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冬のお買いもの
秀司が自分のマンションで珍しくコーヒーを淹れようとしたのは、十二月初旬の日曜日。
とはいえ、四角いコーヒーメーカーにコーヒーの素をセットするだけで、直接ドリップするわけじゃない。
リビングのソファでスマホのネットニュースを適当に流し読みしていた俺の耳に、「あ」という声が届いた。
「どうした、ヤケドでもしたか」
急いで立ち上がって台所まで行ってみたら、秀司は口をへの字に曲げて「カートリッジがない」と呟いた。
この器械は専用の豆が必要なタイプだってことは、前に一連の作業を見ていたから俺もいちおう知っている。在庫を確かめずに淹れ続けていたら、いつの間にかなくなってたんだろう。いかにも日常に無頓着なこいつらしい。
ケーキを食べるためにいざコーヒーをと勇み立っていたのに、空の箱を眺めてしょげきっている様子はあんまり可哀想で、もう夕方近くなっていたけども、外に出るかと誘ってみた。
「まだ店は開いてるんだろ。一緒に買いに行こうか」
「いいのか? だって家に帰るんだろ?」
遅くならないか、と心配する答え。こんな仲になってずいぶん経つというのに、他人行儀な遠慮を忘れないこいつがいじらしいやら、もどかしいやら。
頭をわざとくしゃっと撫でて、俺は笑ってやった。
「大丈夫だ、どうせ夜になってからだし。ついでにメシもどっかで食うか」
そのときのものすごく嬉しそうな顔といったら、買い物も忘れてベッドに拉致したいくらいだった。
ゆうべさんざん睡眠不足にさせておいて、と自分をかろうじて抑えた俺は軽いキスだけに止め、ハンガーのコートを取りに行ったのだった。
※ ※ ※
地下鉄に乗ったときに、なんとなく訝しくは思った。
せいぜいで近場のコーヒーショップくらいだろと考えていたのに、なんで電車なのかと。首を傾げるうちに「ここだよ」と促されて降りた駅名に、俺は何かの間違いじゃないかと我が目を疑った。
なぜコーヒーを買いに、デパートなんだ。
しかも日本橋の。
こんなところ、自慢じゃないが通用口からしか入ったことがないぞ。もちろん仕事でだ。
すたすたと入口を目指す秀司の後姿はあたかもコンビニを熟知した学生のように自然体で、勝手知ったる店とばかり扉を潜ってしまった。
ええっ。たしかにこいつの家にはデパートの模様が入った袋がいくつかあったが、まさか常連とは言わないよな?
場違い感をひとりでひしひしと味わいながら、クリスマス商戦で盛り上がる華やかなフロアを突っ切ってエスカレーターに乗り、該当階までたどり着く。秀司は俺が付いて来ているのを確かめてから、俺なんぞお呼びでないだろうオシャレな一角に立ち寄った。
「いらっしゃいませ、お久しぶりです」
物腰柔らかな店員の完璧なお出迎え。
……やっぱり常連かよ。
唖然としているあいだに、秀司は値札を見もせずに箱を何個か指差し、あっという間に包んでもらう。よろしければ、と連れの俺に試飲カップが差し出されたが、すぐ出るからと俺は断った。こんなところで立ち飲みなんて、足元がもぞもぞして落ち着きやしないって。
「行こうか」
袋を持った秀司の声を救いとばかりに、俺はそそくさとブースを後にした。
まわりを見渡しても、何だかいかにも有閑マダムな老婦人とか、いい身なりをした夫婦だとか、そんな客層しか目につかない。が、秀司は近所のスーパーを訪れているようなナチュラルな様子だ。
普段から判っていたことじゃあったけれど、こんなところで何気ない育ちの差というか、生活の違いというものを実感して感心してしまう。
「持とうか」
もう習慣になっちまった、こいつの荷物を持ってやる癖。秀司は笑って、大丈夫だよと答えてきた。
「軽いし、ありがとう。なあ隆、それより下に行ってみようよ」
「下?」
「何かいいものがあるかも知れないから」
いいものって、どんなものなんだ。
ははーん、さてはデパ地下でおやつの補充か?とか気軽なことを想像していたわけだが、秀司が足を止めたのはよもやの紳士服売り場だった。
通路を歩くたびに、足元のもぞもぞ感が一層強くなる。ジーンズを穿いて来なかったのは大正解だった。
すれ違う若いカップルはみんな手を繋いでいて、高級そうな香水の匂いを漂わせている。仕事でセレクトショップの配達を受けることも多いから、こういう系統の店に縁がないわけじゃない。だけど仕事とプライベートでは、気構えだって全然違ってくる。ショッピングモールやスーパーで満足している俺には、まったく無縁の世界だ。
はやく抜け出せないかなとひとり念じていたというのに、秀司はよりにもよって、俺でさえ知っているブランドのブース前にぴたりと立ち止まってしまった。
目の前には黒のダウンジャケットを着ているマネキン。
道端に落ちたおやつを狙っている子鴨よろしく、秀司は足元の値札をじっと見つめている。
しかも袖のタグを確かめ、通路に立っている俺を振りかえって、またマネキンを見上げる。
とてつもなく恐ろしい予感がした。
「すみません、このダウンジャケットなんですけど、もう少し大きいサイズは――」
待て待て待て!
俺は店員がにこやかに現れる前に、秀司の腕を引っぱって逃げた。それこそ拾い食いを阻止する親鴨にも負けない勢いで。
「隆?」
足早に通路を突っ切る俺に付いて来ながら、秀司が不満声を出す。
「すごく格好よかったのに。隆なら似合うと思って」
たしかに以前、クリスマスプレゼントは何がいいかと聞かれて、ダウンジャケットかなと何気なく答えはした。
ユニクロで三年前に買ったやつが、中から羽根がポロポロ出てくるようになっちまってたし、その代わりくらいのつもりでいたんだ。
それが、まさかのあの高級品。
気持ちは嬉しい。舞い上がっちまうほど嬉しいさ。だけどな。
「お前な……値段見ただろ」
「でもダウンだから、あれくらいはするよ。普通だと思うけど」
二十万円だぞ。
一万円以上の品さえ躊躇する俺には、たまげるくらいじゃ追いつかない。
「俺にはもったいなさすぎるぞ、秀司。しかもあんなところで試着したら、絶対買わなきゃいけないんじゃないのか?」
「大丈夫だよ、あそこは押し売りなんてしないし」
そういう店員さんなのは店の雰囲気で判ってるさ、だてにあちこちのアパレル店に仕事で出入りしてないし。
だけどな、やっぱり俺はファストファッションの方が、精神の健康面にはいいんだ。だいいち、お前のくれるものなら、たとえ数十円のチョコレートだって立派なプレゼントだ。
だから。
「あんまり高いものだと、汚すのが怖くて逆に着れなくなっちまうんだ、俺は」
お前のプレゼントは毎日着たいから、もっと身の丈にあった、普段使いのものにしてくれ。
そう説得すると、渋々といった風ながらも秀司はこっくりとうなずいてくれた。
価値観が根本的に違う奴と付きあうと、こういう場面でしばしば冷や汗を掻かされて油断ができないんだよな。正直、かなり焦る。
だけどあんな高いコートでも俺に似合うと言い、買おうとしてくれた好意は純粋すぎるくらい純粋で、心が温かくなる。
ありがとうな、ともう一度言うと、やっとはにかむような笑顔が綻んだ。人目があるのも忘れてその手を繋ぎたくなったけれど、突っ込んだポケットの中でぐっと拳を握り締めて我慢した。
と、エスカレーターに乗ろうとしたとき、秀司が袖を軽く引っ張ってきた。
荷物を持ってくれ、と言わんばかりに差し出される紙包み。
――目が合った。
俺の一方的な勘違いなんかじゃないのを、その瞳の色が教えてくれる。
取っ手を引き受ける瞬間に、指同士が軽く触れた。少しひんやりした指先を撫で、袋を引き受けた。
世の中のカップルと違って、腕すらも組めない俺たちだけれど。
一瞬の体温にもたしかな想いが宿っていることを、互いに知っている。だからこうやって、二人で歩いて行ける。
縦列になるために別々にエスカレーターに乗った俺たちだったが、まるで隣同士で手を繋ぎ合っているかのように、指先にはいつまでも仄かな温もりが残っていた。
(過去、サイトでクリスマス企画として掲載)
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