理由 ―土岐の一日―

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理由 ―土岐の一日―

 気温は30℃前後なのに湿度の高さのせいで蒸し暑い、そんな日が続いていた。  家から地下鉄の駅構内までは暑くて、電車の中は冷房と満員の人いきれが入り混じった微妙な環境で、出たらまた暑くて、そしてオフィスビルの中は極寒。  最近は温暖化だのSDGsだので企業には外聞の良さも求められ、冷暖房の設定温度はそこそこ緩めではある。ただし人が多く天井も高いフロアはしっかり目に風が行き渡るよう調節されているのが厄介で、デスクワーク中心に加えてレイアウト変更でエアコン真下に机が移動してしまった俺には、かなり過ごし辛い夏になりそうだった。  部署内の新モニタの相見積もりが朝イチのメールで届いていたのを幸い、PDFをプリンタに送った。複合機にデータが飛んだのを確かめ、膝掛けを座面に乗せながら椅子を立つと、先輩から声が掛かった。 「土岐、プリンタのとこ行くのなら悪いけど、これメールボックス入れておいてくれ」 「判りました」  経理部宛ての社内メール封筒を受け取った俺は複合機の隣にあるボックスに入れ、A4用紙に印刷された見積もり五枚を取って席に引き返す。たったこれだけでも冷風を避けられて、ずいぶん違う。  フロアを見回しても、俺のように防寒具を使っている男性社員はちらほら居て、二十代が多い。  ひとまわり上以上の世代だと夏場に大の男がそんなものという沽券があるのか、それとも全体的に体が丸くなるからか判らないが、使っている人はほぼいないようだ。  その代わりというか、年嵩になるほどコロンを付ける人は増えるような気がする。すれ違うときにふっと香る程度だが。さっきメールを頼んできた先輩もそうだ。  通勤中でも社内でも、香水と察知はしてもいい匂いだと感動したり、惹かれたことは一度もない。女性用も男性用も。  昔からボディーソープやアフターシェーブを香料で選ぶのは好きだったものの、それはあくまでストレス解消の一環。香りで身を飾るという目的には程遠かったし、しかも完全な解消にはなっていなかったんだということを、最近になってやっと気付いた。    左手首の腕時計と、フロアの壁に掛かっている電波時計を見比べても数字は同じなのに、両方確かめずにはいられなかった。  ――あと八時間もあるなんて。  胸の奥でこっそり溜息をついた。  電子決済用の稟議書の文面を仕上げたら、ロンドンと上海から届いたレポートを読んで返信して、非鉄金属在庫の資料を作らなきゃ。課長が会議から戻るころには仕上がるはずだ。午後イチでテレビ会議のあとはあまり残業する気はないし、食欲もないし、今日は社食に行くのは止めておこう。  俺はカーディガンのボタンを留めて膝掛けをしっかりと膝に乗せ直すと、キーボードを叩き始めた。   ※ ※ ※  夜の七時過ぎに、合鍵を使って隆のアパートに入った。  階段を三階までぐるぐると上がって、東側の角部屋が隆の部屋だ。  真っ暗な玄関を開けるなり、風船のようにむわっと膨れた熱気が押し寄せてくる。漫画や充電ケーブル、トレーナーが雑然と散らかっている床を大股にベランダまで突っ切って、洗濯物を取り入れがてら籠っていた熱を外に出す。  窓とカーテンを閉めてエアコンを自動運転にすると、次はシャワー。部屋の片付けと洗濯物畳みは後回しだ。  アパートと銘打たれてはいるけれど、造りはマンションに近い。ユニットバスはちゃんとセパレートで、狭くても入りやすかった。会社の家賃補助があるのと駐車場が格安なのとスーパーが近いからここを選んだそうだけど、正解だと思う。  隆のボディーソープやシャンプーをそのまま使って全身を洗い、髪を乾かして部屋に戻ると、いい具合に部屋の熱気も落ち着いていた。  冷たい麦茶も飲んでやる気が出た俺は、床を綺麗にすることにした。    ほんとにもう、なんで隆はこうなんだろう?  キッチンは整理されていてお皿や食べ物の空容器こそ皆無でも、リモコンも漫画雑誌もケーブルもいつも通りあちこちに放りっぱなしだし、こたつ机の下からワイヤレスイヤフォンが節分の豆の残りみたいに不意に出てくるし。テレビの前に所在なさげに転がっているもう片方の隣に置いてやった。  ノートパソコンもゲーム機も、あれほど止めるよう話したのにやっぱりキッチンの隅っこの床に直置きで充電してる。しかも実家から着いた野菜と米入り段ボールの隣という謎位置で。安全な壁際にいくらでもある他のコンセントじゃなくて、なぜここを選ぶんだか。  俺の食生活のことをときどき説教してくるわりに、隆だって片付けに無頓着すぎだよ。うっかり踏んだら壊してしまうし物を失くしたら困るだろって、こないだも言い聞かせたばかりなのに、意外なところで大雑把なんだよな。大らかな隆らしいと云えばらしいけれど。 「んもう……」  ついぼやきながら物を元の場所や安全なところに避難させ、床をまず綺麗にすると、洗濯物を畳んでいった。  隆と俺の身長差は15cm、体重差は約30キロ。下着や服を見るとその差は歴然としている。大人と子ども服とまでは行かないけど、布面積が違うのだ。  試しにアンダーシャツを鼻先に押し当ててみた。  洗剤の匂いしかしなくて、つまらなかった。  下着類もパジャマ代わりの室内着も洗い替えの制服も私服も全部畳むと、することがなくなってしまった。携帯電話をチェックしても隆から連絡はない。近畿地方の集中豪雨の影響で以西の荷物が到着遅延していて、今夜は九時を回ると言っていた通りになりそうだ。  テレビは好きじゃないし、漫画雑誌は論外だし、新聞もスマホの経済記事も流し読みすると手持ち無沙汰だ。  食事は俺が作るからいいと隆に念を押されてしまっているし。    ベッドに座って、フローリングの部屋を見回した。  クロゼット前にあるルームハンガーには、普段隆が使っているパーカーやシャツ、ジーンズ、スポーツウェアやバッグが無造作に引っ掛けられている。昔はバイクにも乗っていたそうだけど、就職してからは止めたと言っていた。フルフェイスのヘルメットがハンガーの下棚にあるのは、友達とタンデムするとき用らしい。スポーツの観戦も自分でプレイするのも両方好きな隆は、社内のフットサルサークルに入っている。  完全にアウトドア派で、趣味もたくさんあって友達も多いのに、俺と付き合ってて楽しいのかなと心配になる。  俺は母方の祖父が地元プロチームのスポンサーのひとりだったり、某球団ファンクラブの最上級会員だった影響でスポーツ観戦はそこそこ連れて行ってもらったけど、その程度だし。自力でまともにこなせるのは水泳だけで、球技はあんまり。趣味なんて言えるのは、読書と音楽鑑賞くらいか? でも大したことはないし。隆はそんなの気にしないって笑ってたけど、でもなあ。  ふう、と溜息をつくと上体を倒して、ベッドに横になった。  半袖にハーフパンツで部屋にひとりだと、なんだか快適を通り越してそろそろ寒くなってきた。  風呂に入ったばかりだから、気にせず夏用の掛け布団をはぐって潜りこんだ。  枕に頭を乗せて、肩からすっぽり包まったとたんに身体中の力がほっと抜けて、あたたかくなる。  俺は壁を向いて目を瞑り、丸まった。  ……ああ。隆の匂いがする。  無香料の制汗剤しか使わない隆の、日なたみたいな。どんな香水よりも俺の大好きなそれだ。  掛け布団に鼻を埋めて、犬のようにすん、と軽く吸いこんだ。  心臓が勝手にどきどきしてしまうのに、でもとても安心できる、いつまでも嗅いでいたい不思議な匂い。  心がどんなに疲れてささくれていても、黒い塊に押し潰されそうでも、これに触れるとみるみる溶けてゆく。  はじめてこのベッドで抱かれたとき、あの大きくて逞しい身体の体温と肌の香に目眩がしそうだった。他人との交わりで酔い痴れるなんて所詮映画や小説の中の作り話だと冷めた目で見てきたけど、そうじゃなかったんだと知った。  好きな人の素肌があんなにも熱くて心地良くて、纏う匂いで躯が痺れて燃えるなんて、思いもよらなかった。     隆の子供時代、兄弟で部活から帰った直後のお母さんの反応は、洗うのを一週間忘れていた弁当箱の方がまだ丁寧に扱われるのではというくらい凄かったらしい。風呂に入るまでは夕食もリビングで寛ぐのも罷りならぬという死活問題だったから、嫌でも意識が改善されたと言っていた。  男子なんて気を抜いたらすぐ小汚くなる、という美容師さんならではの見識と見聞に基づく躾だったようで、散髪も手ずからしてもらっていたという。  だからなのかな。  今でも隆は仕事と体格の割に汗の強い匂いはほとんどさせたことがないし、髪も定期的に切っている。でも俺は、抱きあっている時の隆の汗も好きだ。というか、隆の全部が好きだから嫌いになるわけがない。部屋が散らかってても、機器類の扱いが雑でも。    隆。はやく帰ってきて。  声が聞きたいよ。抱き締めてほしいよ。  ひとりはつまらない。  隆の匂いがしても、隆が居なきゃ寂しいよ……
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