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「驚きすぎだろ。足音で気付かなかった?」
〈仮に足音が聞こえたとしても、それが白川だとは思わない〉
「あ、そう」
白川は相変わらずの無表情だ。彼も私と同じく、基本的に表情は無い。その口調の軽さからして私の様に機械的では無いが、表情が豊かで無い事には変わりなかった。
昨日の笑顔は、まぐれだろうか。白川が常に笑顔を振りまいていたらそれはそれで怖いのだが、もう少し笑っていて欲しいものである。せめて、一時間に一度位は。
「お前もこのバス使ってんだな」
〈それは私のセリフなんだが〉
「此処の近くに引っ越してきたんだよ。チャリ使っても良いんだけど、暑いし怠いじゃん」
〈まぁ、高校は小・中と違って交通手段がある程度自由だからな〉
怠い。どうやらそれは、彼の口癖らしい。
昨日一日会話をしていて思ったが、彼はその言葉を使う頻度が他の人より高く思える。
彼は常に、何事にも怠い、面倒臭い、などと思っている様だった。まぁ正直、その気持ちは分からなくも無いが。
他愛のない会話を交わしていると、遠くからバスが走ってくるのが見えた。バスの入り口は段差が高く、手摺を掴まないとのぼる事が出来ない。両手を塞いでいるタブレットとペンを素早くカバンの中に押し込み、未だ一人ぶつぶつと喋っている白川の肩を指先でつつきバスが来た事を知らせる。
バスが速度を落とし、バス停の前で停車する。そして独特の機械音を出し、扉が開いた。
私達の前に列をなしていた人達が順番にバスに乗り込んでいくのを見ながら、乗り遅れない様に痛む足を動かす。――しかし、何を思ったのか背後の白川が私の隣を擦り抜け、軽々とした足取りで先にバスに乗り込んだ。
――は?
何を考えてるんだこいつ。嫌がらせにも程度があるだろう。
沸き上がる苛立ちに奥歯を噛み締めつつ、文句も暴言も吐けずに黙ってバスの扉に近付く。そして漸く扉の前に辿り着いた時、その苛立ちがふわりと溶ける様に消えた。
私を見下ろす、茶色掛かった瞳。差し出される雪の様に白い手。
「足、悪いんだろ。手出せ」当たり前の事だと言わんばかりの顔で、白川が淡々と告げる。「ほら早く」
私の足が、遅いから追い越したんじゃなかったのか。
足が悪い事は、誰から聞いたんだ。
愛想が良い訳でも無い私に、何故そんな事をしてくれるんだ。
言いたい事は、山ほどある。だが喉の奥は塞がったまま、当然声は出ない。しかし、もし仮に私が声を失っていなかったとしても、同じ様に声は出せなかったと思う。
「何やってんだよ、遅れるだろ」
いつまでも動かない私に痺れを切らしたのか、白川が私の二の腕を強く掴んだ。そして力強く、引き上げられる。
彼の手助けがあったからか、バスに乗り込む際足の痛みは殆ど感じなかった。まるで抱き上げられでもしたかの様に、身体が軽かった。
その細い身体の何処にそんな力が隠されていたのか。そう思うも、きっとこれが男女の力の差なのだろう。それを実感させられた様な感覚に襲われ、胸がぎゅっと締め付けられる。
心の内に芽吹く、今までに触れた事の無い感情。その感情が何か分からず悶々と考えていると、二の腕を掴んでいた白川の手が私の手首に移った。そしてそのまま手を引かれ、白川の後に続く様にバスの中に進むと、「ここ、座って」彼が空いていた優先席の前に立ち止まり、その席を指しながら言った。
今の私に感謝を伝える術は無い。タブレットを早く取り出す為にも、コクリを頷きその席に座る。カバンの中に押し込んでいたタブレットを取り出し画面を付けると、幸いにもペイントツールが開いたままだった。
〈ありがとう〉
やや乱れた字だったが、早く感謝を伝えたくてディスプレイを見せる。すると、白川が短く「うん」と呟いて、私のすぐ前に立ち吊革を掴んだ。
バスを待っていた先程の時間も、昨日一日も、私といる時は煩い位喋り続けていたというのに、今の様な時に限って彼は何も言わない。上目遣いに白川を見上げると、彼はぼんやりと窓の外を眺めていた。
タブレットは、ペイントツールを開いたまま。右手は直ぐに文字が書ける様にペンを握り締めている。しかし、何故だか話し掛ける事が出来ず、学校近くのバス停に到着するまで私達が会話を交わす事は無かった。
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