ひとつぶのぶどう

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 初めてこの屋敷へ来た時、庭の入口から奥へと続くパーゴラを通ったことがある。そこをよけて通ることもできるのだが、入口から正面玄関まで真っ直ぐ伸びる道であったため、そこが近道であった。  こちらからどうぞ、と案内してくれた彼の一歩後ろをついていった。アーチ状の骨組みを葉が覆うように茂っている。合間から紫色の球の集まりが覗く。 「あれは葡萄?」  私は(たず)ねた。彼は振り返り、私の示した先を見た。 「そうだよ」  ただそれだけ答えた。彼の瞳の中の光が揺れた。  その瞳には、きっと私は映っていない。多くは語らない彼の性分に触れていくうちに、何となくそんな余計なことまで見えるようになってしまった。  私より頭ひとつ分背の高い彼は、節のある指を葡萄へと伸ばした。いちばん高い中指が、()()れる葡萄にかろうじて触れる程度だった。  腕を下ろした彼はこちらに顔を向けると気まずそうにはにかんだ。その表情は、その姿はむしろ少年のそれであった。 「あの人がくれたものだった」  爽気に溶ける程小さな声で呟いた。彼は──少年は再び葡萄へ視線を向けた。続きが紡がれるかと息を潜めて待った。しかし彼は何も言わなかった。あの人とは誰なのかと訊ねるのは憚られた。  パーゴラの天井には手を伸ばせば届きそうなのに、抜けるような青空には近づくことさえ叶わない。翼を身につけたとて、葡萄の蔓に絡めとられてしまうだろう。いや、蔓は私たちが空へおちないための堰堤(えんてい)なのだ──そんな考えがよぎった。隙間から見える秋空のなんと恐ろしいことか。空はどこまでも高く、いちど足を踏み外したら無限に吸い込まれそうであった。そうなれば青に(まみ)れた視界の中で、一体何を思考すればよいというのか。自分はただ地面に頼りなくしがみついているのみで、強い力によって空へ引き込まれようとしているのだとしたら。足が竦み、煉瓦道に視線を落とした。  そこには先導するかのように紫の粒が落ちていた。先んじてこぼれた一粒の葡萄だ。 「もうそんな頃合いなのだね」  彼はそういってその一粒を大事そうに手に収めた。白い靄がはりついたような斑な葡萄は、土が付着したせいもあるだろうが、見た目だけではその貴賤は判断できなかった。だがその皮の内側には、艶やかで瑞々しいペリドットの実を秘めているのだろう。  煉瓦道の奥へ吸い込まれる彼の背中は、紫の斑な葡萄のようだった。彼もまた、一粒の葡萄のように宝石を内包しているのだろうか。否、じつのところは、誰からも見える気品はとうに()えていて、剥き出された実まで強酸に溶けはじめているのかもしれない。
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