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空を切った手とチャンスとの間にどれほどの距離があったのかを鷹村蒼人は測りかねていた。掴み損ねたチャンスは、それが本当に手が届く距離のものだったのか、手を伸ばす価値もないほどに遠かったのか。
二十歳で一人上京してから二十八までの八年間で、テレビに出たのは一度だけ。それもローカル番組の深夜ドラマのワンシーン。人の形をしてさえいれば誰でもいいような端役も端役。
拾ってくれた小さな事務所はオーディションだけは平等に振り分けてくれていて、夢を追い掛けている、というある種の麻薬のような快楽を時折り与えては、折れそうにあえかになった小枝のような心を荒々しく繋ぎ止めてくる。
「またダメだったよ」
おかえり、と笑顔で出迎えた由莉に結果を報告する。
まだスーツ姿の由莉を見て、仕事から今帰ったところなのだとわかる。
結果報告はなるたけ明るく。それが同棲を始める際に由莉との間で交わされた唯一のルールだ。由莉は何も言わず、蒼人の頭を両腕で包み込むように引き寄せる。由莉に抱かれると柔らかな感触と優しい匂いが、荒々しい繋ぎ目を元通りに修復して綺麗にしてしまうから不思議だ。
「ごめん」
「あーまた謝った。蒼ちゃんはわたしのためにオーディションに行ったわけじゃないでしょ。蒼ちゃんは蒼ちゃんのために頑張るんだよ。だから誰に謝る必要もないの」
わかった? と耳打ちするようにした由莉の言葉が身体中に染み込んでいく。けれど、わかってはいても、由莉に申し訳ないという気持ちはいつでも心根にはあって、その感情が時々吐き気を伴って、心を今にも押し潰しそうになる。
「すぐバイト行かないと」
「蒼ちゃんご飯は?」
「まかないあるから」
手早く着替えを済ませる。帰宅するのは朝になるから服を一枚余計に鞄に詰めた。五月下旬とはいえ朝方は冷え込む場合がある。
玄関で由莉に呼び止められて、振り返るとキスをしてきた。触れるだけの淡い行為。愛を確かめ合うようなそれではなくて、いつでもここにいるよ、とでも言うような情愛。博愛にすら近かった。
いってらっしゃい、と笑う由莉と何故か目を合わせられなかった。まだスーツ姿の彼女がどこか遠い存在に思えて、いってきます、と声に出したつもりなのに、はっきりとした音にはならなかった。
そのまま振り返ってドアを開ける。いってらっしゃい、ともう一度言った由莉の声に笑顔を返すだけで精一杯だった。
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