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 花が咲いたらお母さんと会える――当時の私は本気で信じていた。好きだったものを復活させれば、蜂のように吸い寄せられるとでも考えたのかもしれない。  毎日水を注ぎ、見守り、話しかけた。だが、中々答えてはくれなかった。すぐ芽生えると思っていた私は、何度も父に無念をぶつけた。なんでを繰り返し、たくさん叩いた。でも、父は一度だって怒らなかった。今でも吊った目を思い出せない。  とにもかくにも、種は努力を受け付けず、眠り続けた。  それが私に応えたのは、細雪舞う冬の出来事だ。いつも通り私は、じょうろを装備し定位置に向かった。そこで見たものを、その時の感動を忘れた日はない。ひょっこりと挨拶していたのは、きれいな黄緑の双葉だった。  待望の芽が生まれたのだ。瞬間、母の帰りを見た気になった。その喜びで父に突撃し、尻餅をつかせてしまったほどだ。  その日から、一層の期待を注ぎ世話をした。もうすぐ花が咲く!と、希望を水に溶かし、芽に与え続けた。  だが、双葉が成長することはなかった――否、見届けられなかった。  祖父が亡くなり、隣町の祖母宅へ引っ越すことになったのだ。因みに祖父は病気だったらしい。顔を知らないせいで、全くピンと来なかったが。  頃合いだと思ったのだろう。そのタイミングで真実が告げられた。 「あのな、マイ。お母さんな、帰ってこないんだ。死んでしまったから、帰ってきたくても来られないんだよ」  その衝撃は、悲劇として記憶の根に埋まっている。 「お花咲いたらお母さん帰ってくるもん……」 「ちゃんと言えなくて本当にごめんな」 「帰ってくるのに! お父さんなんて大っ嫌い!」  ――それから、吐いてしまった言葉の罪深さも。客観視を身に付けた今でも、棘は取れていない。  母との思い出から引き剥がされ、傷付いた私は父を悪人のように見た。    人は待つとき、時間を伸ばしたりする。ましてや子供なら、一日が百倍にもなったりするものだ。  ゆえに、"成長しない"と思い込んだのではないか――なんて仮説を立てたこともある。しかし、肯定を阻む要素が存在した。  それこそが、芽生えてから引っ越すまでの期間である。そこが、どうしても合わなかった。  芽生えと降雪は、私の中で確実に共存している。しかし、私が土地を離れたのは、秋の出来事だった。  その事実は、中学生の頃に見つけたアルバムにて実証されている。祖母作成のアルバムに、日付と出来事がメモされていた。"マイが我が家にやってきた 10月2日"と。  一年も成長しない植物など聞いたことがない。インターネットに頼ってみても、観葉植物の情報しか出なかった。  一体私は何の種を拾ったのか。あのとき芽吹いた植物はなんだったのか。考えれば考えるほど、謎は深まった。
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