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会社の帰りにコンビニ窓口に荷物を預けるビジネスマンはわりと多い。
俺たちの集荷は時間が決まっている。急がない封筒一個とかなら、帰りに預けるほうが楽なわけだ。俺もそういう荷物をこいつが抱えてたら、ついでだから持って帰ってやるつもりだった。
そうしたらこいつは、ためらう風に地面に視線を落としてから、意を決したように顔を上げ、助手席のドアを開けた。
てっきり鞄を開いて荷物を手渡してくると思っていたら、なんと本人がいきなり乗り込んで来た。疲れてそうなわりには身軽な動きでステップに足を掛けるなり、どっかと隣に腰を下ろす。
ちょっと待て、玄関を開けたら入りこむ野良猫かっての。何がしたいんだこいつは。
唖然としている俺を尻目に、エリート殿はいけしゃあしゃあと口を開いた。
「家は赤坂六丁目のマンションだ、そこまで行ってくれ、広嶋君」
「はい?」
俺は助手席に“当然”という顔で座っている男を眺めた。
こいつどうして俺の名前知ってんだ?
いやそれよりもっと大きな問題がある。
冷静さを保とうと努力しながら、俺は口を開いた。
「あんた、これが何だか判ってんのか」
「何が」
「外の『ペンギン宅急便』てのが見えないか?」
「ああ、あれね……センス絶無なネーミングだな」
会長の趣味にいちいちケチつけなくてもいいだろと反論し掛けて、止めた。
思いきり焦点ずらされてるじゃないかよ。
俺はハンドルをぱんと平手で叩きながら言った。
「違う、これは宅配便のトラックで、タクシーじゃねえってことだよ。荷物を運んでやるとは言ったが、あんたを運ぶとは表現してないぞ」
営業の顔を忘れて地を出した俺が声を上げても、奴はフレーム無しの眼鏡をつと持ち上げながら、平然と答えやがった。
「ならナマモノを運んでいると思えばいい、所詮タクシーだって人の宅配便だしな」
ナマモノなんて大人しいタマかよと咄嗟に言い掛けるも、どんな切り返しが来るか判ったものではないと本能的に察知した俺は、なら後ろの冷凍庫に入れてやろうかと応じるに留まった。
それを聞いて奴が抜かしたのが「ちっとも冗談の通じない奴だな」だ。
何を間違ってもこいつにだけは言われたくないセリフだ。
こいつのどこが疲れているように見えたのか、今から考えたら自分の目が不思議なくらいだ。結構元気があるじゃないか。仏心を出した自分が我ながら情けなくなる。
でもまあ、仕方がない。これも乗りかかった船ってやつだ。この厄介な大荷物を送り届けるだけ送り届けよう。一応『宅配』のプロだからな。
今度こそエンジンを掛けて、赤坂六丁目のどこらへんだと聞いた。
「アメリカ大使館側」
ならここから数分も掛からない。近所で適当に下ろそう。
ライトを付けて車線に入った俺は正面を見て運転しながら、なんで俺の名前を知っているんだと尋ねてみた。
得られた回答は簡潔明瞭極まりないものだった。
「トラックの横に『運転手 広嶋隆介』ってプレートが貼られている。それに名札も付けているだろう。俺は前々からちゃんと名前を知っていたよ」
ああ、そうだった。トラックにはひとりひとりの運転手の名札が貼られているんだった。馴れ過ぎてて忘れていた。
安全運転と宅配に責任を持つようにとの会長のポリシーで、全国のトラックすべてにきちんと明記されているのだ。しかも灰色と黒の上着にも小さいけど名札が付いている。俺たちを意にも介さない人なら気付かなくとも、注意深い人間なら、名札にも目を止めるだろう。
この土岐という男――せっかく俺の名前を覚えてくれてたんだから、こっちも名前で呼ぶけれど――は、粗雑で冷たいようで、細かいところにも注意深いんだなと、少し意外な気がして、そして嬉しくなった。俺たちが顧客の名前を覚えるのは当たり前でも、お客側が俺たちの名前を覚えてくれてるなんて、案外ないんだ。
こんな些細なことで気を良くする自分をつくづく単純だと思う時もある。だけど「些細ないいこと」が一個さえあればその一日に充分満足できるという自分の性質を、悪いとは考えていない。人生、そうそう「大きないいこと」なんてあるわけない。小さなことに満足出来なきゃ、毎日不満だらけで過ごすことになるじゃないか。そういうのはつまらない。
要は俺という人間は、お人よしに楽観主義者がプラスされて二で割ったようなものなのだ。
「あ、ここでいい」
指示に従って、俺は路肩にトラックを寄せて停めた。
土岐がポケットを探っている。礼は要らないと先に言ってやった。取る気も元々なかったし、本業でもないのだから違反になっちまう。
俺が断るとこいつはちょっぴり済まなそうな顔になったが、すぐに無表情に戻った。
フロントガラス一枚隔てた夜の空気の向こうには、見渡す限り立ち並ぶ頑丈そうな建物やら公共施設の数々。この近所は高級建造物が並ぶ界隈だ。さすが高給取り、住む所からして違う。
だけど車の中での威勢の良さはどこへやら、ドアを開けて地面に軽く飛び降りたこいつの背中は、最初に目が合った時に逆戻りしたように勢いがなくなっていた。車から降りるのも、家に帰るのも嫌だと言わんばかりに。
普通、土岐みたいに一流会社に勤めてバリバリ仕事をこなしている男なら、学歴だって高いし頭もいい。傍から見たら肩で風を切って歩いて、地位も金も思うまま、順風満帆の人生を送ってますって見せ付けてそうなものなのに、こいつは現状にまったく満足してないみたいで、むしろ不幸せにすら映る。
何だか、こいつが可哀想になって来た。
格好が無頓着すぎるしどう見ても独身者だから、家庭が上手く行ってなくてむしゃくしゃしているとかじゃないな。
忙し過ぎて何もかもが嫌になっているのかも。
土岐は俺を見上げて何か言いたそうにしていた。でも一向に形になる様子がない。無言で促すと、ようやく口を開いた。
「ありがとう」
言い慣れてなさそうな口調だ。
俺なんか四六時中言ってるから、考えるより先に口から飛び出す単語だのに。
礼のひとつもろくに言えないのって、やっぱり虚しい人生だと思うぞ。
土岐がドアを閉めようとする直前、俺は言ってやった。
「あんま無理すんなよ」
そこまで疲れる何があったのかは知らないけど、無理ばっかりしちゃ駄目だぞという意味を籠めて、軽く掛けた言葉だった。
通りすがりの宅配便の兄ちゃんにそんなことを言われるとは思ってもなかったんだろう、こいつはびっくりしたように目を見開いて、それからちいさく笑った。
「うん」
はにかむような、でも素直な笑顔だった。
おい、そんな可愛い顔もしようと思ったら出来るんじゃないか。
こっちの方がびっくりして、土岐の後姿をしばらく見送る破目になってしまった。
天地がひっくり返るくらいに予想外だったからなのか、あいつの笑顔は俺の奥底にずんと響いた。心臓がどきりと鳴って、しばらくは治まらなかったほどに。
いつも眼鏡をしていたのと、仏頂面だから全然判らなかったけど、あいつ、いい顔立ちしている。笑った顔をはじめて目にして、やっとそのことを知った。角を付き合わせるくらい会ってたくせに、少しも気付かなかった。
男らしい格好いい系のハンサムなんじゃなくて、年上の女性にモテそうな、きれいに整った童顔系だ。
そうか、頭も小さいからスタイルも垢抜けて見えていたんだ。俺みたいに180センチを簡単に超えるいかつい大男とはまったく違う。
……やっぱり狡いくらい、何もかもに恵まれてるじゃないか。
なのにどうしてあんなに詰まらなさそうなんだ。
人生の楽しみなんて全然知らないような、いつも同じ無愛想で無表情な能面。あれで人を遠ざけて損している面は大きいはずだ。さっきみたいな笑顔をしょっちゅう見せたらずいぶん違うと思うのに、もったいない。
それとも神様が二物も三物も与えつつも、そうやって天秤の傾きを公平にしているものなのかな?
なら俺はエリートじゃなくても、単純で幸せな今の人生の方がずっといい。
土岐の沈みがちな様子は少し引っかかったままだったが、それよりも思い掛けない笑顔にすっかり心が解れてしまった俺は、今度こそ集荷センターを目指しつつ、晩メシには24時間営業のハンバーガーショップで一番高いセットを買おうと決めていた。
あれこれ頼んでたら軽く千円超えるけど、それくらいいいだろう。
明日は休みなんだし、自分へのご褒美だ。
今日は何だか、とてもいい一日だった。
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