まず 土佐藩を考える

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まず 土佐藩を考える

1 土佐藩という特殊な藩を考えよう  倒幕を推し進めた藩の中でも、土佐藩の事情は特殊でした。  まず、明治維新とは戦国時代、もっと細かく言うなら関ヶ原の合戦と切っても切れない関係がある。  土佐藩は特にそこから紐解かなければならない藩なのです。。。。が、ここで熟々と関ヶ原の事を書いても、坂本龍馬に行き着くまでに延々とかかってしまいますから、手短に話しますと。  関ヶ原の時代、土佐は長宗我部って四文字名字の御方が納めておりまして、秀吉にはある程度恩はあるが家康なんて縁も無い、長宗我部さんは西軍に付くわけですが、歴史の教科書を広げるまでもなく、関ヶ原は家康率いる東軍が勝利するわけです。  実際長宗我部さんの陣地は関ヶ原の主戦場からかなり遠く、谷間の一本道は後の長州、毛利が居る為せき止められた形の長宗我部は、関ヶ原に来て最大の軍事行動が撤退行動になってしまったぐらいでした。  まあ、軍事行動的には東軍に刃を向けた訳ではないので、大目に見られそうなものですが、なんだかんだいちゃもんを付けられ、土佐は山内一豊の土地になってしまいます。  家康側から見れば、戦闘ではこれといった成果はなかったが、関ヶ原に至るまで家康に忠実に従った山内一豊に上げる丁度良い土地が見当たらなかったところに、土佐はうってつけだったのかも知れません。  そのような経緯で、後から土佐に入ってきた占領軍(山内)が「上士」長宗我部系の原住民を「郷士」とよび、そこには他の藩と比べものにならない差別があっり、徳川二百数十年の差別の歴史が、幕末に爆発して、その中で悲劇も生まれたのが土佐藩なのです。  龍馬は「郷士」階級ではありましたが、実家が質屋や金貸し業を営む割と裕福な家庭で育ったので、郷士の中でも恵まれた環境でしたが、郷士は上士と道ですれ違った時には上士の姿が見えなくなるまで頭を下げなければならず、大体の場合は土下座を強要されたそうで、郷士は高下駄を履くことも禁止、雨の日に傘をさすのも禁止だったようです。  抑圧された環境に居るはずの龍馬でしたが、家業の質屋に子供の頃から出入りするうちに、外ではあんなに威張り腐っている上士が、質草を入れにくる態度やお金を借りに来る態度のなんとみすぼらしいことか、と気づいてしまったのです。  龍馬の人間観察眼は実家の家業を見るウチに学んだといえるのかもしれません。  土佐の少年時代、龍馬の人生を変える一人目の人物とであって・・・いやこの人物は龍馬の家からわりと近所に住む、遠縁の親戚なので、出会いというのはおかしいかもしれませんね。  その人物は武市半平太、龍馬より七つ年上の兄的存在で、「白札郷士」という郷士の中でも一段上の階級で、お城への登城も許された立場でした。  半平太は少年青年期の龍馬を語る上では欠かせない人物となり、半平太の真面目さと、白札郷士のプライドを捨てきれなかった事を考えるに、武市半平太こそ土佐の特殊な土地柄に翻弄された人間はいないかもしれないでしょう。  重要人物の一人、武市半平太の登場をもって、第一のお話は区切りをつけましょうか・・・では第二のお話までお楽しみに。  
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