出会い

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出会い

 丸の内の一流会社、伊井商事の裏口に、トラックを付ける。  通行許可証を警備員に見せて会社内に入った。  時刻は夜の九時。  定時帰宅の綺麗なOLたちの姿なんぞとっくになく、一ヶ月の残業時間三桁台のビジネスマンがちらほら見えるだけだ。  こんな時間に呼び付けるなんて、あの部署以外絶対にない。  そして出て来た男の姿を見て、やっぱりなと俺は腹の中で舌打ちした。  先物取引部で一番若い奴だ。  いつもフレーム無しの眼鏡を掛けて、ネクタイも肩に跳ね上げ、腕捲りした姿で分厚い封筒を抱えている。雰囲気は都会的と言えないこともないが、その表情は常に不機嫌極まりない。  二十六の俺と歳もそんなに変わらないだろうに、五十代の疲れ果てた人間のような顔で封筒を突き出し、これを大阪支社に明日の十二時までに届けて欲しいとのたまった。 「集荷締切時間を過ぎている上に至急便ですので料金が加算されます。宜しいですか」  一応マニュアル通りの補足をすると、そんな事は承知していると奴は跳ね返すような口調で答えた。 「いつものことだ。お宅の宅配会社しか届けられないから来てもらったんだから」  どうしてこの男は毎回人を見下したような物言いをするのか。  社員教育の行き届いている一流会社は、外部の人間には角のない物腰で接するよう、ちゃんと躾けられているものだ。俺は個人宅ではなく業務用の宅配を主に担当しているから良く判る。個人差はあれど、あちこちの会社を回っているとそれは歴然としているんだ。  それがこいつはそういう会社の一員であるはずなのに、とげとげしい態度を隠さない。  いくら忙しいからって、俺に八つ当たりされたって困る。この様子じゃ取り繕う余裕がないのかもしれないが、こいつを相手にするようになって半年、毎回毎回これでは堪らない。ここの担当を別の仲間に代わってもらいたいくらいだけれど、総務部や他の外国担当の部署の人たちに『いつもすぐに来てくれて有難う、本当に助かってます』なんて笑顔で礼を言われては、つい我慢してしまう。  胸に下げたIDカードで、こいつの名前は知っている。『土岐秀司』だ。  まったく名前まですかしてやがる。  お偉いエリート野郎なんぞお呼びではない。頭だけ下げると書類を持って踵を返した。  あっちも俺が受け取ると同時に背を向けて、革靴の音を立てて消えた。  会うたび会うたび、ここまで無愛想な奴も珍しいもんだ。 ※ ※ ※  俺たち宅配便の運転手は、毎日が同じ日々だ。トラックを運転しては荷物を集めたり配達したり、最後に集荷センターに戻って、家に帰る。  例のエリート野郎と顔を合わせた数日後の週末、俺は久しぶりにオフの予定だった。  集配を終えたのは夜の九時過ぎで、荷物をセンターに置くべく、夜道を走っていた。  ――俺の勤めるペンギン運輸、通称ペンギン宅急便は業界でも最大手で、その始まりは昭和初期に遡る。  発祥が小さな魚屋だったのは有名な話だ。  鮮魚は新鮮さが命。昭和初めの当時、クーラーなんてないから、魚屋を営んでいた創業者は得意先に魚を一匹届けに行くのも、氷を一杯詰めた重い箱を抱えて自転車で配送していたらしい。  重いのは我慢できるにしろ、やっぱり届けるからには一秒でも早く、新しい状態の魚を届けたい。商売熱心な創業者は常日頃その為の手段を考えていた。  そして金をはたいて、当時まだ地方では珍しかったオート三輪を買い、氷だらけの箱を積んで、魚を持って行くことにした。  自転車と車じゃスピードは比べ物にならない。しっかりした保存方法で魚を運んでいる上、夜中でも駆け付けるその熱心さが幸いして客の評判を呼んで、都市部の料亭の魚の配送も任されるようになった。オート三輪で近所の人々のちょっとしたお使いや配達もついでに気安く引き受けていたのが、魚だけでなく宅配商売まで手を広げるヒントに結び付いた。  戦争が終わり、高度成長期に入ってからも、戦前から貯めていた金を更なる商売の向上に使うことに決めた創業者は、早速トラックを買った。鮮魚を手早く運ぶために身に付けた要領を駆使して、魚だけでなく荷物も運ぶためだ。  前者は自分の本業なので配送代は取らず、後者は格安の金で、県を跨いでまで運んだ。  先見の明、という奴だろう。  創業者の働きはあちこちに広まって、人を雇う配達会社になり、そして結局はここまで大きくなった訳だ。創業者は現在会社の会長に収まっており、八十近くになっても未だ矍鑠たるもの、膨大な数に上る全国の集荷センターや支店を毎年一年掛けて回っては、従業員を励ましている。  俺も何度か会ったことがあるが、元気な好々爺といった人で、結構好印象を持っている。  ペンギン宅急便という名前は、もちろん最初が魚屋で、いわゆるクール便が専業だったから、そこから創業者が名付けたものだ。  ちょっとトボけているけど、デザイナーがデザインしたペンギンのマークは今ではすっかりトレードマークになって、道端をトラックで走っていても、小さな子供たちなんかは良く笑顔で指差してくれる。  全国の人々がお客様、というのが会長の口癖。俺たちの接客のトレーニングは他の宅配業者よりもずっと厳しくて、子供が『ペンギンのお兄ちゃん』と俺たちの制服を見ながら言ったりすると、必ず手を振って応えることにしている。  これもサービスって奴だな。  今日も一日良く頑張った自分を褒めつつ、帰ったらどこのメシ屋に行こうかなと、明日の休みに少し浮き立ちながら運転していると、無線連絡が入った。  営業所の明美ちゃんの声だ。  まだ新人だけど仕事熱心で、彼氏もほっぽらかして残業も頑張る可愛い子だ。無線が来たってことは、またどこかに行かなきゃならないようだ。 『508番、どうぞ――』 「はい508番、広嶋っす」 『広嶋さん、今どちら走ってます?』 「六本木通りです」  明美ちゃんの明るい声がほっとして、ご免なさいと謝るように続けた。 『ちょうど良かった、丸朱電機本社さんに集配お願いします、封筒一個だそうです』 「了解」  丸朱電機ならここからすぐだ。寄り道ってほどでもない。あそこも忙しい会社だから、遅くまで荷物が出ることが多いんだ。  どうせセンターへの帰りだからいいやと思いながら、俺はハンドルを切って道に入った。  丸朱電機の裏口近くにトラックを付けると、A4サイズの重そうな封筒を抱えた顔馴染みの男性社員が外で待っていた。さすが。中に入らなくていいからめちゃくちゃ助かる。バーコードを読み取らせた封筒を小脇に抱えた俺に『よろしく』と警官を真似した敬礼で送ってくれるのを、俺も同じ仕草で返して車まで走り、伝票をファイルに挟んで運転席に乗り込んだ。  さてエンジンを掛けるぞと無意識にバックミラーと周囲を見回して安全確認をしたら、助手席の窓越しに、歩道を歩いている人間とふと目が合った。  どこかで見覚えがあると思ったら、何と例の伊井商事のエリート野郎だった。  相手も俺だと判ったのか、こんな道端で顔見知りと出くわして、なおかつ目が合ったことにバツの悪そうな表情をしている。  薄いベージュ色のコートを羽織って、重たそうな黒いビジネスバッグを右手に下げて歩いていた奴は、若さなんかどこかに置き忘れて来たようにくたびれてて、不機嫌になる気力もなさそうな感じだ。  肩を丸めた後姿を見たら、リストラされたサラリーマンに間違われるに違いない。  あまりにも疲れた風情に同情を覚えたのと、明日が休みということに気前が良くなっていたのもあり、俺は思わず窓を開けて声を掛けていた。 「もし何か荷物あったら、運びますよ」
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