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嶺亜の次のオフの日に、初めてのデートをした。街中で手を繋ぐことは出来ない。キャップを深く被り、マスクをする姿の彼は別人のようだ。それでも、デートが出来るというだけで澪は幸せだった。
中学生のとき、二人は付き合っていたけれど、まだ子どもだったのでデートをしたことがなかったのだ。正真正銘の初デートということで、澪は気合いを入れて準備をした。
髪型を整えるのに三十分、服を選ぶのに一時間、彼の隣を並び歩いても見劣りしないレベルのメイクをするのにやっぱり一時間。何度も鏡を見て直し、変じゃないかな、と確認すること数十回。
そんな努力の果てにそれでも不安を抱えながらデートへやって来た澪だが、嶺亜の第一声は、「かわいいな、ちくしょう」だった。たったそれだけで、数時間の努力が報われた気がした。
「手、繋ぎたいな」
低く呟いたのは嶺亜の方だった。ダメだよ、誰かに見られたら大変だよ、と焦る澪に、彼は拗ねたように唇を尖らせてこう言った。
「だって自慢して歩きたいじゃん。俺の彼女だ、って」
頰が一瞬で真っ赤に染まる。
私もキャップを被ってくればよかった、そうしたら顔を隠せたのに。
そんなことを考えて俯くと、ふいに視界が暗くなる。目線を上げると、どうやら嶺亜が自分の被っていたキャップを被せてくれたらしい。
「ば、バレちゃうんじゃないの?」
嶺亜は有名人なのだから、ちゃんと変装していないと。
そう思って小声で彼に囁くと、どうせすぐ映画館に入るんだから大丈夫、といたずらっ子のように笑ってみせた。マスクでその表情は隠れてしまっていたけれど、その笑顔を簡単に想像出来てしまう自分がいる。胸の奥がきゅん、とする感覚に、むず痒い気持ちになりながら、澪はありがとうとはにかんだ。
手が触れそうで触れられない、微妙な距離感を保ちながら、二人は映画館に入った。中は暗くて顔が隠れるので、ちょうどいい。
先日公開されたばかりの嶺亜の主演映画を観ることにした。本人は恥ずかしいから嫌だと言ったのだが、澪がどうしても観たいの、とお願いすると、最終的には彼が折れてくれた。二人分のチケットを買い、劇場内に足を踏み入れる。席はほぼ埋まっていて、嶺亜の人気を改めて実感する。
「……何か、悪いことをしている気分」
澪が呟くと、彼は不思議そうに目を丸くして、何で? と首を傾げた。
「だって嶺亜くん、やっぱり人気俳優なんだなぁって。私なんかがひとりじめしていると思うと、ちょっと罪悪感」
「そこで優越感じゃなくて罪悪感を覚えるところが、澪のいいところだよな」
小さく笑った嶺亜が、澪のキャップを目深に被せる。これじゃあ前が見えないよ、と小声で抗議すると、足元暗いから気をつけろよ、と手を差し出される。また胸がきゅんと鳴いて、澪はうう、と小さく唸りながら彼の手にそっと自分のそれを重ねた。
暗がりでよかった。そして、キャップを被っていてよかった。きっと真っ赤に染まっているであろう頰を、彼に見られなくて済む。何より、嶺亜と手を繋げるのは、暗闇での特権だ。
席に並んで座ってからも、嶺亜は手を離そうとしなかった。緊張で冷たくなった手を、嶺亜の大きくて温かい手が包み込んでくれる。たったそれだけで、世界中の誰よりも今一番幸せだと言い張れるくらい、澪は嬉しい気持ちでいっぱいだった。
映画は、少女漫画が原作のラブストーリーだ。嶺亜演じる主人公の、幼馴染であり彼女でもあるヒロインが、病気になってしまう。主人公は、余命わずかな彼女が最後まで幸せに生きられるよう奔走する、そんな物語だった。最後のシーンでは、彼女が主人公にあてた手紙を読み上げるのだが、涙なしでは観られなかった。
映画を観終えると、澪は借りていたキャップを嶺亜に返し、化粧室でメイクを直した。感動のあまり大泣きしたせいで、気合いを入れたメイクもすっかり崩れてしまったのだ。急いで直して彼の元に戻ると、嶺亜は嬉しそうな声で「めちゃくちゃ泣いてたな」と言った。
「何で嬉しそうなの?」
「そりゃあ自分が関わった作品で、誰かの心を動かせたら嬉しいだろ」
「……そういうものなんだ」
澪には何もない。絵や音楽に長けている訳ではないし、漫画や小説の作品を創り上げられる訳でもない。だから、嶺亜のように何かを作り上げることが出来る人を尊敬する。
「すごいね、嶺亜くんは」
俳優になると決めて、本当に夢を叶えてしまったこともそうだし、役者として人の心を動かすほどの演技が出来るようになったこともすごいと思う。全ては彼の努力の賜物だ。
「そう? 俺は澪の方がすごいと思うけど」
「えっ」
澪は自分に自信がない。嶺亜のような夢を叶えた人にすごいと言われる覚えがなくて、驚いて首を傾げる。
じっと彼を見つめると、嶺亜は目を細めて笑った。
「自分以外の人のことを素直に褒められたり、認められたり、自分のことのように喜んだり。そういうの、すごいと思うけどな。俺は競おうとしちゃって、素直に人のことを認められないから」
それは負けず嫌いの彼らしい言葉だった。いつもナンバーワンを目指すその姿勢は、澪にはない一面だ。
「……それは嶺亜くんのいいところだと思うよ?」
「どこが? 我ながら嫌なやつだなって思うけど」
「向上心があるってことでしょ。かっこいいよ」
微笑みながら澪がそう言うと、嶺亜はふいとそっぽ向いた。それが彼の照れたときの癖だと知っているので、澪はふふ、と笑みをこぼした。
嶺亜は深くキャップを被り、何だよ、と拗ねたような声を上げる。何でもないよ、と笑って、澪は彼の隣を歩いた。
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