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秀司は湯で絞ったタオルで身体を拭いてやって、俺はシャワーを浴びて、シーツも替えて朝まで一緒に眠った。
俺が目を覚ましたとき、遮光カーテンのすき間から射しこむ光を頼りに時計を探したら、もう八時を過ぎていた。
左隣には、秀司が満ち足りたあどけない寝顔で眠っている。無意識なんだろうけど、俺の腕に絡んでくっついているのが可愛い。
このアパートで独り暮らしを始めたとき、部屋に見合わないセミダブルにしたのは俺の図体がでかいからだ。小柄とはいえ男のこいつが並んだらもっと狭くて、寝返りも打てない状態だった。
本当は今までのように俺が床の布団でこいつがベッド、ってのがベターじゃあるんだよな。でも離れて寝るなんて、もうこれからはできやしない。
こいつの赤坂のマンションは『広々と寝たい』という贅沢な理由でダブルベッドだし、次からはあっちに行ったほうが便利かな?
だけどこいつは狭いとか散らかっているとか小言をくれるわりには俺の家のほうが居心地がいいらしく、しょっちゅう泊まりに来るしセミダブルのベッドでも平気で寝る。
たぶん、俺たちはこれからもこの部屋でこういう時間を続けて行くんだろう。
見守っていても口元が緩んでしまうほど、こいつの寝顔は可愛い。
照れているのかはたまた気まずいのか、最近は伊井商事に行ってもこいつと顔を合わせることはない。先物取引部に荷物があっても、他の人が出てくるんだよな。
だから最近の秀司の仕事ぶりは判らない。
ま、話の端々から推測するに、以前とまったく変わっていないんじゃないか。
むっつりと黙りこくって、腕捲りした格好でキーボードを叩いて。眼鏡じゃなくてコンタクトにしているから少しはやわらかく見えるにしろ、全体的な雰囲気は同じだろう。
でもこうやって身近に過ごしていると、こいつがあのビルでは決して出さない、いろいろな顔が見えてくる。
膨れている顔、おやつを食べるときの幼い顔、俺をじっと見つめてくる顔。
こいつのすべてが俺にとっては新鮮で、飽きない。
もっと沢山の顔を見せて欲しいし、それらも俺は好きになるだろう。
寝乱れた髪を掬って整えてやって、起こさないよう額にキスした。
時間あるし、あとでもう一回くらいはいいかな、なんて不埒なことを考えていたら携帯電話の音。会社からの電話だ。
ええと、どこに置いたっけか……
記憶を引っくり返し、昨日のジーンズのポケットに入ったままだと思い出した。
ベッドから上半身だけ這い出して腕を伸ばし、床に散らかしていたジーンズをたぐり寄せて尻ポケットから電話を取り出した。また布団の中に潜りこんで横になりながら『もしもし』と小声で出たら、明美ちゃんだった。朝早くから元気に仕事しているのが、携帯の向こうから伝わってくる。
『もしもし、広嶋さんですか? 休みの朝からすみません』
「いいよ、どうしたんすか」
『あのですね、徳田製薬さんの封筒が相手先不在になってましたよね? それで持って帰った封筒、どこにあるかご存知ですか』
「あれっ、俺ちゃんと置き場に戻したけどな」
『それが、さっき探したけどないんです』
「ええっ」
やっちまったな。ミスしたか?
昨晩の仕事手順を頭で再現したけど、何も手違いはなかった。徳田製薬宛ての封筒はセンターに戻した。宛名を読んだから覚えている。
明美ちゃんも遠慮がちに続けた。
『広嶋さんだから間違いないと思うんですけど、でも見つからなくて。いったいどこに行っちゃったのかな――え、なに?』
何やらごそごそと話した後に、ありました!と明美ちゃんは明るい喜びを伝えた。
『広嶋さん、あったそうです! んもう西川さんたら、こっちで確認してないのにトラックに先に積まないでって言ってるじゃないですか!』
西川とは入ったばかりの新人ドライバー。まだ慣れていなくてドジをやったようだ。
電話の向こうで明美ちゃんがぷりぷりとお小言を垂れている光景が目に浮かぶ。俺はくすりと笑った。
誰だって始めはそうだし、あんまり怒らなくていいよと明美ちゃんに続けていると、いつの間にか隣がもぞもぞしている。秀司の目が覚めたらしい。
しかも覚めただけならともかく、俺の電話相手が女性だと知るなやいなや、機嫌を悪くしているのがひしひしと感じ取れる。
……気配がヤバい。
早々に通話を切ろうとした瞬間、秀司が俺の肩に歯を立てた。
「って!」
鋭く走った不意の痛みに声を上げると、耳聡く明美ちゃんが聞きつけて心配してくれた。なんていい子なんだ。
『えっ広嶋さん、どうしたんですか、大丈夫ですか?』
「あ、ああ。いやごめん、何でもないよ」
『そうですか? だったらいいですけど』
こちらになおも妨害をよこす秀司の腕を払いのけながら、俺は小声で窘めた。
「やめろってば。仕事の電話中だぞ」
『……広嶋さん?』
最近の携帯電話の高い性能を怨まざるをえない。
こんな低い声まではっきり聞き取られちまうなんて。
「や、本当に何でもないんだ、ごめんな……そう、ネコ。ネコがな、ちょっと悪さをするんでな』
噛みつかれたことでとっさに思いついたデタラメだった。
が、若い女性は猫好きが多いという、さらなる落とし穴のことが不覚にも抜け落ちていた。
明美ちゃんも案の定、ええーっと歓声を上げて前のめりになってしまった。
『ネコって、いやだ広嶋さん、いつの間ににゃんこ飼ってたんですか? 今度写真見せてくださいね』
「いや、えーっと、それは……ちょっと都合が悪いんだ、ごめんな。餌やらなきゃいけないから、これで切るよ」
朝っぱらから四方八方に墓穴を掘りまくった挙句、俺はなんとか通話を切って携帯電話を床に置いた。昨夜のアレコレでまだ脳が浮かれてて、本調子じゃないのを思い知りながら。
つい、溜息が出た。
明日出勤したら、どんなネコかとさんざん質問攻めに遭うのは決定だな、こりゃ。
そしてそれ以上に怖いのは――今、秀司のほうを向くことだ。
様子をおそるおそる横目で探ると、予想通りこいつはとてつもなくご機嫌を損ね、背を向けていた。
「……俺は、お前にはネコ程度なんだな……」
「悪かった、あんなこと言ってしまったのは謝るよ。だけどな、お前も噛みつくことないだろ。あれは職場の女の子で、仕事のことで電話掛けてきたんだぞ」
「………」
憤然とした後ろ姿は、俺の平謝りなんて道端の石ころ以下といわんばかりに歯牙にも掛けない。
まったく、これが成人した男同士の問答かよ。
でも俺は秀司のこの怒りが、ちょっぴり嬉しくもあった。肩に残った痛みは、こいつの焼きもちの度合いでもある。明美ちゃんが仕事相手でしかないなんてこと、聞いていればすぐに判っただろうに、それでも妬くなんて可愛気があるじゃないか?
俺も同じように、こいつの右肩に唇を押し当てた。
もちろん、噛んだりはしない。
「痛かったぞ?」
耳打ちしたら秀司は背筋を震わせたけど、俺が後ろから腕を回す動きからは逃げない。
頬にもキスを落として宥めたら、やっとくるりと向き直って、こっちの懐に潜りこんだ。
俺は秀司の脇腹から腰へと掌を滑りおろして、ゆっくりと素肌を撫でる。それが何を意味しているかは、もう考えるまでもない。鎖骨から胸元へと舌先でなぞって行こうとしたとき、秀司が俺の髪を梳きながら呟いた。
「さっき……どっちを使ったんだ、隆」
「どっちって」
「俺が持って来ただろ」
使うって、何を?
首を捻りながら身を起こし、例の紙包みを取ってベッドの上で取り出した。
とにかく中身が何なのか知らないと、答えようがない。そう思って箱を開いてみると――それは、海外製の専用ローションだった。
両者でメーカーが違うのはスペルでわかるけど、どっちもオシャレな細長いボトルに入っている。見るからにお高そうだ。
昨夜のこいつは眼鏡を掛けてなかったし暗くしてたし、どのローションを使ったのか見えなかったんだな。
って、それよりも。
コレを、いつの間に手に入れたんだろうか。
俺ははなはだしく不安になり、どこで買ったのか訊いた。
「俺が使ったのはこれじゃない、似たようなのを買って用意してたんだ。普通の国内産だけどな。まさかお前が買って来るなんて思わなかったよ」
「通販だよ。代行業者から三、四日で届いた。添加剤もそんなに入ってないって聞いたし、海外の口コミサイトでも評判良かったから」
「つ、通販? ちょっと待て、どこの業者が届けたんだ、荷物名は何という名目で届いてた?」
二回目のムードもその気もどこへやら、俺は急き込んで訊いた。
俺も通販を使ったけど宅配屋のサガ、人様に見せられないブツを頼むときは特に用心してしまう。同業者がどんなに鼻が利くかを知っているからだ。少々のカムフラージュだと、勘のいい奴ならピンと来てしまう。だから今回は郵便小包で届けてくれる販売店をわざわざ指定した。まだ郵便屋さんなら救われるってものだからな。
そんな俺の焦りなんて知りもしない秀司は、瞳を開いて平然と答えた。
「オオクマ宅配便で届いたよ。でも適当な名前で申し込んだし、品名も『化粧品』ってあっただけだ」
世間知らずのくせに、こいつも妙に頭が回る。
たしかに届け先のマンション名と部屋番号さえ正確なら、名前は二の次になりやすいのは事実だ。それに『化粧品』なら、そこそこ嗅ぎつけられることもない。
ただ、オオクマ宅配便の連中にこいつを見られたってのが何だか頭に来る。うちのペンギン経由だったら、赤坂界隈は担当範囲だから俺が途中で届けてやったのに。
まあいいかと納得しかけていたら、今度は別の物言いに引っ掛かった。
海外の口コミサイトを読んだのはさもありなんと思う。仕事柄、こいつは英語の読み書きが堪能だし。
けどな。問題はその手前だ。
“聞いた”って。
まさか……まさか、先週にあれほど言ったんだから、そんなことはないよな?
そう信じつつ、祈るような気持ちで質問を重ねた。
「お前ひょっとして、誰かに質問したのか」
「何を」
「その……男同士のこととか……」
「会社の後輩が教えてくれたよ。遊び人で詳しいんだ」
秀司は美味しいケーキ屋を教えてもらったのと変わらない態度で無邪気に言い切ったが、あべこべに俺は頭が痛くなりそうだった。
その遊び人の後輩とやら、同性のことに詳しいなら秀司に目をつける恐れがあるじゃないか。
いや、とっくに目をつけられているかも。
「そいつと仲がいいのか」
「なんか知らないけど、あっちがよく寄ってくるんだよ。部署が近いし、すごく仕事が出来る奴なんだ。顔がいいから男女問わずもてて遊んでるらしいって俺の同期に聞いたことあって、だから試しに訊ねてみたら、ちゃんと知ってたんだ」
思ったよりも世故に長けていると一瞬錯覚したが、やっぱりこいつは子鴨だった。
あのお堅い、それも上場してるような一流の職場で堂々と質問するなよ、そんなことを。
それに賭けてもいい、後輩とやらはこいつを狙っている。じゃなきゃ『よく』寄ってくるわけないって。
だけどなあ。どうしたものかと俺が腕組みしたところで社外の人間にはどうにもならない。後輩はオオカミだと教えたって、天然のこいつに自覚は生まれないし。
あんな大きい会社ならそういう人もいるだろうと考えてた通りになっちまった。職場で親しくしている後輩なんて最悪のパターンじゃないか。これからも俺が始終見張っておくくらいしないと、めちゃくちゃまずい。いつ掻っさらわれるか知れたものじゃない。
「隆……?」
眉を寄せていた俺に、秀司が首を傾げて腕を伸ばした。
なにかまた悪いことをしたんだろうかと、表情を窺うように。
注がれるその眼差しが、こいつの後輩への嫉妬と混ざりあって俺の胸を鷲づかみにする。
そうじゃないと言い聞かせるために、俺は身を屈めてキスした。
歯列を割って舌も挿しいれて、少しずつ本気を絡めてゆく。
最初は受け止めるだけだったこいつも、じきに応えてくる。俺の背中に腕がそうっと回って、抱きついてくる。躯が熱くなっているのは、お互いに確かめるまでもなかった。
「その後輩ってやつに、おやつに釣られて付いて行ったりするんじゃないぞ」
「ん……」
「二人きりになっちゃ駄目だぞ。近寄られても逃げるんだぞ。いいな」
俺の腕の中でうっとりしている秀司に、キスの息継ぎの合間に言い聞かせる。
今どき、幼稚園児のほうがよっぽどしっかりしてて用心深いぞ。先生にだってこんなことは何回もしつこく念を押されないだろうに、なんで俺が二十六歳の大人に言い聞かせなきゃならないんだ。
頬から耳をそろりと唇で撫でながら駄目押しすると、俺の息遣いにくすぐたっそうに笑った秀司は、もちろんそうすると約束した。
「隆以外の奴には、近付かれたくない」
「俺ならいいのか」
俺の問いに、秀司は抱きつく腕にぎゅっと力を籠めることで答える。
全身にあふれるこの優越感と愛おしさを、なんて表現したらいいんだろう?
子鴨を先導しているつもりが、逆にこいつに骨抜きになっているのは俺だ。どんな願いでもわがままでも聞いてやりたくなるし、幸せそうな笑顔を見せてくれるなら、何だってする。
心のなかにたくさん溢れる気持ちのはけ口探しに、迷う必要はない。
俺たちはもう、その手段を知っているからだ。
今度はこいつが買ってきたローションを使おうと封を切っても、秀司は反対もしなかった。それから俺たちはもう一度ベッドの中で抱きあって、メシも食って、夜に別れた。
いつもと同じように、来週を約束して。
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