に入れています
本棚に追加
「立派な家ね。さすが社長だわ」
その声は突然聞こえた。この部屋には俺一人しかいないはずだ。
「......n国とm国の関係はどうなるんでしょうね。私達はどうするべきなんでしょうか」
......空耳か?テレビに雑音でも混ざったのかもしれない。
「ねえ、無視しないでよ」
今度ははっきりと声が聞こえた。俺は恐る恐る振り返ってみる。
平原を貫く雷のような衝撃だった。穏やかな遠い外国の海が一瞬で台風に飲み込まれたような衝撃だとも言えるかもしれない。
そこには実に美しい女性がいたのだ。美しいなんて言葉では到底言い表せないほど眩い魅力を放っていた。
「あの、」
はっとした。彼女の顔が少し赤くなっていたのだ。あまりに綺麗で、見とれてしまっていたようだ。
「すみません、綺麗な方だなとおもって」
「うふふ、ありがとう」
はにかむ彼女が実に美しい。白くて柔らかそうな肌に、艷やかに光る黒髪。照り輝く白桃の頬。そして、なんとも性欲がそそられる清純な表情。その自然に身にまとっている高潔な雰囲気の内側は一体どうなっているのだろう。
希有で儚くて気高い。
彼女はまるで、砂漠に舞う初雪のようだ。
「突然お邪魔してしまってすみません。......実は私、天使なの」
「......え?」
彼女の潤いのある唇がゆっくりと動く。
「私、天使なの」
妙に納得してしまった。天使だったらこの美しい容貌も不思議ではないし、そもそも普通は、高級マンションの最上階にある、この部屋に侵入できるはずがない。
「そうか。天使なのか」
「ええ」
彼女はゆっくり頷いた。
「実はあなたにお願いがあるの。私、天界を追い出されてしまったの。しばらく泊めてくれないかしら?」
くそっ、こんな美人が不安そうな顔をして頼んできているというのに、断れる男がこの世界のどこにいるだろうか。
「もちろん、いいさ」
その瞬間、彼女の顔がパッと輝き、より一層艷やかに見えた。華やかな目が細められ、思わず触れたくなるような唇が「ありがとう」と描く。
それから彼女はずっと俺の部屋にいた。俺は仕事が忙しくて、なかなか家にいる時間が取れなかったけれど、彼女はいつも俺に優しくしてくれた。俺が朝起きたら、毎日俺が好きなコーヒーを淹れてくれるし、仕事から帰ったら美味しい料理ができている。仕事で失敗したら慰めてくれるし、嬉しいときは一緒に喜んでくれる。毎日家に帰ったら彼女がいて、毎日が幸せだった。
だが、それも長くは続かなかった。最近、なぜかよく体調が悪くなるのだ。病院にも行ったが、原因は分からないと言われるばかり。仕事中にも体調が悪くなることが度々あって、支障が出始めた。部下にたくさん迷惑をかけてしまい、社長として情けない。会社を立ち上げてから、まあまあ成功して、経営するのが楽しかったからこそ、働けないのが悔しくて悔しくて仕方ない。
そしてある日、幸せは完全に打ち砕かれた。
「入院しましょう」
衝撃的だった。俺には彼女がいるというのに、どうして俺なんだ......!!
色々な感情が沸き上がってきて、目の前がうっすらと滲んできた。救いを求めるように医者の方を見ると、医者は想像以上につらそうな顔をしていた。
「......俺は、そんなに重い病気なんですか?」
医者は鋭い目をして、俺を射抜くようだった。その表情がすべてを語っていた。
なんて良い表情をするのだろう。役者にでもなれば、相当人気が出るだろうに。顔立ちも整っているし、今までもさぞ女性にモテたことだろう。
そんな場違いなことを考えてしまった。
つまり、医者はこれを伝えたかったのだ。俺の病気の原因はわからない。そして、この先どうなるかも全くわからない。
「......大丈夫?今日から入院よね」
「ああ」
大丈夫さ。俺には君がいるんだから。そう心のなかで付け加える。
「ただ、君の料理が食べられないことが辛いな」
「ふふっ。じゃあこっそり作って来るわ」
「本当か!?ありがとう」
「でも、早く良くなってね。あなたがいないと、家が広くて寂しいわ」
「ああ。すまない。すぐ良くなるさ」
それからというもの、彼女は毎日手作りのお菓子を持ってきてくれた。
俺はなんて幸せなのだろう。
コンコンん、と優しいノックの音がする。
この音は......
やはり彼女だった。
「こんにちは。今日で一週間ね」
「ああ。毎日来てくれて本当にありがとう」
「いいのよ。私があなたに会いたいんだから」
ああ、やはり美しい。この上品な笑顔を独り占めしてると思うと高揚する。
「今日看護師に、『彼女さん、毎日お見舞いに来てくれて、優しいですね。すごく美人さんだし、羨ましいです』って言われたんだ」
「あら、実は私も看護師さんに話しかけられたのよ」
「そうなのか。まあ、君になら誰だって話しかけたくなるさ」
「ふふっ」
「あはは」
殺風景な白い部屋が、君の心地よい笑い声で染まっていく。君がいれば、何年入院しても大丈夫だ。きっと、そんなことを言ったら君は怒るんだろうな。その柔らかい桃色の頬を膨らませて。
「もう面会の時間は終わりですよ」
「あら、本当だわ」
君と過ごす時間があまりにも楽しくて、また注意された。でも、また注意されるまでいてくれたら良いな。
「じゃあ、また明日」
「ああ、また明日」
明日も来てくれるのか。なんて良い言葉なんだろう。
コンコン、と優しいノックの音がした。この音はー
......え?
しかし彼女の顔は沈んでいた。いつもは美しいバラ色の頬が、しなった葉のようだ。どうしたの?と言う前に、彼女は口を開いた。
「今日は、あなたに言わないといけないことがあるの」
やめてくれ
直感がそう訴える。しかし彼女の決心は硬いようだ。
「私はもうあなたに会えない」
えっ......!?
「......どうして?」
自分にも聞こえないほどの声しか出なかった。しかし彼女は冷静に椅子に座った。
「あのね、私天使なの」
「ああ、知ってるさ」
「じゃあ、天使の仕事は知ってる?」
「......いや」
「それはね、世界中の人々の幸せの合計値を等しくすること。あなたは学生の頃から友達に恵まれて、大人になってからは会社を立ち上げ、その会社は大企業に成長した。そしてお金持ちになって、あんな良い部屋に住めるようになった。おまけに顔もそこそこ良くて、子供の頃からモテたでしょう。
つまり、あなたはこれ以上無いほど幸せな人生を歩んできた。だから、あなたには不幸になってもらわなければならないの」
「そんな......嘘だろ?」
「いいえ、嘘じゃないわ。私はね、あなたがどうすれば不幸になるか考えた。そしたら気がついたのよ。あなたに恋人がいないということに。だからあなたを私に夢中にさせた後に離れることにしたの」
「君は最初からそれが目的だったのか? 最初から俺のことは全く好きじゃなかったのか......?」
「ええ。でもそれだけじゃまだ足りない。だって、私が離れた後、あなたに新しい恋人ができたら、あなたは幸せになってしまうもの。だから私は、あなたに毒を盛った料理を食べさせて入院させたの。入院中に出会いなんて無いものね。もちろん、毒は天界から持ってきたものだから、下界の人間に分かるわけないわ」
彼女は微笑みながら言った。
「私の料理美味しかったでしょう?料理ができると色々役立つから、天界で一生懸命練習したのよ」
彼女はそこまで言って満足したのか、涼し気なため息をつく。
その横顔は、どこまでも美しい。
「下界では、天使は人を幸せにするという噂があるわよね」
彼女は独り言のように呟く。
「最後に教えてあげるわ。それも、正解。私達の仕事は世界中の人々の幸せの合計値を等しくすること。だから、不幸な人を幸せにしなければならない。
それが神の御意志なの。神は最初、無の空間から世界を創った。
......最初はみんな幸せに生きていたのよ。戦争も無かったし、周囲との競争も無かった。彼らはただ生きることだけ考えていた。
だけど時が経つにつれて、人々は無駄な知識をつけ、愚かになっていった。神は彼らを助けようとしたの。でも、どんどん人口は増える。そうすると神だけでは手が回らなくなるから、私達天使をお創りになったの。
ただ、大変な不幸を経験した人は、その後どんなに頑張って幸せになったとしても、産まれた頃から幸せな人には敵わない」
彼女は少し眉を曲げた。
「産まれた地域や身分によって差別されることってあるじゃない。どんなに素晴らしい人でも、一生差別され続ける。そしてその逆も然り。神はとても心を痛め、平等をお望みになった。
まあ、つまり、ずっと苦しい思いをしている人もいるのに、なんの苦労もしないで幸せに生きている人もいる。そんな世界、神がお望みになったものとは全く違うわ。神は、なんの苦労もしないで幸せに生きている人を憎んだ」
「じゃあ、俺はなんの苦労もしてないのに幸せだから不幸にならないといけないということか?」
「ええ。物わかりが良いのね」
「はあ......。まさか天使に不幸にされるなんてなあ。聞いたこともなかった」
「そりゃそうよ」
「......え?」
改めて彼女の顔を見る。
「あなた、私のこと嫌いになった?」
彼女は妖艶な瞳で俺の目を射抜く。そして、微かに口角を上げる。その顔は、俺が今までに見てきた顔と全く変わらなかった。
「私のこと好きでしょ?あなたが私のこと嫌いになれるはずないのよ。だって私は、あなた達とは比べ物にならないほど美しいもの。あなた達が好む顔、体型、髪、仕草、話し方、立ち振舞、性格、その他にも色々分析されて私達は創られたの。だから、何があってもあなたは私のことが好きなはずなの」
「ははあ」
思わず感心してしまった。確かに彼女のことを嫌いになれる男なんているはずがない。
「あなたは、私にされた酷いことを誰かに言う?」
そんなの......
「言うわけないわよね。だって、私のこと好きでしょう? 逆に天使に幸せにしてもらった人は、そのことを沢山の人に言う。だって、私達美しいもの。だから天使の悪い噂は広がらなくて、良い噂は広がるの」
ははあ......。実に上手く出来ている。何十年も生きてきて、いや、人類は何百万年も生きてきて、それなのに天使の仕事を大半の人は知らないなんて......
いや、そもそも天使という存在さえあやふやなんて......
「じゃあ、そろそろ行くわね」
「えっ......」
彼女は俺のことを無視するかのようにあっさりと立ち上がった。
そうか、すっかり忘れていた。もう、彼女に会えないのか......。
いや、そんなことあるはずがない。あってはならない。あんなに美しい彼女がいなくなるなんてーー
「待ってくれ」
「なに?」
彼女の艷やかで長い髪がさらっと舞い、彫刻のような顔がこちらを向く。
好きだ。俺は、君なしでは生きていけないんだ。おれとずっと一緒にいてくれ......!!
ふふっと彼女は笑った。
ただ、その笑みはいつもとは全く違っていた。彼女は、自分の魅力をかき消すほど深く暗い瞳をしていたのだ。
「ごめんなさい。そのセリフ、もう聞き飽きたわ。本当、みんな面白いぐらい同じことを言うのね。......私、忙しいのよ。これから他の人のところへ行かないと......。うっかりしてると私より先に帰ってきちゃうわ」
最初のコメントを投稿しよう!