七夕

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七夕

 子供や学生のころは、夏休みや冬休みで季節の移り変わりを実感していた。  でも社会人になってからは、そんな長期休暇なんてものはありやしないから、仕事のスケジュールが暦の基準になる。    七月に入ったところで、俺にとっては中元シーズンの到来という、ただそれだけ。  集荷や配達に回る途中の商店街で笹や吹き流しが飾られているのを見て『あー、そういやそうだったっけ』と気がつく程度だった。  七の数字がやっと揃った今日でさえ、カレンダーと宅配伝票の日付は記号と同じで、いつものようにあわただしい普通の一日にすぎなかったし、いつものようにひとりでメシを食って、ひとりで寝るはずだった。    それが、夜も九時を過ぎてからいきなり『今からそっちに行く』と秀司から連絡が入ったもんだから、俺は送信元の間違いじゃないかと首をひねり、携帯の通知を三回見なおした。  でも何度見なおしても間違いじゃなさそうで、急いで仕事を終わらせてアパートに戻ってみれば、二枚の葉っぱがかろうじて付いた笹の枝がテーブルの上にあったから、もっと驚いてしまった。 ※ ※ ※  なにしろこの季節、俺も秀司も汗を掻いている。  風呂のあとに夕食というプロセスを終わらせて、ようやくリビングに腰を落ち着けた。    笹の入手先は、会社の食堂なんだそうだ。  二日前から飾られてたらしく、今日の昼食が終わったあとで職員に丸ごと処分されかかっていたのを、小枝を折り取ってもらってきたらしい。  今日ここに来た理由は笹を見た段階で判っていたし、俺は黙って秀司の行動を見守ることにした。  予想どおり小枝との格闘を最優先にしたこいつは、ウーロン茶を啜る俺なんぞに構うこともなく、せっせと作業に入った。  半袖にハーフパンツのルームウェアを着た秀司の襟足は、冬のときとまるきり変わらないというか、半袖が藍色だからよけい白く見える。  そりゃあのでかいオフィスビルでずっと過ごしてて日焼けなんかするわけないし、当たり前なんだけどさ。  でもなあ、ルームウェアってのはゆったりした襟元が基本なのは判ってても、肩に続くラインまで見えてしまう際どさは目の毒にもなるわけで。  俺は茶を飲みながらあわてて目を逸らした。  が、当の本人はといえばこっちの狼狽なんて知る由もなく、花瓶なんてシャレた代物のない俺の部屋に眉をひそめ、仕方なくガラスのコップを代用品にして笹を立てることに専念している。 「隆、短冊ないのか」  せめてそれくらいあるよな、と言わんばかりに顔を上げる秀司のひややかな視線。  花瓶がない部屋に、そんな用意周到かつ風流な品があるわけがないってば。まして家族持ちでもない、独身男のアパートなんだぞ。あったら奇跡ってか、妻子の存在を疑われるレベルじゃないのか?  手を左右に振ると、それはそれは盛大な呆れ顔が返ってきた。 「本当に何もないな、お前の部屋」 「いまさらだろ」 「こんなことなら、コンビニで買ってくるんだった」  花火を並べてるコンビニはいくつか知ってるけど、短冊はさすがにないんじゃないのか。  内心ひとりごちたものの、声でまで突っ込むのはやめておいた。  秀司は小声で独り文句を垂れながら、それでもメモ用紙を短冊に切り、引き出しに転がっていた裁縫用の糸を通して二枚分をちゃんと吊るし終えた。  風鈴みたいに音がするわけでもないのに、クーラーの風にそよそよと翻る短冊がいかにも涼しげだ。急場しのぎとはいえ、これはこれで風情があっていいな。  白紙のままでいいのかと思わず訊ねると、『隆は書きたいのか?』と逆に問い返されてしまった。 「いや、特に何があるってワケじゃないけどさ。白いままってのも落ち着かなくないか」 「なら書けよ、ペンならあるよ」 「お前の方こそないのか、せっかく会社でもらって来たんだろ」 「隆に笹を見せたかったから、いいんだ」  首を振って、俺の右隣に移動する。  風呂に入りたての身体から香る、秀司の肌の匂い。  俺と同じボディーソープとシャンプー使ってるはずなのに、別の品物じゃないかと錯覚してしまうくらい、いい匂いだ。  抱きよせても抗わないのをいいことに、頬から唇へと触れるだけの軽いキスをつい落としてしまって、じきに後悔した。   湯の火照りが残る秀司の肌は吸いつくようで、耳を擽る吐息と一緒に俺の不埒な思惑をこれでもかと刺激してきて、ちょっと、というよりもかなりまずい状態になってきたんだ。   明日はどっちも仕事なのに、ヤバい。何もしないままでは寝られそうになくなってきた。  耐えろ、俺。ここは理性総動員で乗り切れ。 「願いごと、本当に何もないのか? お前のを読んでも、誰にも言わないぞ」  ディープキスをしたいのをぐっと堪え、自分の気を紛らわせるために質問を重ねてみたら、秀司のうなじにみるみるうちに血が上った。どうやら図星を射たらしい。 「なんだ秀司、内緒の願いごとがあったんだな」 「………」  からかうと、俺の肩に頬を擦りつけて、表情を隠しちまった。  笹の葉まで持ってきたくせに、そんなに秘密にしなくてもいいのにな。照れて隠そうとする仕草がもう、可愛い。すごく可愛いんだけど、うん、近付かれすぎると今はまずいんだよな……  反射的に背中を抱こうとしたもう片方の腕を宙に浮かせて必死に我慢していると、恥ずかしいから、と呟くちいさな声に追い打ちを掛けられてしまった。 「恥ずかしい?」 「うん」  「水くさいな。俺にも見せられないって」 「……隆だから」 「ん」 「隆だから、見せられない。笑われるから」  言ったきり、俺の胴に抱きつく。  一心に助けを求めるような、そんな縋りつき方をされて、何もせずじっとしているなんて出来るわけがなくて。  俺だから見せたくないと口ごもる秀司の願いごとが何なのか、おぼろげながら推測がついてしまったから、なおさらだった。  ついに俺も秀司を両腕で抱き返して、懐に全身を受けとめた。  最後までしなきゃいいんだと自分に言い聞かせ、今度は舌ごと奪うキスを仕掛けて、そして上体を床にゆっくりと押し倒す。  左腕に秀司の頭を抱えて貪るようにキスを続ける。  秀司も俺に掴まりながらしっかりと応え、息を継ぐ合間に身を震わせる。  長い睫を伏せた表情が扇情的で、俺の腰の奥がさらに重くなった。 「――俺もな、本当は願いごとがあるんだ、秀司」 「隆に、も?」 「ああ。毎日毎日、そればっかり考えているから、短冊に書くなんて思いもつかなかった願いごとだ」  多分、お前と同じ中身だ。  続けて耳打ちすると、潤んだ眸が開いて、にっこりと微笑んだ。  俺の言いたいことが、こいつにも伝わったのだろう。    それは秀司の羞恥心をとりのぞくための嘘じゃなくて、俺の本心だった。  一秒だって手離したくないほどに、傍にいたい。  ずっと見つめていたい。  好きな相手がいるからこそ、毎日思わずにはいられない、ささやかで強い願い。  俺と同じその願いを秀司も思ってくれていたというのが、心底嬉しかった。  文章に書くのが恥ずかしいと隠そうとする子供らしさが、いとおしかった。  短冊に何も書かなくて、正解だったのかもしれない。俺たちの願いは、あんな小さな紙にとうてい書き切れる量じゃないんだ。  白紙の紙面に、かえってすべてが表されている気さえした。 「来年は、俺が笹を買ってきてやるよ。ちゃんと短冊もつけてな」  約束に秀司が嬉しそうに頷くのを確かめたあとで、右手を腰に滑らせた。  ――大人しく寝られそうにないのは、俺だけじゃなかった。  ハーフパンツの裾が捲れて白い腿が露になってしまっているのを、これ幸いと撫であげる。こいつが弱い内腿と裏側をそうっと擦ったら、あっという声と同時にびくんと躯が跳ねて、そのかわいい敏感さに俺はもう限界近くなっちまった。  明日も俺たち仕事だし、少しだけな。  荒くなる息の下でそう言うと、手の甲で自分の口元を押さえた秀司が、真っ赤な顔でうなずいてくれたのだった。
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