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嶺亜が俳優として本格的にデビューしてから、澪はひとりのファンとして応援するようになった。もともと彼の兄であるカイトのファンだったが、応援したい気持ちは嶺亜の方が強い。それもそうだろう。本人を知っていて、かつもともと付き合っていた相手なのだから。
彼が上昇志向なことは知っている。何でも一番じゃないと気が済まない負けず嫌いなところも。
だから澪は陰ながら応援していた。嶺亜が若手俳優ナンバーワンになれますように、と。それがどれほど難しいことなのか、澪には分からない。そもそも俳優として一番になるというのは、どんな基準なのかさえも。
それでも彼を応援していたのは、胸の奥に残っていたわずかな恋心が理由として大きいのかもしれない。
国内の映画コンクールで、彼が主演男優賞を受賞したのは、つい最近のことだった。嶺亜の人気と実力はこれで確かなものとなり、若手ナンバーワン俳優と囁かれるようになった。
澪の耳にも当然その情報は入っている。彼が若くして主演男優賞を受賞したことも、名実ともに若手俳優のトップに躍り出たことも。
同窓会に彼が出席すると聞いたとき、もしも話す機会があればおめでとうとお祝いの言葉を伝えると決めていた。でも、いざ彼を目の前にすると、その言葉は出てこなかった。
「澪は今、彼氏いるの」
不意な質問に、現実に引き戻される。澪は目を丸くし、いないけど、と答えた。彼氏がいたら、もしくはいなかったら、何だと言うのだろう。芸能界という別世界の住人になってしまった嶺亜には、澪の彼氏の有無など関係がないように思える。
「じゃあ好きな人は?」
昔、初めて告白をされたあの日。あのときと同じ質問だった。確かあのときは、いると答えて、分かりやすいなぁと笑われたのだ。
でも今はどうだろう。好きな人がいるのかどうか、自分でも分からない。
嶺亜のことがまだはっきりと忘れられた訳ではない。わずかではあるが、恋心も残っている。でもそれは、昔の嶺亜に対してだ。俳優になって、変わってしまったであろう嶺亜のことを、澪はよく知らない。テレビで見る一面しか知らないのだ。
それなのに、どうして今も好きだと言えるだろう。
「…………分からない」
「え?」
「好きな人がいるか、いないのか、自分でもよく分からないの」
澪の答えに、嶺亜は驚いたように目を見開く。
それからふいとそっぽ向いて、ふぅん、と呟く。懐かしいな、と澪は笑みをこぼした。彼はよくこんな仕草をしていた。照れたときや困ったときに、顔を横に向けていたのを覚えている。
嶺亜はしばらく黙った後、訊かねぇの、と言った。
「何を?」
「俺に、彼女とか好きな人がいるか、訊かないのかよ」
「だって彼女くらいいるでしょ」
あの城戸嶺亜だもん、と澪が言うと、彼は小さくため息をこぼした。
「あのって何だよ」
「人気俳優で若手ナンバーワンの、って意味だよ」
嶺亜は澪の言葉に納得したように頷いて、それから澪の目をじっと見つめた。先の質問をするまでどうやら折れるつもりはないらしい。
「……城戸くんは、彼女とかいないの」
仕方なく口にしたけれど、本当は聞きたくなんてなかった。別に嶺亜に彼女がいたっていいと思っていたけれど、実際にそれを聞いてしまえば、なんとなく傷つく気がしたからだ。
嶺亜は少しの沈黙の後、意外な言葉を口にした。
「俺は、ずっと芝居一筋」
「…………えっ?」
「人生で一度だけだよ、彼女がいたのは」
その言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。そして彼にとって唯一の彼女、それが自分だと分かった瞬間、澪はひどく泣きたくなった。
嬉しいと思ってはいけない。期待してもいけない。
分かっているのに、泣きたいくらい嬉しいと思ってしまう自分がいる。もしかしたら、と期待してしまう情けない自分がいる。
澪は涙を堪えるためにぎゅっと唇を噛んで俯いた。嶺亜はしばらく何も言わなかった。遠くで元クラスメイト達が騒いでいる声だけが聴こえてくる。
澪が顔を上げるのと、嶺亜が口を開いたのはほとんど同時だった。
「澪」
「……ん?」
「俺、やっぱり澪のことが好きだ。もう一度やり直したい、澪と、青春を」
ドラマのセリフのような言葉だった。思わずこぼれた笑みに、嶺亜は何だよ、と頰を赤くして呟く。
「ううん。昔はあんなに不器用だったのに、クサいセリフを言うようになったなぁと思って」
「俳優だからな。でも恥ずかしいんだから、笑うなよ」
「うん、もう笑わない」
まっすぐ嶺亜の目を見つめ、そう言う。ドキドキと心臓が早鐘を打っている。
彼の言葉が嬉しいと思うのは、きっとまだ澪も嶺亜を想う気持ちがあったからだ。
「なぁ、返事は」
昔と同じその問いかけは、澪のやわい心をくすぐった。じわじわと熱くなる頰も、高鳴る胸も、久しぶりの感覚だ。でも嫌じゃない。自然と頰が緩んで、澪はやわらかな声で答えを返した。
「うん。私も、城戸くんと青春をやり直したい」
「じゃあ、もう一回彼女になってくれる?」
喜んで、と答えるのと同時に涙がこぼれ落ちた。彼の前で泣くのは初めてだ。慌てて涙を拭おうとすると、先に嶺亜の指先が涙をすくっていった。
「また泣かせちゃったな」
「えっ?」
「別れ話のとき、泣いてただろ」
電話だから、バレていないと思っていた。でも、嶺亜は気がついていたのだ、澪が泣いていたことに。
「あのときはごめんな。意地張って、カッコつけた。別れたくないって縋るのはカッコ悪いと思って言えなかったんだ」
「……そうだったんだ」
胸の奥が熱くなる。嶺亜もあのとき、別れたくないと思ってくれていたのだ。彼に引き止めて欲しいと思いながら、別れ話をしてしまった澪と一緒だ。ただ少しだけ素直じゃなくて、二人はすれ違ってしまっただけだった。
ぎゅ、と嶺亜の服の裾を掴み、澪は彼を見上げる。
どうした? と首を傾げる嶺亜に、今度はもう離さないでね、と囁いた。
「ん。絶対に離さねぇよ」
髪をくしゃりと撫でながら告げられた言葉に、澪は小さく頷いた。
優しい沈黙が広がって、遠くから聴こえる喧騒に、二人は笑い合う。
「戻ろうか」
「うん、そうだね」
嶺亜くん、引っ張りだこだからね、と笑うと、彼は照れ臭そうにそっぽ向いた。
「……やっと呼んだ」
「え?」
「名前、さっきまで苗字呼びだったろ」
「あ、そうかも」
嶺亜くん、ともう一度呼ぶ。耳がほんのり赤くなった彼が、何だよ、と答える。小さく笑いながら、よろしくねとその背中に呼びかけると、ぶっきらぼうな声で、俺の方こそ、と返ってきた。
青春をやり直そうとする二人の、再出発の日。ちょっとだけ素直になれた気がした。
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