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・イツキとジャンキー
父を送ったジャンキーは、またイツキのもとを訪ねた。新緑の気持ち良い季節だが、完全に薬物に依存しているジャンキーには、関係のないことだった。
「よう、また海の家に行かないか、当分過ごす金ができたんだ」
イツキはジャンキーの顔をみてギョッとした、鋭い目つきに、瘦せこけた頬、酷い隈ができていて、素人目に見ても今すぐ入院すべき状態に見えた。
「それはいいけど、あんたヨレヨレじゃないの車運転できるの?」
「シャブやればシャキッとするよ」
病院で「ドラッグやって運転する奴は馬鹿だ」と演説していたのに、ジャンキーは見事に忘れてしまったらしい。
イツキはこのまま返すのもマズいと思った。
「何日寝てないの?」
「さあ10日か20日か」
「私が運転する、あんた確実に事故るよ」ピシャリとイツキが言い放った。
「親父が死んだよ」
ジャンキーはそう言うと海の家の道中ずっと父親の悪口雑言をつづけた。ジャンキーはきっと父親を殺したかったんだ。それができなくなったから苦しくてたまらないのだ、イツキはそう思った。
「ジャンキーは喧嘩でお父さんに勝ったんでしょ?それでもう十分じゃない」
「あいつは殺さなきゃいけなかった、生まれてこなければよかった人間なんだよ、そういう人間がこの世にはいくらかいるんだ」
イツキはかつての自分に重ね合わせて、生まれてこなければよかった人間など本当に居るのだろうかと思った。
「お父さんが生まれてなければジャンキーも生まれてこれないじゃん、それは寂しいな」とイツキが助手席に目をやるとジャンキーはちぢこまって眠りこけていた。
海の家に着いたのは夕刻のことだった、初めての首都高にイツキは、冷や汗でびっしょりになっていた。ジャンキーは未だに寝ていたが、イツキが荷物を家に運んでいると起き上がってきた。すっかり瘦せ細って死神にでも取りつかれたようだ。
ジャンキーは手伝おうとしたが、イツキに「眠れるときに寝るように」言われてしまった。
「ご飯はどのくらい食べてないの?」イツキが聞くと
「さあどうだろう10日か20日か」睡眠と同じだけとれておらずその間ずっとドラッグをやっていたということだろう。ジャンキーの体から断食につきもののケトン臭がしている。
「死にたいの?」
「たぶん」
「なんで呼んだの?私はもう死のうなんて思ってない、裁判に勝ったので十分、落しはのんだの?」
「ああ、でも落ちないんだ」
この状態になったら固形物は入らないだろう、胃腸さえキックしてやれば睡眠欲も戻ってくると思うけど、イツキそう考えて、柔らか目のご飯を炊いて、薄味の味噌汁をつくった、それをお茶碗に混ぜてジャンキーに食べさせた。
以前ジャンキーが言っていたのだ、みそ汁ぶっかけたご飯が一番回復が早いと、果たして、ジャンキーはズズッと汁をすすりゆっくり食事をはじめた。
これで回復しなかったら点滴しかない。
「拘置所では飯を食わない被告人は鼻から管を入れて、そこから胃に直接、栄養剤を入れるらしいよ」
食事を半分ほど摂ったジャンキーは軽口を叩いた。
「とにかく数日は体力を回復させないと楽しいお薬遊びもできないよ」
こういった薬の提供者である自分に、おもねるような言動をしないイツキのことをジャンキーは悪くないと思っていた。
それから5日経ち、固形物も口にするようになりジャンキーは回復とともにドラッグを欲しだした。
「MDMAをやろう、これを飲むと異性が素敵にみえる」
「ジャンキーはEDなんでしょ?」
「それだけが愛じゃないさ」
「なに告白してるの?やめてよ」イツキが笑っていると、ジャンキーが一粒のタブレットを渡した。
「タブレット?」
「ただのタブレットに見せたデザイナードラッグだよ」
「デザイナードラッグ?」イツキがオウム返しに聞いた。
「どこかのマッドサイエンティストが人工的に作ったお薬だよ、バカ売れした5meo-diptはシュルギン博士が作った。」
「へぇ何人?」イツキは気の抜けた返事をした。単に興味がないのである。
「知らねぇ、じゃあこれ、舌下、大体30分で効いて、5時間で落ちる」
イツキは警戒もなくその錠剤を舌下に放り込んだ。生きる価値を取り戻した彼女がドラッグに寛容なのは不思議だが、ジャンキーを信頼しているのかもしれず、ドラッグの素晴らしさに気付いてしまったのかもしれず。未だ不安定な彼女の心が行動原理に影響を与えているのかもしれなかった。
「もう飛び込まないと約束できるなら30分海を眺めよう」
「もうしないよ、あんなこと、する必要もなくなったし」
空は夕暮れ、海から突き出した岸壁は巣作りに適しているのだろう、相変わらず数多の鳥が飛び交っている。
細かな水滴を纏ったビールのプルタブを押し込んで、すかさず飲み込んだ。
「ビールは一杯目だけうまいな、ずっとこのうまさが続くようにできないのはメーカーの怠慢だと僕は思うんですよね」
「なにそれ」イツキがクックと笑った。
お互い最悪の状態からは脱したのだし、多少タガを外してもいいだろう、イツキは望まれるならジャンキーに抱かれてもいいと思っていた。
暗くなりにつれ、街灯のない海は音だけを残して怪物のように唸りをあげている。バッドに入らないように、カーテンを引いて音楽をかけた、イツキにはよくわからないが、クラブ音楽という奴だろう。それからジャンキーは床置きのミラーボールを設置して作動させた。
たちまち一面はダンスフロアになった。
HDMAは俗称エクスタシー、玉、×などというが、どうもエクスタシーというのがしっくりくるようだ。時間がたって多幸感が脳の中で吹き上がってきた。セロトニンが過剰になっている。などといっても言葉では逆らえない。不器用ながら体が自然に動き出す、フロアライトがぐるぐるまわって、多幸感をともなって上がっていく。
ジャンキーは耐性のため効きが悪くもう一錠追加していた。
そんな様子をよそにイツキはすっかりキマってしまって、「わぁ最高~」とか「幸せ~」などとつぶやいている。
ややあってジャンキーにも効いてきたようだ、ジャンキーとイツキは見つめ合うと「イツキ女神様みたい」「ジャンキーも最高」とお互い言いあった。
MDMAには相手との親和性を高める効力があるのだ。ゆっくり抱き合うと、二人はキスをした。キスの感触はこれまで味わったことのないものだった。「きもちいい」「きもちいい」二人とも同じことをつぶやき続けている。
それでもやはりジャンキーのそれは勃たなかった。
「いいよこっちおいで」イツキがジャンキーを服を脱がしながら先導していく、二人とも全裸になって抱き合うと、またもう一段階高い多幸感がやってきた。これ以上することもできたが、イッてしまうのが怖くて、このままでいることにした。
やがてダンスフロアに二人を残して時間は極めて遅くながれ幸せの中にいつまでも落下していった。
だがやがて薬は切れた、続けざまに追い打ちして15時間は楽しんだろうか、途中で踊ったり、抱き合ったり。3錠を使い切るころにはイツキはフラフラになっていた。さらに追加しようとするジャンキーを止めて、落しを飲ませた。
粥とスポーツドリンクを摂って胃腸が回復するのをまった。ウトウトとしてイツキが眠りについたころ、ジャンキーはシャブを打っていた。
射精しなかったことがもったいないのか、勃つことのないそれをしごき続けた、それはイツキが起きてくる10時間後までつづいた。
不思議なことにMDMAの薬効はとうに切れているにも拘らずジャンキーのことが好きでたまらない。
「ジャンキー私のこと好き?」ストレートに聞いた。
「ああ」
嬉しい、幸せ、MDMAの親和性を上げる効果はまだ続いているようだ。
「嬉しい」
この状態がさらに数日続いた、だがある日急にストンと脳が作動しなくなったように、これといった感情がなくなってしまった。もう一度聞いてみた。
「ジャンキー私のこと好き?」ストレートに聞いた。
「ふつう」
「そっか普通か、MDMAやればまたあんなふうになるのかな」
「どうかなMDMAは耐性の強いドラッグだから、あの多幸感をずっと追いかけてると死んじゃうよ」
「ジャンキーはなんでそんな薬を私にやらせたの?」
「好きだから、病院で見かけたときから好きだった」ジャンキーは海を見ている。
「私も好きになりそうだったのに、ドラッグなんかに頼らなくても」
「もうあの多幸感は二度とこない、イツキとはもう二度とあの高みに行くことはないんだよ」
「私を嫌いになるためにMDMAを使ったの?」
「嫌いじゃないよ、普通さ、薬は幸せの前借っていうだろ、イツキの前借の分俺がもらってやるよ」
「賢い考え方とは思えない」
「とにかくドラッグで受けたダメージを回復させよう、明日は温泉と市場にいこう」
確かにまずは疲れ切った身体を回復させることが肝要だと感じられた。イツキは落しのデパスが効かず、寝床で悶々と考え続けた。
(おそらくジャンキーは死のうとしている、そうじゃなくてもあのやり方では近いうちに死んでしまうだろう。そしてそのために、人間関係を捨てようとしている。好意を持っているものからは好意を、憎しみをもっているものからは憎しみを、殺意を持っているものからは殺意を取り去ろうとしている。ジャンキーの父親が死んだことで、それは比較的容易になった。イツキから好意を取り去るにはもう二度と経験できない快楽を共にするしかなかったのだろう。問題は嗜虐心だろう、ジャンキーはだれを殺すだろうか……)
と考えてイツキはヒヤリとした、好意を持っている私を殺すことで嗜虐心が満たされるだろうか、否、それはない。ならばその相手は母親だ、ジャンキーは母親の居所を知っているだろうか。ジャンキーは母親を殺し弟を捨てるつもりだ。)
翌朝、イツキが目覚めると、まだ覚せい剤の追加で飛びまくってるジャンキーがそこにいた。
「ずっとやってたの?」
「ああ、最高だ」
「市場と温泉にいくんじゃないの?」
「もう一本、もう一本打ってから」
「それじゃ市はしまっちゃうよ、それに匂うから温泉じゃなくてもいいからお風呂は入ったほうがいい、というか周りの目があるからまず家の風呂に入ったほうがいい、沸かすね」
「確かに勘繰りが酷い」
ジャンキーはしおたれたそれを擦りながら、間断なくビクビクとイッている。イツキはデパスをジャンキーに飲ませ風呂を沸かした。ジャンキーからは汗と飢餓状態に発生する甘酸っぱいケトン臭がしていた。せっかく海の家に来て体調を戻したのにすぐ衰弱状態に戻ってしまった。
それでも風呂を浴びて軽食を摂ったジャンキーは幾分マシに見えた。
「市場はなし、私がスーパーで何か買ってくるから、睡眠薬飲んでねてなよ」
イツキの提案をおとなしく受け入れたジャンキーは布団にくるまった。
さて、イツキも薬の効果が残っている状態での運転は避けたかった、だが食料だけは切らさないようにしないとジャンキーが死んでしまうと思った。
スーパーへの道は曲がりくねって見えた、まだMDMAの効果が多少残っているのだろう、最新の注意を払って限界集落の国道を走った。幸いに対向車には合わずスーパーに到着できた。ゼリー、お粥、プリン、だし入りみそ、カレー、チョコレート、米はあるはず、といったところか、酒はよくわからないが禁忌だろう。一応買って隠しておこう。
帰りも車のハンドルを汗まみれにしてどうにか事故を起こさずに帰ってきた。相手が車ならまだしも子供でもはねたら私は自責の念で立ち直れないな。そう思いながら車は小刻みに左右に動きながら車は走る。そういえば合法ドラッグの包括規制も交通事故がきっかけだったっけ。
イツキはぐるぐると頭の中で思考を回しながらどうにか無事に海の家に到着した。
買ってきたものを並べて食べられそうなものから食べなよとイツキが勧めたが、もう少し眠っていたいとジャンキーは布団にうずもれて応えた。
眠れるのは良いことだろうイツキは放っておくことにして、マリファナを一服しながら昼の明るい海を眺めた、波頭が行ったり来たりする、巨大な岩は相変わらず鳥が飛び交っている。鳥の種類はわからないが大きいのが小さいのを追いやっている。人も鳥も一緒か、一緒にマリファナやればマウンティングなんて気にならなくなるのに。イツキはもうすっかりマリファナの虜になっていた。
さて、とイツキは考えた、どうすればジャンキーが母親を殺さず嗜虐心を治めるか、どうすれば生き急ぐようにドラックを連用するのをとめられるか。いずれも難題に思えた。
悶々としているとジャンキーの起きる気配がした。ドラッグのせいで食いしばった歯が痛いようで顎のあたりを摩っている。
「歯磨く、あとマリファナ吸ってなんか食べる」マリファナにはマンチといって食欲を向上させる効果がある。
「スイーツ以外ならカレーくらいしかないけど」イツキが申し訳なさそうに応える。
「カレーでいいよ、大好物」よろよろしながらジャンキーは洗面台委のほうへ向かった、相変わらずケトン臭が漂っている。カレーを食べてもまったくカロリーは足りないだろう。レトルトカレーを湯煎にかけている間イツキはもう一服マリファナを吸った。
「それいいねちょうだい」ジャンキーがやってきた。
「新しくつめる?」
「それでいいよ」ジャンキーはハイプを加え胸いっぱいにマリファナを吸い込み息を止めた、限界まで待って煙を吹き出し、再び漂っている煙を吸った。
「ああ、クラクラする」上がり框に座り込むと、海のほうを見つめながら、「海が青いのは空の青さを映しているからなんだぜ」といった。
「海の青さを空が映してるんじゃなかったっけ?」イツキと言うと
ジャンキーは「そうだっけ」といって笑った「どっちでもいいよ」と重ねた笑った
「どうお腹減ってきた?」
「うん、食べよう」
食卓にはカレー、ゼリー、チーズ、チョコレート、ほうれん草のお浸しとめちゃくちゃな献立が並んでいた、料理下手なイツキが病人用に合わせたらこうなってしまったのである。それでもジャンキーは「うめーうめー最高ー」といいながら食べている。
イツキもゼリーを口にしたら口中に広がる甘さで思わず「なにこれ、うまぁ」と声に出してしまった。
それから3日経ち、マリファナだけの生活に戻ってようやく食事と睡眠がまともに摂れるようになっていた。イツキとジャンキーは海を見つめていた。
「ジャンキー」
「ん?」
「ジャンキーのお母さんてどんな人なの?」
「知らないよ記憶もないうちに俺たちを捨てて逃げたからな」俺たちというのは弟のことだろう
「なんで捨てたの?」
「親父の暴力に耐えられなかったんだろ、わかんないけど」
「お母さんを殺す?」イツキは核心を突いた
「…なんで?」
「ジャンキーは自分の欲望に素直だもん」
「どこにいるかわからない人を殺せやしないよ」
話はそこで途切れた。来客があったのだ、以前からドラッグを運んでくる若者だった。若者はジャンキーに向かって話しかけた。
「前田さんが組の金持ち出ししまして、ジャンキーさんのことも新宿中で探してます」
「そうか、明日には組に寄ると伝えといてよ、悪いね」そういうとジャンキーはポケットから10万円ほどの束を取り出して若者に握らせた。
「なぁに海の家には俺はいなかった、電話はつながってそちらへ向かうと言ったと言ってくれよ」
一瞬の間があって若者は一礼して去った。
「さて問題発生だ、前田は合法ドラッグで稼いだ金を組にいれず高跳びしたらしい、これで俺には3日程度の余裕しかなくなったわけだ、まいったねぇ」
「とにかく事務所に顔を出したほうがいいんじゃないの、ジャンキーは悪いことしてないんだし」
「ヤクザにそんな道理が通じればいいけどね、とにかく荷物をまとめてよ東京に戻ろう」
運転はイツキが行い、ジャンキーは覚せい剤を間断なく打っている。一路東京に戻った二人は、一軒のアパートの前に止まった。
「ここで待っててよ」
「お母さんを殺す気なの?」
「さぁここは前田のアパートだよ一応よってみただけ」
嘘だ。入念に自分の生きた証拠を潰してきたジャンキーがこの差し迫った状態でヤクザのいざこざに関わるとは思えなかった。
「やめようよ、きっとジャンキーはもっと幸せになることができるよドラッグもやめなくていい、しヤクザに追っかけられてもいい、私が幸せにするから、ジャンキーを捨てた女なんか放っておけばいいよ」
出し抜けにジャンキーはイツキを殴った、殴られた瞬間イツキの心がなえてしまったようにみえた。ジャンキーは再び殴った、イツキが血を吹き出すまで殴りに殴った。
イツキはすっかり黙ってしまった。
「暴力はなあ、言葉を超えるんだよ」ジャンキーは目をギラギラさせて叫ぶと、車に積んだバールをもって飛び出した。ジャンキーは通常よりはるかな量の覚せい剤を注射している。しかしイツキは恐怖で動くことができなかった。
チャイムを押しても人の気配はない、外でひと悶着あったのだ警戒しているに違いない。ジャンキーはバールでドアノブを叩き壊し蹴り飛ばした。その向こうにはそこには中年の女がいた。
「あんたが英子か」腕にタオルを巻いてもう一本覚せい剤を追加した。
「あんたが英子か」ジャンキーの大声が響く。
「あんた、私を恨んどるんか、殺したいほど憎むんどるんか、殺したらええよ」
直後振り上げたバールは窓ガラスを割った、あたりにあるものを手当たり次第に壊した、テレビが割れた、テーブルが割れた、ふすまが割れた。その間ジャンキーは唸り声をあげて泣いていた。そして英子にバールを振りかぶったところで、ガラス戸もろともガシャンと音を立てて倒れた。明らかなオーバードーズだ。
イツキは消防に連絡したが、ジャンキーは蘇生しなかった、一般の何倍もの量の覚せい剤を打って暴れたのだ。
ジャンキーが死に、ジャンキーに暴力を振るわれたことで、イツキには悔しさがこみあげてきた。イツキの父母もジャンキーの父母も、「生まれてくれてありがとう」となぜ一言いえないのか。ジャンキーはそれだけで救われただろうに。
イツキはタクシーを拾って帰り、くすねたマリファナを一服して残りは捨ててしまった。これで捕まることはないはずだ。
イツキはジャンキーに殴られた後をなぞって泣いた。あんなくだらないことのために死にやがって、選択肢はいくらでもあったじゃないか。殴られたあとが痛い。
涙まじりにイツキはつぶやいたジャンキー、生まれてくれてありがとう。さよなら。
了
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