出会い

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 オフが空けてからも数日は、土岐の勤める部署に用事はなかった。伊井商事に行きはしても、あいつの姿は見かけなかった。  不思議なもので、一度親近感が湧くと、あんなに嫌だった相手と顔を合わせるのも全然嫌じゃなくなる。毎日通うたびに「今日も会えなかった」と心のどこかで失望している自分に気が付いて、トラックの中で妙な気分になることが多くなった。  あいつがああやって笑ったのは単なる気まぐれで、一夜が明けたらいつも通りの能面を寄越される可能性の方がずっと高いのに、俺はあいつの態度が様変わりするものとばかり決め付けている。向こうがこっちと同じ親近感を抱いたとは限らないって判っていても、いつの間にか過剰に期待している。  単純馬鹿もいいところだよな。  だってあいつの笑顔は、それを期待させるくらいに明るくて可愛かったんだ。  心底嬉しそうに笑ったあれを見れば、俺の心が希望のほうに傾いたからって、そしられはしないだろう。  そうやってウィークデーを送り、週末が近付いた木曜日の今日もあっという間に日が暮れた。  最近は陽が落ちるのが早く、足元から冷気が這い上がって来るようになった。着々と冬に向かっているんだなと実感させられる。  寒くて暗い夜道をひたすら運転していても、頭を過ぎるのは「あいつは今ごろどうしてるんだろう」ということだ。例の赤坂の道を独りで歩いているんじゃないだろうか、声すら出せないほどに疲れているんじゃないだろうか。  そう思うと、寂しそうに俯いて歩いていた細い背中がまざまざと蘇って、胸が締め付けられる。  どうも最近、あいつのことを考える機会がぐんと増えた。機会だけじゃなくて時間も長くなっている。  自分が何をしていても、いつの間にかあいつと比べている。土岐ならハンバーガーなんて庶民的な物は食わないんだろうなとか、あいつの住んでいるマンションなら隣の音なんて聞こえないんだろうなとか、下らなくて些細なことばかりだけど。  そうやって一人勝手に想像に耽り、何を考えてるんだと我に返っては、どうしてあいつのことが頭から離れないのかと溜息を吐いている。  絶対変だ、こんなの。  美人のことを始終思うならともかく、可愛気も愛想もない同性の男のことなんか、考える時間すら惜しいのに。  とはいえ、これはあの笑みが心の奥底に棲み着いて影を落としているせいだと自覚はしていた。どうにかして土岐の笑顔を脳から追い出す術はないのかなと心中密かに悩んでいたら、明美ちゃんから無線が入った。 『508番、広嶋さんどうぞ』 「はい508番、広嶋です」 『赤坂のコンビニで至急の集荷だそうです、お客さんがどうしてもって仰るみたいなので』  車のデジタル時計をちらっと見る。  もう十時近い。  たまにこういう頑固な客っているものなんだ。大抵は断っているけど、トラックを動かしている間でしかも近所だったら、時間外でもなるべく行ってやることにしている。俺がそういう奴だと知っているから、彼女も俺に頼んで来るのだ。 「あー了解、近いから俺が行くよ」  無線の向こうで、ほっと安堵の声が漏れる。 『すみません、お願いします。コンビニから何度も連絡があったので』  コンビニ側もいくら断っても言うことを聞いてもらえず、困りはてて駄目もとで電話して来たんだろう。仕方ない。  それにしても明美ちゃんも頑張るなあ。今の時代、結婚前の腰掛け就職なんて言葉は死語のようだ。前に、女の子なのに遅くなると大変だよと事務所で声を掛けたら、だってちゃんと仕事しなきゃだし、彼氏が迎えに来てくれるし大丈夫と返って来た。実にしっかりしている子だ。彼氏との婚約も決まっているけど、結婚しても働きたいと明言している。こんな女の子ならきっといい嫁さんになるぞ。  ……そういや、あいつに彼女はいるのかな。  そりゃ、いるだろう。顔もいいし勤め先も一流の上物件と来れば、社内のOLからのアプローチなんて頻繁に違いない。  俺は大学のころから付き合う子にわりと不自由しなかったけど、今はフリーだ。  社会人になると、交際の端々に『結婚』という単語がちらつくようになる。それがどうにも苦手で、就職してからは女性との深い付き合いを避け続けている。  身を固めるのは、もう少し遊んでからでも遅くないし。  道端を仲良く寄り添って歩いているカップル達の姿を横目で遣り過ごしながら、右折して国道に入った。  先週の金曜日と同じ道だ。  赤坂のコンビニと言えば、土岐を下ろした地点からそう遠くない。  後方に注意を払いながらウィンカーを出し、トラックを路肩に寄せて道路に降りた。  あいつが居たらいいのに、なんて都合のいいことを考えながら、明るい店のドアをくぐった。  そうしたら――  濃い紺色のスーツに、ベージュ色のコート。  見間違いようのないあいつの姿が、レジカウンターの前にあった。待ち構えていたかのような瞳と一瞬視線が合ったが、俺の方からすぐに逸らし、店員を見遣った。  土岐と向かい合って立っていた若いバイトは、救いの神とばかりに俺にこっそり両手を合わせて拝む。    ……ひょっとして、荷物を捻じ込んだ客ってのはこいつなのか?  俺がカウンターに寄ると、店員がすばやく封筒を寄越した。  差出人の欄は、伊井商事先物取引部、土岐秀司。やっぱりこいつだ。  何だよ、わざわざコンビニまで持ち帰らなくても、いつもみたいに俺を会社まで呼び付けたらいいじゃないか。それなら店員の気を悪くさせることもなかったのに、要領がいまいちだな。  こいつの意図が良く判らなかったが、すでに支払いは済んでいるようだし、俺は手順通りにバーコードを読み取って封筒を抱え、外に出た。土岐の方は向かないまま。  だって今は仕事中だし、こいつと目が合ったら絶対に平静じゃいられなくなる。一刻も早く離れようとしたのに、自動ドアの音に続いてあいつが追い掛けて来る気配がした。  足音と一緒に、カサリとポリ袋の軽い音がする。ついでに何か買い物もしたのかな。  土岐はトラックの後部ドアを開いて封筒を所定の場所に入れる俺の横に立って、物言いたそうにしている。手を動かしながら俺はわざとそっけなく口を開いた。 「また乗せてもらいたいのか? この前あんたを降ろした所からそんなに離れてないぞ」  近距離な上に二度もわざわざ乗せてなんかやらない、そこいらのタクシーを拾えという意味を籠めて告げたが、こいつは小さい声で答えた。 「……帰りたくないんだ……」 「――はあ?」  驚きのあまり手が止まった。  こいつは毎回、紙皿を引っくり返すよりも簡単に、俺の予測を一瞬で覆してくれる。それはたやすく。  自分への戒めも忘れてつい向き直ると、土岐は俺をじっと見つめていた。縋るように。 「家に帰りたくないって……じゃあどっかのホテルに送れってか?」  近隣にある幾つかの高級シティホテルへの道筋が次々と頭の中に浮かんだ。 「ホテルも行きたくない」 「だってあんた、明日も仕事なんじゃ――」 「仕事は休んだ。一ヶ月ぶりに無理矢理代休を取った。三連休だ」  何なんだこれは。  いい年をした大人が何を訳のわからない、我儘なことを抜かしているんだ。  明日から休みだとはいえ自宅もホテルも嫌なら、友人の家にでもあてがあるのかと重ねて尋ねても、それもないと返して来る。  じゃあどうしたいんだと問い詰めたくなる気分を堪え、俺はまじまじとこいつを眺めた。  一ヶ月ぶりの休みを取ったというだけあって、少し窶れ気味の顔に嘘や悪ふざけの気配はなく、むしろ追い詰められているような……?  立派なエリート社会人のくせに分別や判断力がいまいち怪しい、頼りない風情を見ていると、助けたくなってくる。  他の男ならとっくにうっちゃらかしてるが、こいつだとどうにも放って置けず、俺は仕方なく「乗れよ」と促した。  行くあてもない、家にも帰らないって言うなら、最終手段で俺の家にでも連れて行くしかないだろう。  警察に届けるわけにも行かないし、たくましさや図太さもなさそうなこいつに野宿は到底無理だし、タクシーに押し込んだって行き先がないなら無意味だし。  先週の金曜日と同じように、土岐は助手席に乗り込む。  不機嫌さは見当たらないけれど、何を考えているのか掴めない横顔だ。  俺はファイルをダッシュボードに置きながら言った。 「あんた、どこにも行きたくないっていうなら、とりあえず俺の家にでも連れて行くけど。いいのか?」  こっくりと、前を向いたままの白い横顔がうなずいた。  顧客とはいえ赤の他人を家に連れて行って面倒見ようという俺も俺だし、それを受けるこいつもこいつだ。  投げやりになって成り行き任せにしているのが一目瞭然で、見ているこっちがはらはらしながら、集荷センターまでいったん戻った。  土岐のような大荷物を預かってちゃ、俺も仕事に集中出来ない。  所長はとっくに帰ってたが、俺は無理矢理有休の届けを出して、明日一日でケリを付けることにした。  近ごろのエリートってのは、まったくどうなってるんだか。
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