180人が本棚に入れています
本棚に追加
翌朝、覚悟しながら出勤すると、予想通り明美ちゃんに捕まった。
「ねえねえ広嶋さん、いつからにゃんこ飼ってたんですか。どこかで拾ったとか、最近は保護猫ちゃんも多いでしょう? 大人かな、それとも子猫かな。キジちゃんですか、サビちゃんですか? かわいいんでしょう?」
えっ、なんだこの具体的な質問の連射は。キジとかサビってなんだ? ネコの品種なんて知らないし、見た目だって黒と白、三毛しか区別できないんだけど。
せいぜいで写真見せてくれとかオスメスのどちらだとか、その程度の質問だと甘く見ていた俺は頭を抱えたくなった。明美ちゃんがこんなに猫に詳しいなんて。なんというか、とっさとはいえマズい嘘ついちまったなあ……
こっちの焦りなんぞ露知らず、明美ちゃんは目を真ん丸にして、答えるまでは逃すまじと覗きこんでくる。
絶句したまま途方に暮れていたとき、先輩ドライバーの太田さんが『広嶋、荷物積むぞ!』と荷物置き場から呼んでくれた。
渡りに舟と、俺はほうほうの体で逃げ出した。後ろで明美ちゃんがええーっと残念そうにしていたけど振りかえる度胸はなく、太田さんのところまで一気に駆けた。
再配達物が最終チェックを受けていて、俺の受け持ちの区域にも幾つかあった。
リストをざっと読み下して道順別に荷物を仕分けていると“伊井商事”の文字が視野に飛び込んで来て、虚を衝かれた俺の心臓が跳ねた。
『伊井商事 先物取引部第二課 土岐秀司様』という宛名で、差出人は同業の一菱商事。
手が止まった俺を見て、横にいた太田さんが宛先を読んだ。
「ああ、そいつな、昨日俺が伊井商事さんに行ったんだけど、内線電話がなかなか繋がらなかったんだ。部署内が出張でほとんど留守だってのを別の社員さんに聞いてな。本人も昨日は不在だとかで、結局持って帰ったんだよ」
それはそうですよ、太田さん。俺は心の中で呟いた。
だってこの土岐は――秀司は、俺と逢ってたんですから。
俺と逢うために、休んでくれたんです。
そうだったのか。部内の人たちは出張で大半が留守だったのか。
人手がいつにもまして足りなくて、それであんなに疲れていたんだ。やっと合点が行った。
それなのにあいつは約束を守って、来てくれた。俺が欲しいと一心に求めてくれた。
俺の名を呼び慣れるようになったあの声や、別れ際にこちらの袖を引っ張って、はにかみながらキスしてきた仕草が蘇る。
物思いに沈んでいる俺の頭の中身なんて当然知らない太田さんは、そいつは頼んだぞと割り振り、俺の担当欄にチェックした。
あいつに逢える――
そのことに嬉しくなる反面、自制心を保つパワーを探す破目になった。
仕事中とはいえ、まともに顔が合わせられないような気がする。まだ部署の人が出張中だとしたら、あいつが直接出てくるだろう。昨日の今日だから、俺、ぎこちなくなって話せないかも。
封筒を持ったままぐるぐると考えていたら、明美ちゃんがファイルを抱えて走りながら大声で叫んだ。
「広嶋さん、ネコちゃんの写真を今度携帯で見せて下さいね、約束ですよ!」
念を押し終えると満足したのか、小柄な制服姿でぱたぱたと事務所を出て行く。そんな彼女の後姿に太田さんは笑って、まだまだ若い女の子だから判らないんだろうよと、俺に意味ありげに横目を送る。
「そりゃ明美ちゃんは若いでしょう」
「そうじゃなくて、お前が昨日一緒にいたのは、はたして“動物のネコ”かってことだ。なあ広嶋、どうせ二本足で歩く綺麗なネコじゃないのか」
「!!」
まさに図星を指された俺は秀司当ての封筒を取り落としそうになり、あわてて空中でキャッチした。
恋人の存在を言い当てられた俺のうろたえように、太田さんが腹を抱えて大笑いする。五十近い大人には、若造の俺の取り繕いなんてお見通しなんだろう。
どうにか封筒を持ち直すと、明美ちゃんには黙っておいてやるよ、と太田さんはにやっとした。
「友達に借りた猫とか猫カフェとやらで適当に撮らせてもらえ。広嶋、女の子を騙す嘘はもっと上手に吐けるようにならないと、一人前の男とは言えないぞ」
「……精進します……」
先輩ドライバーの中でもこの人は特に人生経験が豊富で、頼りがいがある。太田さんに指摘されてもいちいちごもっともとしか言いようがなくて、謹んで拝聴するしかない。
頭を掻く俺に太田さんはもう一度笑うと、朝会が始まるぞと肩を叩いた。
※ ※ ※
伊井商事に回ったのは、昼前の十一時だった。
総務の近くにまずA4ペーパーやらの大きくて重い荷物を台車で運んで、そこから各部署に振り分けてもらうけど、先物取引や外国担当の部署はフロアがかなり上にあるから、それらには宅配業者側が内線電話を使って直接取りに来てもらう慣習ができている。
「いつもお世話になります。ありがとうございます」
総務の若いOLが出てきて受け取りサインをしてくれる。
挨拶して荷物を渡してから、上のフロアにそれぞれ電話を掛けた。ただ、先物取引部はギリギリまで伸ばして。でないと、二人で顔を合わせて固まったとき、別の部署の人が降りてきたらその場の空気が変だとすぐ気づくだろうし。
馴染みの人たちがそれぞれ現れて、サインと荷物の交換を繰り返してから、やっとあいつの部署の内線番号を呼び出した。
『はい、先物取引』
2コールしないうちに、抑揚のない声が応答する。
まぎれもない、秀司のそれだ。
「こちらペンギン運輸ですが、土岐様に一菱商事さんからお荷物が一個届いてます」
声が上がりそうになるのを抑え、事務的に口上を述べると、電話の向こうで息を呑む気配がする。
俺だと察したに違いない。
しばらくためらっていたようだったが、どうやら部署はまだまだ出張中で、交代要員がいないらしい。
『……すぐそちらに参ります、少々お待ち下さい』
電話を取ったときとは比べものにならない丁寧な声音で、あいつは通話を切った。
こことエレベーターホールは近い。これまでの経験から言っても、数分もしないうちに到着する。
俺の読み通り、あいつはすぐに現れた。就業時間内だからネクタイはなんとか跳ね上げていなくても、ワイシャツは腕捲りして、IDカードを下げた格好で。
「お世話になります、土岐です」
秀司は折目正しく挨拶して、サインのためのボールペンを取り出した。
やる気を出しさえすれば、この完璧な態度と応答。だよな。ちゃんと社員教育叩きこまれてるんだよな、お前だって。
いくら俺を意識してたからって半年前からのあの無愛想はないだろと今さら憤慨したくなるが、そんな素直じゃないところがこいつらしくて可愛いとも思えるんだから、惚れた欲目もここに極まれりだな。
つい顔が緩みそうになるのを、口元を引き締めて真顔を取りもどした。
通用口近くの、人の往来が激しいここでは“社員と出入りの業者”以上のそぶりは絶対に見せてはならない。
俺たちは緊張しつつも注意深い態度を保ちながら、荷物の受け渡しをした。
あいつの走り書きのサインを直接もらうのも久しぶりで、懐かしくなってしまう。
前はあんなにいけ好かない奴だって思っていたのに、仕事を離れたときの本当の秀司を沢山知った今では、親近感だけが俺の中に溢れていた。目を合わせると何をしでかしちまうか判らないし、俺はちょっと頭を下げてから踵を返したが、後ろから「あの」と秀司の声が掛かった。
振りかえると、ほんの数秒だけ言い淀んでから、秀司は思い切ったように口を開いた。
「――気をつけて」
安全に仕事をしてくれと、事故に遭ったりしないようにと。
他人からすれば表面的な、何気ない気遣いとしか取れないだろうけれど、あいつがそう祈りを籠めているのが俺にはひしひしと伝わって来た。
いつの間にそんなことを覚えたんだろうな、こいつは。最初は『ありがとう』のひとことすら言い辛そうだったのに。
きっと、心の底に流れる感情を言葉という形にすることを、俺との付き合いの中で少しずつ知ってくれているんだろう。まだまだ口下手だし、文句が減る兆候もないけど、俺には充分だった。
人目のあるここでは、答えるとしてもお定まりの挨拶しか言えない。それでは伝えきれないような気がして、ならばいっそ何も言わないほうがましだと、俺は帽子のひさしに右の指先を当てて頭を下げた。
多分、ちゃんと判ってくれたと思う。
秀司の唇が、ほんのすこし微笑んだから。
その笑顔に見送られながら、俺は次の配送先に向かうべく、玄関へと走って行った。
最初のコメントを投稿しよう!