雪の日に -おまけ編-

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 海の底から浮かび上がるように、自然と意識が戻った。    寝ぼけまなこで瞼を開いて、アパートとは似ても似つかない天井にまずびっくりして、それからほのかに明るい部屋に一気に目が覚めた。  この朝日、七時をとっくに過ぎてる。  ヤバい、遅刻だ!  布団を全部はぐる勢いで跳ね起きた俺は、床に足を下ろそうとして、待てよと気がついた。  サイドボードの携帯電話を確かめると、二十五日の七時半。  ……そうだ、ここは秀司のマンションで、今日と明日は休みなんだっけ。  ここ数週間は休みもほとんど取らず働いてきたせいで、身体は仕事モードになってて、切り替えが利かなくなってたようだ。    焦りが急に収まった俺は、あわてふためいた自分に苦笑した。  秀司を起こしちまったかなといまさら思い当たり、急いで傍を見下ろしても、いつもなら横で眠っているはずの姿はなくて、もぬけの殻。  シーツを探っても、温みが抜けている。  かなり前にベッドから出て行ったみたいだ。  あいつ、寝起きがいいほうじゃないくせに、休みの日のこんな朝早くからどこに行ってるんだろ?  暖房の設定温度を落とした部屋で、スウェットの上下だけじゃ寒いなと思いつつ首を傾げていると、音もなくドアが開いて秀司が入ってきた。ことの後でシャワーを浴び直したときにどうしてもこれを着ると言い張って、結局俺が袖を通させてやった、例のパジャマ姿だ。  てっきり俺は眠ったままだと思っていたんだろう、起きているのを見て、素直に驚いている。 「隆」 「そんな格好で何してるんだ、上に何も羽織らずに。寒いだろう、来いよ」 「うん……」  寒がりのわりにはすぐにベッドに戻る様子もなく、返事も歯切れが悪い。  引っ掛かることでもあるっていうのか? 「おい、どうしたんだ。そのままじゃ風邪引くぞ」 「……おまけ……」 「?」 「お前が言ってたおまけって、どこかなって思って――」  躊躇いがちに切り出された理由を聞くなり、俺は例のおまけをすっかり忘れていたことに思い至った。   なんてこった。  秀司が可愛かったから、そっちを食うことばかりに気を取られていた。  子供におみやげを渡すのを忘れていた親のような、至極申し訳ない気分になった俺は、すぐ答えた。 「リビングに俺のショルダーバッグがあるだろ、制服を入れてるバッグとは別の。それに入れてるんだ。俺が取ってくる、お前はこっちに戻ってろ」 「隆のバッグだね。いいよ、俺が持ってくるから」  宝物のありかを心得た足音が身軽にドアの向こうに消えたと思ったら、あっという間に戻ってきた。  ベッドの端に腰を下ろしてバッグの蓋に手を掛けると、目顔で『開けていいのか』と許可を求める。  いいから探してみろ、と促すと、秀司は早速ごそごそしはじめた。  部屋じゅうを探し回ってたっぽいのに、それでも俺のバッグは遠慮して触らなかったんだな。  いまさらそんなことに気を遣う仲でもないのに、ふとした時に現れる律儀な礼儀正しさが微笑ましい。    財布やハンカチ、ティッシュくらいしか入っていない中身をしきりに漁った秀司は、指先が何かを探り当てた、という顔つきになるなりお目当てを引っ張り出し、零れんばかりの笑顔になった。 「隆、これってあのケーキ屋のクッキーじゃないか」 「そうさ、店長の奥さんがくれたんだ。俺とお前にって」  秀司は綺麗にラッピングされた袋をためつすがめつ、感嘆しきりだった。 「すごい、クリスマス用のクッキーだ。これも限定物で、なかなか手に入らないんだぞ」  限定品を経営者から無料でゲットしてきた俺を、秀司は心底からの尊敬の眼差しで見つめる。  こういうことでしか尊敬してくれないのが寂しいけど、普段真面目に働いている成果が巡りめぐって返ってきたのだと思えば、それはそれで嬉しいことだ。  さすがに朝食も食べないうちから袋を開ける気にはならないようだ。サイドボードに丁寧に袋を並べてバッグを下ろした秀司の肩を、俺は抱き寄せた。 「ほら、戻れよ。寒いだろ」  毛布のあいだに隙間を作って誘ってやると、ようやく秀司もその通りにした。  俺も一緒に横になって、懐に潜りこんだ身体を腕で包みこむ。  しばらく起き上がっていた俺も意外と肩が冷えていたけど、秀司の全身はそれ以上に冷たかった。スリッパをぞんざいに突っかけたまま部屋をうろうろしていたせいで、脚先も驚くくらいひんやりしている。  俺の右腕を枕にして、腕を畳んで背を丸めているこいつが可哀想で、頬や髪を左手で撫でてやり、少しでも体温が移れば…と祈る思いで腕の力を強めると、目を閉じた秀司の口元が動いて、かすかな笑いを描いた。  ちょっとは身体が温まって、気が解れたのかな。  だといいけど。 「あったかい。隆の匂いだ……」 「ん?」 「隆が近くにいるって、判る。本当に俺の傍にいるって」  このマンションは隆の匂いがしないから嫌いだ。隆の家のほうがずっと好きだ――秀司はそう続けた。  俺が普段から暮らしている空間になら俺の気配が残っているからと。    開いた瞳にはにかんだ光を浮かべて、何のてらいもなく言い切った本人は、自分がどんな台詞を吐いたかまったく判ってなくて、身体ごとこちらにぎゅっと抱きついてくる。  どうしてこいつは、こうなんだろう。  手管も駆けひきも一切ない、真っ直ぐすぎる心に勝てるものなんてこの世にはないんだ。  適当なその場しのぎで好きになってもらおうだとか、媚を売ろうだとか、そういう底意が全然ないからこそ、秀司の言葉は俺の心の奥まで最短距離で届くんだよな……  俺の家にしょっちゅう来ていた理由がようやく判ったとき、溢れたのはただ、胸が詰まるような愛おしさだけだった。  こんなに、可愛い。絶対に、手離したくない。  どうすればいいか判らないくらいに、秀司が好きでたまらない。  将来、こいつ以外の誰かをパートナーに選ぶ自分がまったく想像できなかった。  俺はきっと、秀司のことを一生好きで居つづけるんだろう。不思議だけど、そういう確信があった。  今の社会では、男同士の関係に保証なんてないも同然だし、秀司もいつかは俺以外の誰かを選ぶかもしれない。もっとこいつにふさわしい、家も育ちも同レベルの人が――異性か同性かは判らないけど――現れる可能性は充分あるんだし。  けれど、それでも。  俺はこいつさえ倖せなら、それで良いんだ。  こんな風に、明るい笑顔を浮かべることができるのなら。    頬に、軽くキスを落とした。吸い寄せられるように唇同士が近付き、舌を深く絡めあった。 「隆、後であのコート、着てみてくれよな」 「もちろんだ。初詣だって、あれを着て行くつもりだからな」 「本当に?」  互いを抱き締めては息を継ぐキスの合間に、綴るともなく綴られる会話。それぞれの服越しに躯の再燃を知ってからは、口調がさらに低くなる。 「どこの神社にお参りに行こうかな……隆は、どこがいい?」 「神社ならどこでも同じ気はするけどな」  パジャマを脱がせながら俺が笑うと、秀司もこちらのスウェットに手を掛けて微笑んだ。 「じゃ、今度は明治神宮。毎年同じじゃつまらないし、来年は別の場所にしよう。その次はまた別の神社にすれば、毎年飽きないよ」 「一年に一度ずつ変更か。それも悪くないな」  世間知らずなこの子鴨が都内の初詣になんて行ったらどうなるか、想像するまでもない。  壮絶な人ごみの中ではぐれないよう、きっちり腕を掴んで警護しなくちゃな。  心の裡で固く決意しつつ二人ぶんの服を床に落とした俺は、いい匂いのする秀司の肌に貪りついた。  鎖骨を軽く噛んだだけで白い喉が反って、俺の髪にほそい指が差し込まれる。たった数時間前まで重ねていた身体には準備も要らないし、焦る必要もない。  俺たちはゆっくりと熱を高めあいながら、休日の朝を味わい続けた。  クリスマスにこうやって二人きりで過ごし、贈り物をもらえたことももちろん嬉しい。  けれど俺の傍が好きだと断言してくれた心が、来年もその先も約束してくれた言葉が、俺には何よりのクリスマスプレゼントとなった。  お前が俺と一緒にいたいと願っているかぎり、俺はお前の傍から離れない。何があっても。  その意志をこめて、秀司のくちびるに強く口付けた。  これから毎年巡ってくる聖夜も、俺の、俺だけの可愛い雛鳥と、この言葉を交わそう。  メリークリスマス。
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