出会い

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 家まで帰る俺の車の中で、場つなぎの適当な質問を重ねた。  土岐の年齢は俺と同じ二十六で、独身。彼女がいるんだろと探っても、いないと冷ややかに否定された。いればそりゃ恋人に慰めてもらいに行くに決まってるか。  ……というか、なんで俺が避難場所に選ばれたんだろ。  もし誰でもよくて、行き当たった相手に適当に付いて行くつもりだったのなら、タチの悪い男に捕まってたらどうする気だったんだ? 至極危ない話だ。  結局車ではこいつは自発的に喋らず無言のままだったが、1LDKの狭いアパートに入って電気が点くと、ぽつんと呟いた。 「寒い」  声が小さいわりには威圧的というか、不満がはっきりと出ている口調だ。  はいはい、判りました。エアコン付けるから。  俺はさっさと靴を脱ぎ捨てて奥に入り、リモコンを操作した。温かい風がふわりと流れ始める。温度を高めに設定しても、部屋が暖まるのに五分は掛かる。その間は我慢してもらわなきゃならない。  まだごそごそと音がしている玄関を振り向くと、こいつが革靴を脱いで行儀良く揃え、ついでに俺のも並べている。  親の躾がいいんだなと、妙に和まされてしまった。  靴を整理して気が済んだビジネスマンは廊下を通って、フローリングの上に絨毯一枚、こたつ机とベッドがあるきりの部屋を眺め渡し、眉を寄せた。 「狭いな。散らかっているし」  指摘されなくてもよく判ってる。  お前の住んでるような贅沢な3LDKなんぞとは訳が違うんだぞと、声に出さずに言い返していた。  新聞や雑誌は読み掛け、パジャマがわりのスウェットは脱ぎ捨てて床に転がしている状態、ベッドの上の布団だって充電ケーブルだって起き抜けそのまま。はっきり言って他人を招くには惨々たる状況だが、どこの独り暮らしの男だってこんなもんだし、今まで泊まらせた友達に文句なんか言われたこともない。 「言っておくけどな、ホテルが嫌だっつったのはあんただぞ」 「………」  眼鏡の奥から、睫の長い瞳が俺に睨みをくれる。  またもや元気が出て来たらしい。しおらしいままで居てくれりゃいいのに、俺と話してるうちに勢いが復活するのはどうしたわけだ。 「あんた、メシは」 「コンビニでカロリーメイト買って来た」  栄養補助食品の名前が実にナチュラルに語られる。  今度は俺が眉を顰める番だった。  奴の右手のコンビニ袋を奪うように掴んで、文句が耳に飛び込むより先に中身を覗きこんだ。  カロリーメイトが一箱、冬季限定のチョコレート菓子が一箱、200mlの野菜ジュースが一本。  大の男の夕食が、たったこれだけなのか。それで足りるのか?  道理で細いはずだ。歳相応の生気が感じられないのもうなずける。  俺は呆れ果てて顔を上げたが、こいつは平然としていた。呆れる俺の方が悪いと言わんばかりだ。 「食欲なんてないからいいんだ」 「そんなこと言ってちゃ、いつまでたっても疲れたままだろ。まだ部屋は暖まらないから風呂入ってろ、その間に俺がメシ作ってやるから」 「―――」  蒼ざめて寒そうなこいつにとって、風呂の誘惑が大きいのは見抜いていた。  が、いくら何でも押しかけた他人の家で風呂まで借りるのは気が引けるのか、なかなかうんと言わない。バスルームまで連れて行き、湯を溜めながら指差すと、温かい蒸気が広がる光景にやっと降参した。こっちの読み勝ちだ。  ひとまず安心した俺は、棚からタオルを出してやった。 「バスタオルはこれだ、ボディタオルはこっち」 「……ありがとう」  ――ああ、まただ。  俺の心に引っ掛かって取れないあの笑顔が、固い無表情の殻を破って綻んだ。前よりも少し大きな、こわばりの取れた笑みだ。  これにどれだけ俺の抵抗力が弱まるかを知っているんだろうか、こいつは。  小生意気ぶりが復活してイライラしてたのに、あっという間に霧散してしまう。  服は後で持って来るからとしどろもどろになりながら、俺はあわてて脱衣場から逃げた。  クロゼットを開け、ユニクロで買いっぱなしになっていたスウェットや靴下その他もろもろを引っ張り出した。  サイズは違うけどどれも新しいし、潔癖そうなあいつでも大丈夫だろ。  全部取り出して封を破り、タグを鋏で切ってから、脱衣場にある洗濯機の上に乗せに行く。  すでに土岐はスーツもコートも綺麗に畳んで、風呂で湯を満喫していた。  他意はなかったんだが、見るともなく、水音が聞こえるドアにちらと目線を泳がせてしまった。  掏りガラス状になっている窓の向こうで、白いシルエットが朧気に浮かび上がっている。  見た瞬間、胸がどきっとして全身が熱くなった。  ……何をどぎまぎしているんだ、俺は。  野郎の裸なんか、眺めたって面白くも何ともないぞ。部活のシャワールームでも銭湯でも飽きるくらい見てきたじゃないか。  いや、だけど――いいスタイルしてるよな。  細すぎじゃないけど太ってもいない、スーツがぴたりと決まる綺麗な身体つき。自慢じゃないがスーツを着ると「マル暴の刑事だ」とからかわれてしまう大柄な俺としては、こういう体型は羨ましくもある。  羨ましいのはいいけど、何でこう、胸のざわめきが取れないんだ。  ドアから目が離せない。いつしか釘付けになっている。  自分の知っている浴室の中ですんなりとした手足が動くところを、ひとつひとつ想像してしまう。  あの細い手が泡を作って、タオルで首筋や胴をくまなく擦って、髪も洗って――  俺は目を瞑って、頭をぶんぶん振った。  このバカ、男に見蕩れている場合か! メシを作るのが先だろ?  自分で自分を叱りつけた俺は頭を切り替え、台所に大股で戻った。さっきまでの光景を頭から追い出すと普段着のスウェットに着替え、ペンギンのマークが付いた制服は洗濯籠に放り入れる。  そして鍋焼きうどんを二人分作るべく、冷凍庫から冷凍麺を取り出した。 ※ ※ ※    卵の黄身を壊さないよう、出来上がったうどんをそろりと丼に流し込んでいたら、土岐が風呂から上がって来た。  スーツとコートは居間のハンガーに掛けておけと言うと、その通りにしてから俺の側に寄って来る。  2Lのスウェットが緩そうだ。こいつなら掛け値なくM寸だから無理もないな。  ズボンを床に引きずっているし、丸襟も大きく開いて、白い喉元が寒そうに覗いている。俺は急いで洗濯済みの衣服の山を引っ掻き回し、白いフリースのトレーナーを探し当てた。  こいつも大きいサイズだが、襟がタートルになっているからそんなに寒くないはずだ。 「ほい、これ着ろよ――ちゃんと洗剤で洗ってるから安心しろ」 「………」  また文句のひとつでも飛んで来るかと思ったが、風呂で気分も解れたのか、土岐は黙って手に取り袖を通す。  素直でよろしい。  卵と野菜を放り込んだだけの適当な料理でも、器によそうとそれなりに見栄えがするもんだ。両手に熱い丼を二つ持ち、居間のこたつ机に置いてから、台所に引き返してグラスとウーロン茶のペットボトルを出して来た。まるで働き蜂のようにせかせかと動く俺を、土岐は机の側に突っ立って眺めている。  少しは手伝えと叱ってやりたいところだが、生活臭のないこいつじゃ促すだけ無駄だ。料理は外食で全部済ませる派なのは、さっきのコンビニ袋の中身で明らかだし。  夕飯の準備が万端整ったところで、俺は前にコンビニでもらっていた割り箸の余りを土岐に渡して、食えと勧めた。  客が座るのを待たず、俺がホットカーペットの上に胡坐をかいて食い始めるのを見ると、操られたようにこいつも腰を下ろし、割り箸を割ってするすると麺を食べ始めた。  時間をけちって作ったわりには、味はそこそこに仕上がってて安心した。こいつはどうかなと反応を窺おうとして、気がついた。  湯気で曇るせいか、土岐が眼鏡をテーブルに畳んで置いていることに。  こいつの素顔は初めてだ。  フレームレスであっても眼鏡があるのとないのとじゃ、印象がずいぶん違った。外すと目が大きく見えて、きれいに揃った睫毛も判りやすい。眼鏡を掛けてないとますます童顔っぽいとはいえ、ちゃんとインテリには見えるし、これはこれでいいじゃないか。  向かい合わせではなく俺の右側の縁に座っているお陰で、さりげなく観察しやすい。いつもなら五分で食べ終わるのに、視線が土岐の方に逸れがちなせいで十分も掛かっちまった。  そんな俺が丼を空にしても、こいつはまだ数口しか食べてなかった。食欲がないって言ってたけど、味も合わなかったかな。  心配していたら、土岐は突然箸を置くなり、ぽつりと漏らした。 「……温かいな……」  うどんの湯気と温かさに、今さらしんみりした風だ。  こういう台詞には何と相槌を打ったらいいのか俺も良く判らない。ウーロン茶を飲んで続きを待つことにした。  ところがこいつが吐いたのは、とんでもない、あまりにも意表外な言葉だった。 「お前は、最低だ」  ――何だって?  危うく行き倒れになりかけのところを拾ってやった上、風呂に入れるわメシも食わせてやるわの相手に言える内容じゃない。別に雨あられの感謝をもらいたくてしたんじゃないけど、さすがにこれはないだろ!  思いつく限りの罵倒が喉を飛び出そうになっていたが、こいつの悲しそうな横顔に、それも呑み込まざるを得なかった。  土岐はなぜかうつむいて、ひどく落ち込んでいる。そんな相手に罵りのダメージは大きすぎて可哀相だと、俺がどうにか理性のブレーキを掛けて落ち着いた次の瞬間、弱々しい呟きが聞こえた。 「お前は、優しすぎる……」 「え?」 「何の縁もゆかりもない俺を、嫌な顔ひとつせずにこうして面倒見てくれて、あたたかい夕食も作ってくれて……」  語尾は細って、消え入りそうになっている。  それだけじゃない、両手で顔を覆ったりして、何だか泣いているようだ。  おいおい、ちょっと待て。  怒りもどこへやら、俺は狼狽えてグラスを置いて、これまでのやりとりを頭の中で引っくり返して再生してみた。  俺、泣かせるようなことをした覚えはこれっぽちもないんだが。  すると、またもや予想すら付かないような告白が、こいつの口から零れた。 「……お前のこと、本当は、前から気になってたんだ……元気で明るそうな奴だなって、ずっと思ってた。お前のような奴と友達になれる人間が、羨ましかった」
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