センチメンタルハイ

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・イツキの場合  私は父に認知されなかった。理由はわからない。母には父は死んだのだと聞かされていた。15歳の時偶然戸籍を取り寄せる機会があり、父の欄が空欄になっているのを知った。母を問い詰めたが、父は死んだの一点張りで話にならなかった。  言葉にならない怒りと「自分は生まれてきてはいけない人間だった」のだという思いが、胸の内に芽生えた。  私はこの問題を一人で抱えることにした。同年齢の男どもは、いずれも幼稚に見えたし、なによりこんなことを相談できる友達もいなかった。ヒステリックに否定する母を見ればわかる、父、いやその男は今も生きて、あるいは良心の呵責もなく人生を謳歌しているかもしれない。そんなことはどうでもいい、問題はなぜ私を捨てたかだ。    自分は生まれてきてはいけない人間だった  一度萌芽したどす黒い想いは、私を苛んだ。答えは出ない。だが私は決して自分で死にはしない、母とその男を殺してでも生き残るんだ。これが私の信念だ。  最後の一人になっても生き残る、親殺しも辞さない。そう考えてからは恋愛も随分粗末なものに見えた。どの男も私を本質的に救うことなどできない。すがる男に向けて 「私には需要がない」と伝えたら、男は「そんなこと言うなよ」とさめざめと泣いた。私が泣いてないのにお前が泣くなよ、くだらない。  17歳、平静を保っていた生活が一変した、生きる理由よりも、死なない理由を探し出したのだ。この二つは似ているようで全く違う。一方は生のベクトルをもち一方は死へのベクトルを持つ。  理由は単純、いじめで、抑うつになったのだ。望まれて生まれて来なかった私が、殺してでも最後まで生き残るんだと心に刻んだ覚悟が、いじめごときで萎えるものか。  しかし実際、体は正直だった。まず眠れなくなった、次に食事が取れなくなって風呂に入れなくなった。  メカニズムは次の通りだ。睡眠をつかさどるメラトニンの分泌が減り睡眠がとれなくなる、徹夜でくたびれた状態で食事がとれなくなる、そして食事を摂らないことで、精神の安定に影響するセロトニンが生成されなくなる。ということ。  人間は口から肛門までつながっているので、食事を摂らないと一気に胃が食事を受け付けなくなる。  体が衰弱するとさらに心も弱った。死んでしまおうという希死念慮が亡霊のように、脳を支配した。換気扇の音がひそひそ声に聞こえる、車が迫ってくると血みどろに轢かれるイメージがよぎり動けなくなってしまう。その頃には生きることすべてに興味が失せていた、十日も食事を断つと、街の匂いが汚臭のようだ、蕎麦屋の出汁とバスの排気ガス、通りすがりの香水、思わずトイレに駆け込んで、胃の中を全部戻した、と言ってもほとんどが水と胃液なんだけど。  何故だろう?あんなに生きることに固執していたはずなのに?  最早、私には生きていてよい、美しいロジックなど存在しなかった。人生のリセットを望んだとき、「迷惑の掛からない自殺」「首吊りに相応しいロープ」「特殊清掃」「失踪」等、死に直結するワードが検索履歴に並んだ。  うかつにそれを主治医に漏らしてしまい、即閉鎖病棟に入院させられることになった。なんの感慨もない。心身は衰弱しきっていた。  点滴を打たれて臥したまま、それでもただあの男を殺すことだけが、魂の上でか細く燻っていた。  治療は食事を摂ることから始まった、魚のフライ、白ご飯、わかめの味噌汁、五目煮、酢の物、献立は至って普通だった。  しかし20日間食事を抜いた私の胃はその食事を受け付けなかった。次の食事からは5分がゆに卵スープという、いかにも病人食といったものが並んだ。食事は入所者全員でホールで食べることになっている、誤嚥などあった場合看護師の手の届かない状況は避けたいといったところだろうか。  食べこぼしをしている老人、看護師にスプーンで食べさせてもらっているおじさん、お茶でぐじゅぐじゅ口をすすいでいる青年、彼だけは中年から老人が多い病棟において20代に見えた、精悍な顔つきは精神病には見えない。彼もまた病んでいるのか。  他の患者にはジャンキー、犯罪者、クソババアと私はこっそりあだ名をつけた  このほかに自殺企図を行うような危険な患者を閉じ込める保護室があったが、私はそこには入れられなかった。放っておいても自殺する元気もないだろいうということだろうか、満室だったのか通常の病室をあてがわれた。  とはいえ売店に行くための外とのアクセスは看護師に付き添ってもらわなければならなかった。内側にドアノブがなく鍵がなければ開かないのだ。これは保護室も同じつくりのようだ、さらに言えば犯罪者の親父が言うには拘置所も同様のつくりであるらしかった。 自らの意思を行使することが制限させることは、多くの者には苦痛であるらしかった。私はベッドに横になっているだけで精一杯だっただけのこと。  当初は売店への外出も許可されなかった。入院6日目、食事も通常のものに変わり、売店への外出が許された。早速、チョコレートを購入し、夢中に一気に食べてしまった。一週間前は死ぬことばかり考えていたのに、チョコレートの蠱惑的な甘さは一瞬で体を貪欲に産みかえた。  いずれにしても、ここの患者達は、私の人生には無関係で無用に思えた。自販機でコーヒーを買おうとしたら、クソババアが滑り込んできて、おつり口に手を入れ、こちらをみあげてにっこり笑った。私は死ねよと呟いて踵をかえして自室に戻った。  私にはマイナスから始まった人生を、建て直すという目的があったのではないか、なぜ軟禁されて珍妙な患者どもと生活を共にしなければならないのか。  金を渋った母親のせいで四人部屋で随分イライラさせられた(後で措置入院は四人部屋となることを知る)  午睡をとろうかと準備していたら、ジャンキーがやってきて、向かいのベッドに座った。男女区分けされている病室では明らかなルール違反だ、看護師に見つかったら保護室行きは間違いないだろう。 「お姉さん名前なんて言うの?」ベッドに名札がかかっているが斎(いつき)が読めなかったのだろう。 「イツキ」 「へぇかっこいいじゃん」といったジャンキー口の端からよだれが零れおちた。 「いけねぇ、ジプレキサをのんだからな」粗相の言い訳をしながらぼんやり天井を見上げた。ジプレキサの作用はわからないが、確かにふらついて見える。服薬の時間はまだのはずだが、どこかに隠し持っているのだろう。 「いい薬があるんだけど、やる?」 「キメセクとかそういうんじゃないからおれEDだし」といって笑った。 何処が笑うポイントだったのかは捨て置いて、とにかく私は、いい薬より回復することを一番に考えていた。こんな閉鎖病棟でどんないい薬が手に入るというのか。想いと裏腹に言葉は興味を示した。 「どんなの?」 「紙」 「まがって、哲学者になれる」 「よくわからないけど違法じゃないの?」 「大きい声でいうなよ」  粗末に扱われてきた私が哲学者になれるなら、生きてよい理由も分かるかもしれない。安直に考えて「変なことしないならいいけど」生来の好奇心が悪い方向に向いている、それはわかっている。生きるとか殺すとか、極端な割に意思が弱くて面白い方に流されるのだ。  ジャンキーは少年漫画誌を取り出すと、「128P」とつぶやいて、隅っこをビリッと破った。そしてそれを口に放り込むと、同じようにちぎった紙片を私に渡した。 「舌の下に入れて溶けるまで待つ、舌下という」  偉そうにレクチャーするジャンキーに大人しく従った。 「効くまで長くて1時間くらいかな、効き目が切れるのが4~10時間、効きが長いけど、薄 めにしといたから、それから効きはじめるまでに食事はあまりとらない方がいい弱くなる、まぁパニック起こしたらナースコールじゃなくて俺の部屋においでよ。効き目を落とす薬がある」  ジャンキーは早口でまくし立てると、どこかへ行ってしまった。 これが紙状のこれがLSDであることは私にもわかる。吐いてしまおうかとも思ったが貴重な体験もまた甘美にみえた。 「閉鎖病棟で違法薬物……」LSDの効果でもないだろうが、なんだかくだらない世の中に一矢報いたような気がして笑ってしまった。  しかし少年ジャンプに染み込ませた違法薬物で、ジャンプってダジャレにもなっていない。自分がニヤニヤしていることに気づいた。しばらくするとそわそわしてきた気がして、ベッドに寝転がった。  と不意にカーテンから漏れる陽の光が、ゆらゆら輝いて見えた。ペットボトルを掲げて振ってみると、水に反射した光が美しく残像を引いて見せた、ラベルをはがしてペットボトルを眺めた、クリスタル状にカットされたペットボトル、その中で波打つ水、乱反射する光彩、こんなに美しいものが、この世にあったのかと感じた。その態勢のまま光を見ていた。  やがて天井がうねりだし、光を吸い込んだかと思うと、極彩色の紋様がみえた。「うわ、なにこれ、最高」思わず口に出していた。心は軽やかで楽しくてしかたない。この瞬間は死のうなどとは微塵も思わなかった。  やがてジャンキーの言う哲学の時間がやってきた。どうして私は顔も知らない男にここまで固執するのだろうか。父と母は愛し合っただろうか、それとも一夜の間違いだったのだろうか。それとも本当に父は父ではなく、どこかの違う男が父なのだろうか。そうなったら詰みだな。  そんなことまで思わせるほど、母の態度は度が過ぎる。ただの戸籍の名前一つじゃないか、どうせ分与する金もないだろうに。私はただ一言、「お前が産まれてくれて嬉しかった」という言葉が聞きたいのだ。  例え裁判でDNA鑑定を行っても、その言葉を聞くことはできないだろう。「神はその人に乗り越えられない試練は与えない」というが本当に神がいて、この難問を与えたのだとしたらその意味はなんなんだろう?  この悩みを何人かの友人に話した、彼女らは口をそろえてそんなこと、気にしなければよいと言った。  捨て子の場合、市長や県知事が戸籍の名前が入るそうだ(本当かどうかはわからないけど)私は捨て子よりも粗末に扱われている。たまらなく腹が立つ。私の賢者はあまり頭がよくないようだ。あまりにも認知のことに固執しすぎる。宇宙の誕生やなぜ人は死ぬのかといった命題を突き詰めたかったのに。  そこまで考えて素晴らしい考えを思いついた、病棟は8階、周囲は山並みと晴れ渡った空がみえるだろう。グズグズ考えていないで風景をみよう。私は病室を駆けだした、果たしてそれは思ったよりも、ずっと素晴らしいものだった。青く澄んだ空には雲一つなく、曼荼羅が浮かんで回転している、山並みは色づいて紅葉を咲き誇りそれがうねうねと伸び縮みした。それが曲って混ざる。あまりの美しさに思わず息を飲んだ。 「これはやべぇな」いつの間にかジャンキーが隣に来て風景を見ていた。 もし同じ風景をみているなら、この世界は二人だけのものだ。 「すごい」私も賛同した。  やがて消灯の時間となった、気分は高揚しているが看護師に気づかれるわけにはいかない、幸い抗不安薬が処方されていたため、暫くして落ち着いてきた。  そういえば、「お前ワイパックスでてるだろ、それで落ちるからやばいと思ったらナースステーションでワイパックスもらえばいいよ」とジャンキーが言っていったっけ。 翌日ジャンキーはしゃべりにしゃべった 「結局脳なんだよ、LSDはドーパミン受容体やアドレナリン受容体と結合する、セロトニンもな、このセロトニンが頭の中で幸福をもたらすわけだ、セロトニンの作用を阻害することで幻覚がみえる。全部脳で行われてることなんだ。 ワイパックスはGAVAA受容体という脳の神経と神経の情報を伝える役割のある物質の活動を抑える作用がある、だからLSDで上がった状態を下げてくれる。まぁワイパックスみたいな落としはお薬遊びには必須なわけ。  とにかく、お前は昨日素晴らしい体験をした、それは脳の中で起こっていることだ、薬さえ切らさなければこの世は天国だよ、キメセクやればそのすごさがわかるよ、まぁLSDは音に来るからクラブで使うものだけどな」  何を言っているのか全く分からなかったけど、私を襲わなかった点だけは評価してやろうと思う。  ホールでジャンキーの講釈を聞いていると、4人部屋から詰問する声が聞こえてきた、犯罪者が女性部屋にいたという、退所にされてもおかしくないところだが、窃盗などはなかったということで、保護室入りが決まった。  私はできるだけここと外の関わりを切りたくて、入院者の名前を覚えないようにしている。犯罪者は50代ででっぷり太ったおじさんだった。「君将棋はできるか?」と聞かれて「できません」と不意に嘘をついた、その返答を受けて「僕はね、もうじき判決が出るんだ、そうしたらまた別の病院に転院するんだ」と言った。犯罪者は10代のアイドルのTシャツを着ていた、年端もいかないアイドルの子が1000万の束を持っている。横領あたりだろうなと思いながら、こうして搾取の円環は成立しているんだろう「それは寂しくなりますね」と無難に会話を切った。「売店でほしいものがあったら何でも買ってあげるよ」どうやら院内で私はアイドルの代わりということらしい。とても迷惑だ。  措置入院だった私は決められた通り、きっちり2週間で退院することになった。母との同居を進められたが、まっぴらごめんだ。私は久しぶりに我が家に帰って、西日に舞う埃のキラキラするのをぼんやりながめていた。「死ぬには惜しい美しい世界か」独り言を呟いた。  希死念慮が高まったとき友達には暴言を吐いてみんな切ってしまった。そうしたほうが私が死んだあとせいせいするだろうと考えたのだ。  所有しているものは売るか捨てるかしてしまった、身辺整理だ。こうして人と物のつながりを断っていくのは案外気持ちのいいものだ。  あとは首を吊るための、ぶら下がり器、排泄するということで大人用のおむつ二枚、ロープはSNSで推奨されているものをホームセンターでそろえ、縛り方も入念に試してみた。舌が出るというので、タオルと布ガムテープ、同様の理由でアイマスク。これで私は完ぺきに死ねるはずだった。  数か月経ったころジャンキーから連絡があった。院内でも連絡先を交わしたのはジャンキーだけである。出し抜けに「お前暇だろ、いいところがあるんだ海べりの別荘、いかないか?」傷病手当をもらって寝ているだけの私には魅力的な誘いに思えた。しかし、鬱がひどくなったら動けなくなってしまうという懸念もあった。 「その時は車で医者まで運んでやるよ」こともなげにジャンキーが言う。 「薬中が車運転していいの?」 「俺運転はうまいんだよ、どんな幻覚もスイスイ避ける」逆に怖いわ、という言葉を飲み込んだ。 「いいよいつ?」 「今家の前にいる」 「何で知ってるの!?」 「L(LSD)やった時自分でペラペラしゃべってたぜ」 そして二人は、ボロボロのビートルに、荷物を押し込んで一路海を目指した。 「どのくらいかかるの?」不安を覚えて私が聞く、迂闊に車に乗ってしまったが、犯罪組織に拉致されているとも考えられる。よく考えば軽率だった。 「まぁ2時間?」タバコをくゆらせてジャンキーが答えた。 次第に景色は寂しくなり寒村といった風情が出てきた、進行方向右手に海が見えた、テトラポットもない真っ新な砂浜だ。 「こんなところが東京の近くにあるなんて」 「な、ちょっとすげーだろ?」 車はボロ小屋のガレージに収まった。 「家の裏に行こう、すぐそこが砂浜なんだ」 そこは砂浜どころか波打ち際といってよいほど、海が近かった。 「すごい」 一旦家にはいると、海に面したところに長椅子と缶ビールをセットした ビールは冷たい塊になって喉を落ちていった、うまい。 「本当は草の方がいいんだけどな」 「草?」 「マリファナのことだよ、まったりできる」 広大な海と潮騒の前でマリファナという響きは場違いに思えた。 「Lあるけどやる?」 「L?」一度はスルーしたがやるかと言われれば、確認しなくてはならない 「LSD」 「やる」  海は夕暮れ、やがて来る暗闇を暗示していた。  ジャンキーはピリッと紙片を破って渡してきた。 「ジャンプじゃないの」 「こっちが本当の姿だよ、効いてくるまでもう少し飲もう」  哲学者になれるというより、神に出会ったとまで思わせた薬、これが全部脳のなかで、電気信号を飛ばして見せているなんて信じられない。 「街灯一本ないのに日が暮れたら真っ暗になるんじゃないの?」私は素直な疑問をぶつけた。 「LSDは音にもくるんだ、外に出たら真っ暗だけど家の中にいれば平気さ」  夜が来る前に薬が効いてきたようだ。うねる波が夕焼けを反射している。 「これが美術品なら大変な値段がつくな」ジャンキーにしては詩的なことを言う。 感心しているとあっという間に真っ暗になってしまった。潮騒だけが聞こえ、不安を搔き立てる。  先に家に入ったジャンキーはベッドに寝転がって天井を見つめてケタケタ笑っている、天井がグルグル回転するのが面白いらしい。  私は潮風に吹かれながら海と正対して考えを巡らせていた、いじめをうけたのも戸籍に父の名前がないからではないかと思った。私は私自身を肯定できたら、くだらないやつらの餌食にならずに済んだんだ。私は私の運命に仕返ししなくてはならない。父を殺す、母を殺す、いじめっ子を殺す、私が苦しみもがきながら戦っているさなか、奴らはずいぶん愉快そうだった。潮騒も聞こえない程に不穏な思いは頭を駆け巡った。  そして一つの答え、四人も殺すなら私一人が死ねばいい。その方がバランスが取れている。神がいるとすれば四人の殺人より一人の自殺を赦すのではないか。  その時足に波がかかった。海の水はいまだ生ぬるかった、辺りは暗く海はそこに海があるであろうことしかわからなかった。不意に海水がかかってそうだここは海なんだ、と気が付いた。一歩一歩歩みを進める、積極的に死のうというのではない、海に還ることが魅力的に見えただけなのだ。私は嗚咽を漏らして泣いていた。この星に私の居場所はない。こんな美しい星なのにどこにも私の居場所はない。そう、自分は生まれてきてはいけない人間だった  海は私を包んでくれる、腰のあたりまで海水に浸かると、波の満ち引きに翻弄されるようになってきた。暗闇の中に化け物が見える、星々がぐるぐるまわってみえる、LSDのせいかいよいよ私の脳が狂ってしまったのか。  海水を飲み込むような深度になって、全身から震えが来た -本当に死ぬの?それでいいの?  暗闇の中に怪物の姿が見える、白い着物を着て、異様に長い指をした老女だ、おいで、おいでと手招きする。  これが彼岸なのだろうか、老女にたどり着ければ私は死ねる。いこう。このままいけるところまで行こう。  不意に後ろから抱きしめる手があった 「なにやってんだよ、あぶねーだろ」ジャンキーだ、彼もまだフラフラなはずなのに助けに来てくれたのか。 「はなせ!はなせ!」私は叫んだ。 「いやだ!」ジャンキーも叫んだ。  押し問答をしているうちに波打ち際まで引き戻されてしまった。  それからのジャンキーは、押し黙って何も聞かず風呂を沸かしてくれてた。 服はシーツをまとい、濡れたものは海風であっという間に乾いてしまった。 「バッドにはいっただけだよ、薬が悪夢を見せる、コレ」 「なに?」 「デパス、落としだよ、今日は落として寝てしまおう」  私たちは、それからもぐずぐずと海の家にいてお薬遊びを続けていた、LSDとマリファナを主に嗜んだ。LSDはあっという間に耐性がついてしまって、あの獄彩色の曼陀羅を見せることも哲学者が現れることもなくなってしまっていた。その点マリファナは、まったり海を眺めるのに相応しい。  さざ波が歪んで聞こえる。薬はジャンキーの子分という背の小さな男が無言で届けてくれた。幸福と愛のドラッグといわれるMDMA、セックスをしたら二度と人間に戻れなくなるという、日本で最も流通している覚醒剤は届かなかった。まぁ、海を眺めて覚醒剤でバキバキになってもしょうがないか。  この頃になると積極的にジャンキーから、薬についてのことを聞くようになっていた。  なぜかジャンキーは私の体には手を出さず、ひたすら薬を与え続けてくれた。理由はわからないが彼なりのポリシーがあるのかも知れないし、単に私に魅力がないだけかもしれなかったし、EDというのも冗談じゃないのかもしれない。 「今日はうまいものを食おう、臨時収入が入った準備するから草(マリファナ)でもやっておけよ。」唐突にジャンキーが言った。  それは市で仕入れてきた新鮮な魚介だった。カンパチや大トロの色とりどりの刺身にズワイガニ、イクラ、ウニを箱ごと。これはウニイクラ丼にするのだ。 「わぁ!」思わず柄でもなく喜々と感嘆してしまった。 「うまい」「うまい」バカになったみたいに繰り返した。大トロやカンパチなどの脂身の多い魚が特に美味しく感じた。あとで知らされたがマリファナには、食べ物を美味しくするマンチという効果があるそうだ。  それならピザでもお菓子でもなんでもよかったわけだ。新鮮な魚介がもったいないと思ったが、それ以上に美味しかった。  それからもマリファナ、マリファナ、マリファナ、マリファナ。浮世の生活を忘れるほどにドラッグの生活にはまっていった。  ある時ジャンキーがマリファナをくゆらせながら不意に言った「お前の親父さ、俺が殺してやろうか?」唐突な提案に躊躇していると、ジャンキーはもう一度言った「殺してやろうか?」 「…いい、殺すなら自分で殺す」予想外の提案に怯んだけれど、これは私の本心だった、生まれていけない人間が、それを覆すには、自分自身でその原因を排除しなくてはならない。 「そっか、俺はさ人殺しの境界を越えたいんだよね」 「なにそれ、ジャンキーはただの薬中にしか見えないんだけど」 「理不尽な理由で暴力を振るわれるところを嫌というほど見てきた。暴力同士でしか繋がれない関係もある。だから俺は暴力を否定してない。屁理屈こねてる前に殴り合った方が早いし、それからの関係は深くなる」 「それはジャンキーの周りがヤンキーばっかりだからでしょ、喧嘩がコミュニケーションみたいな」私はなるべく軽く返した。だが、ジャンキーはなにか大切なことを言うつもりだ。 「俺は殺したい奴がいる、お前の親父はついでだ」 ジャンキーの話に熱がこもる。 「あんまり思い詰めないでよ。薬はいいけど殺しなんて冗談じゃない」 「俺は暴力が怖い、殴られたらすぐにカッっとなって止まらなくなる、だから俺は俺を変えるために、本当に殺す必要があるんだ」 「私の父親のことに深入りしないで、他人に殺されたなんてなったら私一生救われない」「...そうか、わかったよ」 間を開けて拗ねたようにジャンキーが呟いた。 翌日 「きょう東京に帰る」唐突にジャンキーが言った。 「わかった」  海の中で賢者が現れたとき、私には一つの考えが閃いていた。 私は生きるべきではなかった、なのに生きてしまった、生きるべきでなかった人間と、幻聴が苛む、マイナスから始まった人生ならプラスに戻せばいいんじゃない? 神がそう言っているなら、神が薬の形をしているなら、それはそれで構わないだろう。 バカな考え方なのはわかっている、ドラッグが脳で起こした幻影で人生を決めようとしている。でもシナプスと電気信号が私のすべてならば、あの夜の幻影もまた真実なのだろう。本当は薬の力なんか借りたくない。 でもそうするしか私には、いい案が浮かばなかった。 窓を開けて潮風にあたりながらボロのビートルは品川に着いた、「家まで送るよ」とジャンキーは言ったが、断った。 「こんなやかましい車近所迷惑だわ」 ジャンキーはクスっとわらって、車を出した。  それからの私の動きは速かった、母の荷物を丹念に探って父の名前を調べた。藤田健、案外地味な名前だなと思った。  電話帳で電話番号を調べ、藤田姓のハンコを買った、凡庸な名前のため三文判を買うことができた。それから住民票を取得し、法テラスで弁護士に相談した。弁護士は若く誠実に見え、私の話を丁寧に聞いてくれた。まぁそりゃ仕事だもの当然か。 「親子の事実があるかどうかは別にして、DNA鑑定を行えばほぼ100%白黒つけることはできます」 「向こうがDNA鑑定を拒否したらどうなりますか」私はそれだけが心配だった。DNA鑑定を拒否されたら全ての計画がフイになってしまう。 「基本的に拒否はできません、協力的でない場合、被告は非常に不利な状況で裁判することになります」 「私は母も父である男も誰の言葉も信じられません、科学的に父母の間に、何があったかを知りたいんです。DNA鑑定が拒否されたら困るんです」 「いずれにせよ訴訟してみないと判らないことですから…」 「では訴訟を起こします、よろしくお願いします」 「それでは手付金について決めてしまいましょう…」  こうして訴訟は始まった、私が法廷に立つことはなく、法廷には弁護士が立ち被告人に尋問する形になるようだ、細かくはわからないが、私が藤田と直接会うことははさそうだ。藤田の顔を見られないのは少し残念な気もしたが、不安定な自分の状況を鑑みても、ここは弁護士に任せるのが一番良いのだと思った。  幾度かの公判を経ているが、藤田は弁護士をつけづに大人しく出廷しているようだ。はたして勝算があるのだろうか。  弁護士任せの訴訟だったが、一度だけDNA鑑定を行うため裁判所に呼び出された。藤田、母、私の3人の粘膜を採取するのだという、これも藤田とは別室で行われ、直接会うことはなかった。この時点で、どのような結果が出るにせよ私の望みは叶った。  母のしょげ返った顔は、見ていられなかったが、私はこれさえも母の芝居だと熟知している、こうして人の同情を買おうと、くだらない芝居を打つのだ。こういう人物だからこそ、藤田との間に何があったのか。疑い深くなるのは仕方のないことだと思う。  果たしてDNA鑑定の結果は、陽性で99.9999%娘に違いないことが判明した。後日談だが法廷で藤田は「00.0001%違う可能性があるじゃないか」とゴネて、裁判官に烈火のごとく叱られたらしい。訴訟の顛末事態には満足だが、あのキチガイの血が、私の体を廻っているのかとおもうと嫌悪感で吐きそうになる。あんな馬鹿に振り回されていたのかと思うと虫唾が走る。  しかしこれで私は生きられる。 ”私は私に望まれて生きることができるのだ”親族がどのようなクズであれ、私の生を望むのが私自身であるかぎり私は自律的に生きることができる。  マイナスから始まった私の人生をプラスに変えよう。一夜にして私の思想は、うって変わってしまったのだ。
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