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 警察官は所轄の警察署から三名が来てくれた。  磯村が電話してから十分も掛からなかったと思う。  ベテラン警官が中年男性に状況や事情を聞き取っているあいだに、俺たちも別の三十代っぽいお巡りさんにいろいろと経緯を訊ねられた。  ほうほう某県でのバーベーキューの帰り、そういえばちょうど高速が事故で通行止めでしたねえ。お友達がトイレと買い物の休憩に行っている間に擦られた。で、あなたたちは喫煙所でそれを目撃していたんですね、なるほど――  警官は無駄なく質問を重ねて、調書を取って行った。  背は俺より低くても制服の下はがっちりしてそうな、体幹のしっかりした立ち姿だったけど、物腰も顔立ちも柔らかい人だったから、みんなあんまり緊張せずにすんだ。  何を訊かれても嘘や作り話はもちろん喋ってないし、磯村の車には監視機能付きの高性能ドラレコも入れていたから、出るとこに出ても矛盾なんて現れやしないはずだった。喫煙所でたまたま畑山と並んでいた五十絡みの男性も残ってくれてて、全部俺たちの言う通りだと証言してくれたのも心強かった。  四人とも車外にいたことでこちら側は物損のみであること、エンジンを完全停止していた状態でぶつけられたこともあって、一連の話は比較的スムーズに行った。  自力走行できるしこのまま帰っても問題ない、あとは保険屋さんに連絡しましょう、という段階になったとき、お巡りさんが俺たち四人の人相風体を改めて一望するように半歩下がって、抑えきれないように破顔した。 『いやあ、逃げられなくて幸いでしたね。こういうパターンでの当て逃げも頻発していますのでね』 『だと思って、僕が見張ってました』  先生に褒められたい小学生みたいに得意顔をする畑山に、頼もしいお友達ですねえとお巡りさんもあやすように答えてくれた。さすが百戦錬磨。 『実は、警察を呼んでくれ、とあちらが自発的に言われたのはですね……その、勘違いなさったようでしてね』   『ええっ? 何をどう勘違いされたのですか?』  あの事故の状況で勘違いなんてしようがないのにと訝しみつつ俺が訊ねると、お友達同士で見慣れていると判りにくいかもしれませんがね、とお巡りさんは前置いて笑いを噛み殺しつつ、皆さんの外見なんです、とずばりの真相を語った。 『あちらの方は、どうやらその、あなた方があまりに立派な体格なものですから、物騒な方々だと思いこんでしまわれたようなんです。それで、事故を起こしたからではなく、身を守るために我々を呼んだと――さきほどからしきりに、あなた方の身元を調べてほしい、私を守ってほしい、と必死に言われてます』 『――はい? ぶつけたのは向こうなのに、ですか?』  俺らの中で一番小柄なくせに一番気短な畑山が気色ばむのを、俺と信濃がとっさに腕を掴んで黙らせた。 『そうなんですよね、ええ、そうなんですけど、あいにくね……そちらの方々のファッションも、びっくりさせると言うか、誤解を招いたみたいで』  お巡りさんが示す先には、俺と磯村の迷彩服。  俺は自分の下半身を見下ろして、それから磯村をまじまじと眺めて、我に返った。他の三人も同じように互いを眺めあって、呆然としていた。  そこではじめて俺たちは、このメンツの体格でこの服を着ることのメリットと危険性を嫌というほど自覚したんだ。  お巡りさんの言うとおり、慣れっておそろしい。仲間うちで面白がってる場合じゃなかったんだよ、気付くの遅すぎたけども。  警察官はいろんな揉めごとに対応するし、武道を嗜む職種でもある。  それらが幸いして、格好はともかく俺たちがただの元運動部員で、根は善良な市民というのはひと目で見抜いて、中年男をうまく宥めてくれたようだった。 『すみません、この服、磯村の親御さんと本人の趣味なんです。僕はコーラで汚しちまって、ズボンを借りただけで……僕らの体も大学まで柔道してたんで、悪いことなんて、そんな』 『いや、そうでしょう。我々はすぐ判りましたが、お判りにならない方もね、いらっしゃいますから……しかもあなた、90kg以下級だったでしょう?』  身長体格でずばり当てられ、さすがと感心しつつ俺は素直に答えた。 『はい、そうです』 『車の持ち主の方、磯村さんは100kg超級ですよね。うん、ご存じない方には、ちょっとね。そのお洋服とアクセサリーと併せて、存在感が……なかなか。皆さん、遠目にも壮観でしたよ』  もう一刻も早く大笑いしたくて仕方がないのを仕事柄やっと我慢しているんだなってのが、震える口元と声で判った。  コレぜったい署に帰ったら笑い話のネタになるやつだ、と俺たちは覚悟した。  それも語り継がれる系になるやつ。  海外の特殊部隊員が強盗の現場に居合わせて制圧したってネットニュースならたまに見るし映画並みに格好いいが、今回は元柔道部員らがまぎらわしい服で悪漢と早合点されたという、ただのお騒がせだ。    この暑い夕方にわざわざ来ていただいてこんなしょうもないオチで、本当にすみませんでした。  当て逃げ未遂男の心境は知ったこっちゃないが、俺たちは四人全員で縮こまりながら平身低頭してその場を後にしたのだった。   ※ ※ ※    あのあと、夕飯を食いに行く前に俺はネックレスを外した。  まさかズボンを脱ぐわけにも行かないから、ちょっとでも外見を緩和しようと考えて、ボディバッグの小さいポケットにいまいましく突っ込んで、用済みにしたまま存在を忘れた。  で、そのバッグはバーベーキューの後に新しいのを買ったせいでしばらく使わなくなり、久々にまた使い始めたタイミングで、乾電池が切れてしまった。  乾電池なんて小さくて重い物、チャリの籠に入れたらコンビニ袋ごと隙間から落とすから、バッグを背負って行ったんだ。  無事に買って帰って自転車を停めたとき、ふとサドルの下にでっかい蜘蛛の巣を発見してティッシュを探したら、なんとバッグの奥から鎖が出てきて。  あーコレこんなとこにあったのか、よし、自転車の鍵とまとめて入れておけば後で一緒に取り出せる!という名案を編み出したのが間違いだった。  階段を上って部屋に入った瞬間、リモコンを復旧させることに集中して、鍵とネックレスを入れたポケットは記憶の彼方になっちまったんだ。  一連の悲劇を聞き終わった秀司は、俺の膝の上で声を上げてしばらく笑い続けた。こいつがこんなにくるくると朗らかに笑ってくれるのは珍しい。  よかった、気が紛れたかな。 「もう使わないし、ゴミ箱入れておいてくれ」  俺がネックレスを無造作に指差すと、いいのか?と驚いたように訊ねられた。 「要らないし。俺の柄じゃないって、よく判ったんだ」  磯村の口車に乗せられて自分を客観視できずこんなシロモノ買って、第三者から見れば結局は怖い業界の一員でしかなかったこっぱずかしさは思い出したくもない。あのときはそれがいい風向きに作用したわけだけど、単に幸運な偶然ってだけのことだし。 「じゃあ、一回だけしてみせて」  秀司がどことなく目を輝かせて口にした頼みに、俺は正直びっくりした。  こういうの、こいつは絶対タイプじゃないと思うのに。 「ん? 別にいいけど」  マジで似合わないからな、と念を押しても、秀司はお構いなしに俺の頭の上に鎖の輪を広げ、鎖骨の上にするりと落とした。やや顔を離して首を傾げながらチェックするこいつの表情に、どうやら不快感はなさそうだが。 「どうだ?」 「ん……似合わないとは思わないよ。ちょっとワイルドにはなるかな」  その絶妙な語彙と言い回し、今はいささか罪だな。  お前に褒められるくらい似合っていると勘違いしそうになるからさ。 「物は言いようだな」  笑いあって、鎖を外してもらって、キスを落とす。  わざと音を立ててくちびるを吸って、また離して。  声と表情で交わしていた何気ない笑みが、キスが本気になるうちに、少しずつ相手を甘やかして蕩けるそれに変化してゆく。俺の背に腕を回した秀司の腕も、胸に抱えた躯も熱い。その熱を吐き出すかのような細い溜息がたまらなくて、俺は秀司を目いっぱい抱き寄せた。    ――なんでバーベーキューに行ったのか、当時彼女がいたのかどうかまでは、俺は話さなかった。  話す必要のないことだしな。    あのときの俺は、大学四年生の後半から付き合ってた女の子に振られたばかりでへこんでて、身軽ってのもあったけど気晴らしが欲しかったんだ。 『広嶋君、すごく優しいけどあたしのこと本気で好きじゃないよね』  真面目に交際していたつもりだった俺は、彼女に泣きながらそう責められて困惑したけど、引き止めて迷惑を掛けるのも嫌で、くどくど言い訳はしなかった。あとから共通の知り合いに『別れたくないって言われなかったの。やっぱり彼は本気じゃなかった』とさらに彼女が悲しんでいたと小耳に挟んでしまい、申し訳ない気分になったんだ。  俺って冷たい奴なのかな、俺なりに好きでいたのに相手にとってはそう感じるほどじゃなかったのかな、としばらく悩んだのを今でも覚えてる。  バーベキュー以降は仕事を覚えてますます忙しくなったのもあって、女の子との交際も浅く短くを繰りかえして、そしてこいつに出会って。   俺が本気じゃないと見抜いたあの子は、正しかったんだと知った。  もし、俺と別れたいってこいつに切り出されたとしたら――たぶん俺は、頭が真っ白になって何も考えられなくなる。  困惑するどころか、身体中が石みたいに固まって、言葉すら簡単には出てこなくなる。  なんでだって肩を掴んで揺さぶったり、大人気なく言い募りたいのはやまやまでも、泣きたくても、でも、諦めるしかないと引き下がるだろう。  こいつがそれを言い出すってことは、よほど考えた末での結論だろうし。俺よりもっと好きな人ができたのなら、喜んでやるべきなんだろうし。  だけど心がずたずたに千切れちまうんじゃないかってくらい悲しくて、悔しくて、事故ったら大変だから最低三日は仕事を休んじまうのは間違いない。たった三日で復帰できるか、確信は全然ないけどさ。  そこまで好きでも、未練でも、それでも俺は秀司が笑顔でいられるほうを選びたいんだ。  俺とはもう笑い合えない、楽しくない、というのなら、それが可能な相手と幸せに過ごしてほしいから。  ……あ、ヤバい。ただの想像なのに、涙出て来そうだ。  そうなんだよな。本気で惚れるって、こういうことなんだよな。    好きな相手に振られれば、どんな気持ちになるのかってことも。  自分と同じ強さで想ってもらえないことが、どんなに辛いのかも。  三年前の俺はなにも知らなかったし、判ってなかった。  彼女は今は別の男と付き合ってて、周囲があてられるほど仲が良くて、結婚直前ってのは知人経由で聞いている。    俺はまだまだ若造だけど、生きていると、いろいろな経験をするよなあと思う。  人って間違ったり正解を探したり、遠回りしたり喜んだりしながら、前を向いて新しい道を進もうとするんだよな。  しんどいことも、幸せなこともひっくるめた道を。  ――じゃあ、俺と秀司の道はこれからどうなっていくんだろう? 「隆……買い物、どうする? 自転車の鍵見つかったし」  俺の喉元に頬を押しつけながら、秀司が小声を落とした。 「んー。どうせ炭酸水と麦茶が本日限りの特価だっただけだし。もういいや」 「じゃあ、映画行く?」  甘える響きに俺と同じ、このままで居たいという願いが嗅ぎ取れる。 「や、暑いし、止めにしよう。代わりに昼までアマプラ観ないか」  映画館だと秀司に触れられない。手も握れない。  今日は何だかこのまま、こいつをずっと捕まえていたい気分だった。片時も離したくなかった。 「判った。新宿も混んでるだろうしね……じゃ、何観ようか」  膝からいったん降りた秀司が、俺の足の間に座りなおしてテレビを見る体勢を整える。  俺は後ろから秀司に腕を回した。  リモコンを取って操作を始めるこいつの横顔はいつも通りで、俺のそばで微笑んでいる。  自信を持ってほしいと秀司に願っているくせに、俺も時々は揺れちまう。矛盾しているよな。  でも先のことを考えすぎても、きりがないことも判ってる。  だから今はただ、秀司との時間を大切にしたいと思う。  一秒、一分と積み重ねて行くうちに固まり、俺たちの前に拓けてくる道もあるはずだから。  髭を剃った顎を首筋に擦りつけると、必ずくすぐったそうに上がる秀司の笑い声を聞きながら、俺は幸せな温もりを精一杯抱き締めた。
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