理由 ―広嶋の一日―

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理由 ―広嶋の一日―

 とにかく、蒸し暑い。  同僚と冗談を競うどころかまともに口をきく気力もないほどに、毎日ひたすらクソ蒸し暑い。  どれくらい気力がないかといえば、たとえばこうだ。 「ン」  とドライバー仲間のひとりが事務所にハンディターミナルを持ってきて置くなり、両手をバツにする。 「あー」 「ほい」  皆からあがる返事がコレ。  このバーコードリーダーは具合悪いから使うな、の説明もなければ、それに対して、わかったとか、了解とか、そういう単語も面倒で出てこないんだ。  まあ、それも無理はなかったかもしれない。  気温35℃とかいう数字なら百歩譲って納得もしてやるけど、30℃あたりをウロウロしているくせにやたらと肌がべとつく日が続いてるせいで、みんな体力を削がれてた。    今年の梅雨に入ってからお天道様がずっとこの調子なものだから、俺は雨の日も晴れの日も制服二枚を毎日洗う破目になっている。  自分の着た物とはいえ午後にはインナーシャツごと着替えないとやってられない。荷物を持って得意先に行くだけで、トラックに引き返すころには汗だくになるんだ。茶を何本飲んでも足りやしない。  こんな時こそ熱中症予防だと朝会でも言い渡されてるんだが、俺も同僚もわざわざ注意喚起されるまでもなく体感で判ってた。昼に梅干し握りを食っても塩辛いどころか甘いんだ。飲料やメシでこまめにミネラル補給を意識しないといきなりぶっ倒れそうで、誰もが用心しながら仕事をしていた。    今日もセンターを往復する十五時のタイミングでロッカーに入って、メントール系の使い捨てシートで上半身を拭いて、アンダーシャツも制服も着替えた。汗拭き用のタオルは何枚か常備してるけど、制服は追加でもう一着支給してもらおうかな、なんて考えながら出て、新しい荷物を引き受けて出発した。  民放の美人なお天気お姉さんが、風速ごとに体感温度が一度ずつ下がるって解説してたっけ。  なら、せめて風がありゃ少しはマシだろうにと嘆きたくなっちまう。  日本人に生まれた以上は梅雨くらい文句言わずに働くべきなんだろうし、俺にはトラックの冷房があるだけいい方だと判っちゃいるが、豪雨の影響で流通があわただしくなってたところに蒸し暑さのダブルパンチは、なかなかメンタルに来る。帰ってからのご褒美があると知っていなけりゃ、ヤケ食いにハンバーガーショップに走ってたかもしれない。   『508番、どうぞ――』  明美ちゃんの無線連絡だ。俺はすぐ応答した。 「はい508番、広嶋っす」 『広嶋さん、中継センターから先ほど午後便が届きました!』  弾むような報告に、俺も思わずおおっと反応してしまった。  十八時過ぎるって予想だったけど、今はまだ十七時前じゃないか。  聞けば高速道路で発生していた土砂崩れの復旧が早めに終わったおかげで、中継トラックも動くことができたんだという。  ありがたい! NEXCOの工事の人たちに感謝だ。 『今、到着した荷物を仕分けているところです。近隣の便だけでも先に届けられるよう、一度センターまで戻ってもらえませんか』 「了解、次の集荷があと五分で終わるんで、それが終わったら戻るよ」 『ありがとうございます』    無線が切れてから、一人でガッツポーズを作った。  秀司には夜九時超えるって伝えてたけど、このぶんだと一時間は短縮できるぞ。あいつは七時過ぎには俺のアパートに行くって話してたから、すれ違いの時間が短くなりそうだ。湿気と疲れで滅入っていたところに朗報が活を入れてくれたおかげで、アドレナリンがぐんと回復した。  よし、野菜と米も届いたばかりだし、夕飯は気合を入れて作るとするか。いい感じに小腹も空いてきたし。  襟に引っ掛けたタオルでこめかみの汗を拭った俺は、青信号を確認するとハンドルを握り直して意気揚々と発進した。   ※ ※ ※     センターから出る直前に、今から帰ると秀司の携帯にメッセージを入れたものの、返信はなかった。  たぶんうたた寝してるんだな。あいつも疲れてるし。  俺はさほど気にせず、八時過ぎにアパートに着くと慣れた階段を三階まで上り、部屋に入った。   「はあー……」  玄関に足を踏み入れるなり、ビアホールでジョッキの一口目を飲んだ親父のような息が漏れた。  いつもと違って秀司が先にクーラー入れてくれてるから、この快適度たるや段違いだ。  その代わり最初にここに戻った秀司はさぞかし暑かったことだろう。いくら寒がりといっても、アパートが日中にたっぷりと溜めこみまくった熱気を快適に思えるほどじゃないしな。  廊下を突っ切ってキッチンを抜け、リビングの扉の隙間からそうっと様子をうかがうと、案の定秀司は俺のベッドで丸くなって寝ていた。  疲れてただろうに、相変わらずきちんと片付けてくれてるなあ。大助かりだ。何もしなくていいっていつも言ってあるんだけど、綺麗好きの血が騒ぐらしいんだよな。  俺も風呂に入って、メシ作って、それから起こそう。  ひとまず冷蔵庫のペットボトルから麦茶を注いで飲んでいると、軽い足音が鳴った。しまった、起こしちまったかな。 「隆、おかえり!」  数秒で現れた部屋着姿の秀司は喜色満面というやつで、俺に駆け寄って抱きついてこようとする。  応えてやりたいしこっちもハグしたいのはやまやまだったが、さり気なくかわした。汗臭い俺に近づこうもんなら、こいつまで汚れちまう。 「ただいま。片付けありがとうな。悪いけど汗かいてるんだ、後でいいか」 「……うん……」  怪訝そうな表情をしたあと、おあずけを喰らった子犬のようにしょんぼりと口を尖らせた秀司がしぶしぶ離れる。ごめんな。 「すぐ出るから、待っててくれ。メシも作ってやるし」 「わかった」  コップ一杯を四口で飲み終わった俺は風呂場に直行して、洗濯機の蓋を開けた。  一日のうちで、汗だくのシャツやら制服やら下着やらを一気に洗濯機に放りこむ瞬間が一番好きだ。仕事が終わったという充実感と、これ以上小汚い服を着なくてすむという解放感が最高なんだよな。  ぬるいシャワーを浴びてこざっぱりすると、やっと人心地がつく。今日はその上に、秀司というご褒美が待っているんだから最高ってもんだ。  風呂で使ったタオル類も投げこんだ洗濯機のスイッチを入れて、俺も部屋着代わりの半袖Tシャツにハーフパンツという気楽な格好で冷蔵庫の前に戻るなり、待ち構えていた秀司がぎゅっと抱きついて肩に顔を押しつけてくる。  あーもう、めちゃくちゃ可愛い。ココは天国ですかってくらい癒される。  待っててくれてたんだな、お待たせ。  にやけた顔を隠しもせず、俺も今度は思いきり抱き締めかえして秀司の髪に頬を擦りつけたが、二週間ぶりの掌の感触に違和感があった。  ――こいつ、少し痩せたな。  蒸し暑いせいで、食欲が落ちてるのかも。  いい匂いのする髪と背を撫でながら、食べやすそうな濃い味付けのメニューを考えていると、秀司があのさ、と口を開いた。 「なんで、さっきは駄目って言ったんだ?」  ……えっ?   そんなの理由はちゃんと話したし、そもそも考えなくても常識ですぐ判るはずだぞ。  俺は面喰らいながら返した。 「なんでって。そりゃ汗くさいし汚かったからだろ。お前はもう風呂入ってたしさ」 「俺は、隆の汗ならいつでも平気だよ」  きょとんとした秀司が、大真面目な口調で言い切る。  冗談じゃないかと肩先にある顔を見下ろしたけど、その表情は大袈裟でもなんでもなく、本気そのものだ。  俺たち兄弟が大汗と砂埃にまみれようものなら、人権なんぞ完全に無きものとしてお袋に風呂場に叩き込まれてきた身としては、人間扱いどころか好意的すぎる見解にぶち当たってしまって、とっさの答えが出なかった。  思わず自分の眉間を右の指先で挟んで、壁に肘を押し当てる。  お前なあ。  潔癖症で綺麗好きのくせにそういう可愛いことを平気で口にするから、俺にあっという間に食われちまうんだってば。少しは自覚しろ! 「あのさ、秀司。今の俺は、はらぺこオオカミなんだぞ」  呻くように呟くと、秀司が申し訳なさそうに小声で答えた。 「あ……お腹空いてるんだよな。寝ちゃってごめん……やっぱり俺が何か作っておけばよかったな」  えーと、いや、そうじゃなくてだな。 「そりゃ、腹が空いてるのは空いてるけどさ。はらぺこってのは、こういうことだよ」  秀司の両肩をすばやく掴んで背を壁に押しつけて、強引にキスをする。  腿のあいだを俺の膝で割って、腰を密着させる。 「っ……!」  さすがに鈍いこいつでも、同性なりに事態が一瞬で呑みこめたようだ。お互い薄手のハーフパンツじゃ、こんなの隠しきれるもんじゃないし。  顔が離れたとき、夕食はどうするのか、という問いが、瞬きながらの上目遣いで投げかけられる。  俺は返事の代わりにもう一度くちびるを塞いだ。  ふっくらした表面を啄ばんで、舐めて、迷いに綻んだわずかな隙間からすかさず舌を捻じこむ。俺のシャツを両手で掴んでおずおずと応えてくる秀司の舌を、角度を変えながら何度も絡めとってやる。  二週間ぶりのキスは、どんな菓子よりも甘く俺の腹に響いて、同時にどれほど“空腹”であるかということも、存分に思い知らせてくれた。  息継ぎの合間に上がった息を整えながら、秀司が潤んだ声でささやく。 「おれは、いいけど……隆は、食べたほうが……」  大食いの俺を気づかう遠慮がちの説得を、俺は細い身体を抱きあげてベッドに連行することで無視した。  仕事の唯一のご褒美が可愛いこと言ってくれて、美味そうないい匂いさせてるお陰で、俺はこうなってるワケで。  これで大人しくメシ作れるかっての。冷食もあるにせよ温める時間すらもったいない。  数歩でベッドに辿りついた俺は、寝乱れたシーツに秀司を下ろすなり白い襟足にかぶりついた。  照明を落としてくれとちいさく頼まれたけど、あいにくリモコンがきれいに片付けられちまって手の届く範囲にないのをいいことに、それも無視して秀司の服を剥いだのだった。
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