昼下がり

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昼下がり

 入道雲を照りつける太陽がアスファルトを炙り、蝉の鳴き声が響きわたる日曜日の昼下がり。  そよそよと涼しい扇風機の風を受けながら、俺は黙って目の前の空間を眺めていた。  クーラーとこの扇風機のおかげでアパートの中は嘘みたいに過ごしやすいのに、流れる沈黙が、なんともいえない重苦しさを醸しだしている。    秀司はいちおう一緒にいるんだが、仲良くしてくれるどころか、ベッドにもたれて床に足を投げ出した俺の右腿に頭を乗せ、枕にしていた。  ただし顔は爪先の方、つまりこちらに背を向けた姿勢で、だ。  そして眠ってなんかいないのは、机に置きっぱなしのスマホを見るまでもなく、気配で充分に察しとれる。  背もたれ代わりに尻とベッドの間に挟んだクッションは体温を吸って暑いし、秀司が膝枕をしている場所も、ハーフパンツの布地が熱くなっている。いくら頭が小さいっていっても成人男性の頭部はそれなりに重くて、俺の右脚は痺れる寸前だった。 「おい、そろそろ機嫌直せよ。悪かったよ、秀司」 「………」  この膠着状態になってから、もう十五分は経ったぞ。  せっかくの休日だってのに、長時間だんまりを決めこまれるのも、いいかげん辛いものがある。 「なあ。悪かったってば」  だから、何か喋ってくれよ。頼むから。  そう心の中で懇願しても、秀司はますますTシャツの背中を丸め、頬を俺のハーフパンツに押しつけるだけだ。  こいつの機嫌をここまで損ねてしまうとは思いもよらなかった俺は、二日前の自分の軽率な行動を悔やむと同時に、なかなか怒りを解いてくれない様子に溜息を漏らしてしまった。  ――ケンカのきっかけは、本当に大したものではなかった。    お中元にもらったと言ってお袋が転送してきたアイスクリームのセットが冷凍庫にあって、秀司がここに来るたびにおやつにしていたんだが、最後に残っていたラムレーズン味を、暑さに負けた俺が週の半ばについ食っちまったんだ。  後回しにされたってことは秀司の好みじゃなかったのかなと判断したのもあったし、またすぐにどこかで買って来ればいいとタカを括ったのもあった。そして仕事の忙しさにかまけて補充をうっかり忘れたまま週末を迎え、一番好みだから残していたのにと嘆いた秀司が、こうやって拗ね続けているというワケだ。    冷凍庫を開けて『あれ……ラムレーズンが、ない?』と声を上げて俺を振り向いた秀司の、なんともいえない悲しそうな顔。  俺は最初意味が判らず、冷凍庫の引き出しと秀司の表情をかわるがわる見比べて、瞬時に合点が行って。  背筋に氷水を流されたように凍りつくなり、両手を合わせて謝り倒した。 『マジですまん秀司、俺が食っちまって、追加を買ってなかった!』 『えっ、食べちゃったって、そんな……』  すぐ買いに行くと申し出たんだけど、俺よりもアイスをヒエラルキーの上位に置いている秀司がその程度で簡単に許してくれるはずもなく。  で、こういう状態のままなんだ。    俺に本気で激怒してたり完全に無視したいなら、いつまでもここに居ないで自分のマンションにさっさと帰ると思うんだ。  ところが膝枕の顔をこっちに向けないという行動でご機嫌ななめを一生懸命主張するあたりが、なんだかんだいって寂しがり屋で甘えたな一面を垣間見せていて、可愛いと感じこそすれ、怒りは湧かない。  俺もずいぶん甘いな。  そういえば、大昔にも似たようなことがあったっけか。  まだ小学生だったころ、冷蔵庫に置いていたプリンを二歳年下の弟に食べられちまって、大喧嘩したんだ。  お袋には『新しいのを買って来てあげるから仲直りしなさい!』と叱られたが、俺は『そうじゃない』と主張して、なかなか納得しなかった。  別に、新しいプリンが欲しくて弟に喧嘩を売ったわけじゃない。  ただ、とても楽しみにしていたものを唐突に取られてしまったことや、欲しいと望んでいたタイミングで手に入らなかったのが無性に悔しかったんだよなあ。  そこまで思い出して、俺は思わず笑ってしまった。  食い物の恨みは深いとよく云うけど、ガキのころのことをいまだに細かく覚えている自分におかしくなっちまったんだ。    たぶん、秀司もあのときの俺と同じ気持ちだったんだろう。  最後に取っておくほど楽しみにしていたからこそ、失望の反動も大きかったはずだ。  メシよりもおやつを優先する奴じゃあるが、記憶を探ってみれば、たしかに好きな品目ほど順番を後回しにしていたし。  それにしても二十代の社会人同士だっていうのに、喧嘩のレベルが小学生並みっていうのもどうなんだか。 「秀司、ほら」 「………」 「こっち向けよ。な、謝るから」 「……もともとお前のものだから、文句を言う筋合いじゃないのは判ってたんだ」 「ん?」  俺の膝に陣取ってからはじめて口を開いた秀司の台詞に、耳を傾けてやる。  やわらかな髪を右手で梳いて促すと、訥々と説明が続いた。   「でも、お前はめったにアイス食べないし。てっきり冷凍庫にまだあるって思ってたから――」 「済まなかったよ。俺も考えが足りなかったな」 「ううん、俺こそ」  秀司は寝返りを打って身体の向きを変えた。  見下ろしている俺と、目が合う。  俺の腿に乗せて赤くなった左頬も指先で撫でると、秀司の掌が手の甲を覆った。  荷物を運びなれた俺と違い、デスクワークが中心のこいつの手は色が白くて、細くて、とても綺麗だ。  比べ物にならないくらい骨が太くてごつごつした俺の手を、けれど秀司は好きだと言う。抱き締めたり、頭を撫でてやるたびに、ちいさな花の蕾が開くような可愛い笑顔で俺に抱きついてくる。  今も同じで、俺の指に自分のそれを絡めて放そうとしない。  俺は腕をそっと脇に下ろした。こうすればどちらの手も床に乗るから、いつまでも繋いだままでいられる。 「俺も悪かったよ……ごめんな、隆」  あんなに仏頂面をしていたくせに、素直すぎるのも考えものだ。もともとこっちには済まないという気持ちこそあれ怒りなんてなかったのだから、気分が普段通りになるどころか、骨抜きになるじゃないか。   「今度からはちゃんと、アイス食う前に電話で確認取るよ」 「いいよ、そこまでしなくても。好きなだけ食べてくれ」    俺がわざと大袈裟な提案を持ち出すと、秀司はくすくす笑った。すっかりご機嫌が直っている。  矛先を収めるということは一応判ってはいても、それをどういうタイミングで形にするのかということはまったく知らないのがこいつだ。俺の方から手を差し伸べてやらなければ、そっぽを向いたまま、いつまでも一人でぐるぐるしていたに違いない。そんなところもこいつらしくて、可愛くて仕方がない。    秀司は頭を置き直して寝心地を整え、俺の指に自分のそれを絡めたまま目を閉じた。  拗ねて横になっているうちに、食欲よりも眠気が先になったようだ。 「おい、昼寝するのか?」 「うん」  何とも嬉しそうな表情で答えたと思ったら、はや寝息を立て始めている。  うーん、もう右足の痺れは限界近いんだけどな……  まあいいか。いまさら止めたって、ここまで来りゃ痺れ具合は同じだ。俺は好きなようにさせることにした。  こいつの子供みたいな寝顔を見てしまっては、どうにもならない。完全に寝入ったところでクッションに枕を交代させようかとも一瞬考えたが、秀司の手はしっかりと俺に縋っていて、身じろぎすれば目が覚めちまう。  ――仕方ないな、こりゃ。  このまま俺も昼寝するしかないか。十分か二十分もすれば、こいつも起きるだろうし。  ベッドのマットレスに後頭部を預けて瞼を下ろすと、蝉の声がはっきりと聞こえてきた。  夕方まで止む気配もない、元気な合唱。  夏の終わりは、まだまだ先のことらしい。
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