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嶺亜と別れて中学校を卒業してから、澪は一度だけ恋人が出来たことがある。
宗介という名の彼は、とても優しい人だった。澪に忘れられない相手がいることを知りながら、「それでもいいよ、ゆっくり思い出になっていくものだから」と言ってくれた。
その言葉通り、宗介は澪のペースに合わせてくれた。澪が嶺亜のことを忘れられるようになるまで、宗介は絶対に手を出そうとはしなかったのだ。思春期の男子にとって、それがどれほど困難なことなのか、澪には分からない。
それでも、好きだよ、と甘く囁いてくれる宗介の優しさに、少しずつ心がほどけていったのは確かだった。この人になら全てを預けてもいい。そう思った。
「宗介くん、ずっと待たせてごめんね」
「ん? 何が?」
分からないふりをしてくれるのは、彼の優しさだ。ヤキモチやきでぶっきらぼうだった嶺亜の分かりにくい優しさと違って、宗介のそれはストレートに伝わってくる。
ぎゅっと宗介の手を握り、そっと目を閉じる。
いいの? という戸惑いがちな声を聞きながら、ぐっと背伸びをした。ふわり、と重ねられた唇は、一瞬で離れていったけれど、確かにファーストキスだった。
「……よかったの?」
それは、嶺亜のことを忘れられたのか、という問いだった。答えは否だ。全てを綺麗に思い出に出来た訳ではない。今でも彼を思い出すと胸が苦しくなるし、あのときこうしていれば、という後悔は絶えない。
でも、嶺亜がオーディションを受ける前に戻りたいとは、自然と思わなくなっていた。きっとこれが、少しずつ消化して思い出にしていく、ということなのだろう。
今は嶺亜のことが忘れられない。それでも、宗介のことを大事にしていきたい、という気持ちは本物だった。
「よかったんだよ、これで」
澪が微笑むと、宗介はそっか、と眉を下げて笑った。とても優しい笑みだった。
奇しくも同じ日に放送されたテレビドラマで、嶺亜のキスシーンがあったらしい。澪はその日初めて嶺亜の出演するドラマを観なかった。彼をひとりのファンとして応援する気持ちは変わらない。だけど、観なくてよかった、と心から思った。
それから澪は髪を伸ばし始めた。嶺亜に似合うと褒められてからはずっとショートヘアだったが、いい加減卒業しようと思ったのだ。
肩に髪がつくくらいまで伸びた春のことだ。一年ほど付き合っていた宗介と、お別れした。
宗介に対する気持ちが離れた訳ではなかったけれど、時間をかけても嶺亜のことが忘れられなかったからだ。これ以上澪のエゴに優しい彼を付き合わせるのは申し訳ないと思ってしまった。それが宗介にとってよかったのかは分からない。忘れられない人がいることを承知で付き合っていたのだから、それを理由に別れるのはずるいかもしれない。それでも宗介は澪を責めることはなかった。
「大丈夫だよ、澪」
「えっ?」
「いつかちゃんとその彼を思い出に出来るよ」
「宗介くん……」
「絶対に澪なら、素敵な恋が出来るから。大丈夫だよ」
自分を信じて、許してあげて。と彼は言った。最後まで優しい人だった。澪にはもったいないくらい、心の綺麗な人だったのだ。
ありがとう、と泣きながらお別れをして、宗介に背中を押してもらった。
もう泣かないと、心に決めたのはこの日のことだった。
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