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金木犀
ふっと頬をかすめる肌寒さに、目が覚めた。
隣に寝ていたはずの秀司が、いない……?
でも、理由はすぐに判った。
インナーシャツとスウェット姿の秀司はベッドの右側にある腰高窓を開けて、外を眺めていた。シーツに膝立ちになって、窓枠に肘を突いて。
こんな住宅街で深夜を回れば外は街灯と星明かりしかないのに、いったい何を熱心に眺めているんだろ?
首を傾げていると、夜風に乗った薫りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「秀司」
「あ、ごめん隆。起こしたな」
「どうしたんだ、窓なんか開けて」
小声で訊ねながらも、何となく見当はついた。窓とカーテンを閉めて戻ってきた秀司を、腕に抱き寄せる。答えはやっぱり、思っていたとおりのものだった。
「いい匂いがしていたから、つい」
「金木犀か……もうそんな季節なんだな」
そういえば郊外の商店街の集配に回っていたときも、と思い出した。
毎年毎年、どこからともなく漂ってくるその薫りを嗅ぐたびに、秋が一段と深くなったなと感じる。そして一年が過ぎる早さをしみじみと実感する。
子供のころって、やたら一日一日が長かったよな。
小学生時代は毎日遊んで食ってばかりで、まだ夏休みが来ない、まだ正月が来ない、お年玉はまだか……とかったるいほどに時間がゆっくり過ぎて行ってた。
それが中学、高校、大学とあわただしく過ぎてゆくようになって、社会人になるとさらに加速。
新年おめでとうなんて挨拶してるあいだに正月休みが終わって新年度が始まって、あっという間に一年の半分が過ぎて、盆を超えて気がついたらもう師走ってサイクルだ。
そういう早送りの日常のなかで、確実に季節を教えて俺を立ち止まらせてくれるもののひとつが、金木犀だった。
「金木犀が好きなのか」
「ああ。隆は?」
「俺もだ。実家に樹もあるぞ」
「ふふ……」
秀司が安心したように顔を綻ばせて、俺の首筋に腕を回した。
匂いの好き嫌いなんてものは、意外と千差万別。そんな些細なことでも、こいつと好みが同じであることが嬉しかった。秀司もそう思っているのが、穏やかな笑みひとつで伝わってくる。
薄手の掛け布団の下で唇を重ねながら、秀司をゆっくりとシーツに組みふせた。
絡みつく柔らかな舌を飴を転がすように舐めあげて、インナーシャツをたくし上げてスウェットも剥ぎ取った。俺の中でまた高まりつつある欲情の強さを知った秀司が、息を呑む気配がする。
俺が悪いんじゃない、金木犀のせいだ。
濃密な薫りを、お前が窓を開けて俺に教えたから――心の奥でそうつぶやいて、自分もシャツを脱いだ。
媚薬なんてものがあるのだとしたら、今夜の金木犀は俺たちにとってまさにそれだった。
まるで理性を侵されたかのように、甘い匂いに誘われるままにふたりで溺れていった。
アパートの隣近所を憚ってベッドの軋みに気を遣いながらも、求め合うのを止められない。
秀司の温かな掌が背筋を撫で下ろし、形にならないほどの小さな声が俺を呼ぶ。
首筋に何度もキスをしてから、まだ弾力を残したままの胸元を舌先でからかうと、長い吐息が聞こえた。子供をあやすように俺の髪に指を通しては滑らせる動きが、大きく深呼吸しても止まらない喘ぎが、秀司がどんな心地の中にいるかを教えてくれる。
もう、一秒も待てなかった。
まとわりつくような薫りに導かれるままに秀司の膝を開かせて、ひとつになった。
「っ……隆……」
反射的に漏れた呼びかけを、とっさに秀司が手で塞ぐ。
奥歯を噛み締めてやみくもに動かないようにしても、やんわりと俺を包んで締めつけてくる秀司の身体に、そんな自制心なんていつまでも持てるわけがなくて。
我を忘れて暴走する寸前で、俺はようやく腰を進めはじめた。
音を立てないための緩やかな動きが、声を耐えなければならない制約が、逆にのっぴきならないところまで俺たちを追いつめる。啜り泣きを漏らす秀司は俺の肩に額を押しつけて、少しでも声を抑えようとしている。
こいつの甘い息が躯に掛かるだけで達しそうなのに、奥を探るたびに熱い襞にぴったりと包まれて、頭が狂いそうになる。
あくまでゆっくりと、けれど肌を伝う汗の行き場がないほどに縺れあいながら互いを抱き締め、背筋が蕩ける快楽を貪るうちに、今の自分がどこに居るのかさえもよく判らなくなった。
淫らに舌を舐めてキスを繰りかえして、濡れた肌も躯も融けこませるように深く深く交わりあって。
一気に火を掻き立てるのではなく、少しずつ熾し広げてゆくように。
頻繁に逢えないせいでいつもはせっかちになってしまうのに、今夜は違うのは、すでに一度終わっているからか?
いいや、やっぱりこれも金木犀の効力だよな。
でなけきゃ俺も、秀司も、こんなに狂ってしまうはずがない。
性急なことも、刺激を強めるようなことも、何もしていないのに、この痺れるような悦楽を早く昇華したい焦りが溢れて止まらないなんて、こんなことが――
「秀司……」
掠れ声で囁くと、眉根を寄せていた秀司が、焦点の合わない瞳を開いた。
答えようとして、くちびるがわずかに動くのが見える。俺の背と腰に回されていた手足から力が抜けかけていた。こいつも限界に来ているのは間違いない。
布団を跳ねのけたいほどの暑さも、ベッドの音も、声も、どうでもよくなった。
ふたりきりでしか辿り着けないあの頂点に向かって、駆け上がる。
俺に縋りついて喉を反らした秀司の艶めかしい叫びを、唇で吸い取った。それに引きずられた俺が、やや遅れて続いた。
秀司がこまかく肌を震わせたまま、俺の下でぐったりと横たわる。
俺もこいつも、しばらくは口が利けなかった。
※ ※ ※
「……隆」
シャワーを浴びても収まらなかった火照りがやっと引きはじめ、夜の涼しさを感じるようになったころ、秀司が呟いた。
「どうした」
「金木犀、どこで咲いてるんだろうな」
「うーん、ここに住んでだいぶ経つけど、俺も本体を見たことはないな……多分遠いと思うぞ、匂いがそんなに強くないから」
「そうだね……でも、本当にいい匂いだった」
「明日、メシの帰りに近所を散歩してみるか。どこかで見つかるかも知れないし」
「うん」
髪をそっと撫でてやると、口元にあどけない笑みが描かれる。とっくに窓を閉めてるってのに、部屋の中に残り香が漂っている気がするのが不思議だった。きっと、さっきの記憶がそうさせているに違いない。
細い躯を両腕で掴まえ、頬やこめかみにキスを落とした。
睫を伏せて受けとめるときのこいつの表情は、安心しきっていて本当に可愛い。
さらさらと滑るようなあたたかい肌と触れあうときはいつも、こいつへのいとおしさを痛感する。
どんな我儘だって、どんな無理だって、秀司の願うことなら何でも聞いてやりたい。俺の懐に潜り込まないと深く眠れないという大切な雛鳥のためなら、俺はなにも惜しくないから。
明日は寝坊してもいいんだし、もう寝ろ。
そう促すと秀司は素直にうなずいて、俺の手を握って枕に頬を埋めた。返事代わりのキスを唇にひとつ、俺に贈ってから。
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