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Tryst
「来週の月曜日」を土岐と約束してから一週間が過ぎ、いよいよ日曜日の朝になった。
世間一般が休みの日だからといって減るどころか増える荷物を、いつも通りトラックに積んで運ぶ。出勤ラッシュがないし、休みの日は誰だって朝寝坊するから、午前中はどの道を選んでもスムーズだ。
一分一秒が過ぎて行くのが楽しみで仕方がない。
重い荷物を抱えるのも、何階も階段を上がらなきゃならない厄介な場所に運ぶのも、普段と違ってまったく平気だった。
お客さんに告げる「ありがとうございました」の声も、いつもより張りがある。
我ながら現金なもんだ。
働いている人間は誰でも休日を指折り数えて待つだろう。でもここ一週間の俺ほど待ち構えていた人間はどこにもいないと思う。
はっきりいって尋常じゃなかった。
行動ではなく頭の中身が、だ。
育ち盛りの思春期の子供でもなければ、女の子と付き合った経験がないわけでもないのに、とにかく四六時中、あいつのことが頭から離れなかった。
そんな自分を戒め、仕事への集中力をどうにか引きもどしても、得意先の会社にはあいつと似た背格好の若いビジネスマンたちがたくさんいるし、簡単に元の木阿弥に戻った。
今までですら、働き盛りの彼らを見るたびに『あいつも働きすぎたりしていないかな』なんて考えていたというのに、土岐のことに取り憑かれているこの状態では連想するなというほうが無理で、あの柔らかい唇のラインとか、日焼けしていない襟足とか、褒められたものではない方向へと記憶が際限なく集まってしまっていた。
それでも日中は身体をめいっぱい動かしているから何とかなっても、これがアパートに帰ったあとだとそうも行かず、いよいよ困る日々がずっと続いていた。
でもまあ、これも今夜でおしまいのはず。
現実のあいつに触れてしまえば、よけいな妄想は削ぎ落とされるだろう。
今までの女の子との恋愛もそうだったけど、手に入れていないあいだは想像が無限に広がって始末に負えないのだということは、自分でもよく分かっていた。
トラックの運転席に座りながら、今朝から何十回となくチェックした時計を見ると、昼の一時を指していた。
あと数時間であいつと逢える。そう思うと、集荷済みの伝票をまとめながらも顔が緩んでしまう。間抜け面を通行人に見られてはヤバいと、あわてて顎を引き締めた。
お互い忙しいから、めったに携帯電話で連絡も取らないし、約束の時間も細かく決めていない。でも休みの前に逢うときは、あいつは大抵夜の十時までには俺のアパートに現れる。だから今日もそれくらいかな。
夕飯は食べて来るだろうから、俺も早めに何か摂っておこう。
遠足を楽しみにしている小学生さながら、俺は明るい心を抱えつつトラックのアクセルを踏んだ。
※ ※ ※
集荷センターに帰ったのは夜の九時過ぎで、配送と集荷済みの伝票をまず事務の人に預けてから、受け取り先が不在だった荷物をいったんトラックから下ろした。明日出勤する仲間が、俺の代わりに届けてくれる手筈になっている。
「お疲れさん」という挨拶を同僚と交わした後で、自分の車で家まで帰った。
アパートでメシを適当に食い、風呂に入ってからは、じっと座っていられないほど落ち着かなくなかった。
いざ直前となると、かえってそわそわしてしまう。適当に部屋の中を片付けたり、通販で買っておいた品を取り出したりしていたが、心臓は強めに打ちっぱなしだ。
こんなに緊張するのは、中学生のときに同級生のかわいい女子に呼びだされたときとか、受験のとき以来かも。
何といってもずっと待っていた相手だし、初めての男同士というのもあるし。
何より最大の悩みは、どういうふうに自然な流れに持って行こうかということだった。
傍から見たら笑われてしまうだろうが、俺にとっては真剣な問題だ。「今日」と決めているとはいえ、逢っていきなりベッドではデリカシーがないし、かといっていつまでも手を出さないのも白々しい。
女の子とのときは、ここまで苦労した記憶はないんだよなあ……
異性同士の暗黙の了解みたいなものがちゃんとあって、会う機会を何度か重ねたころに、もうそろそろかなと見計らってからそういう状況に持ち込んでいた。
その駆け引きも恋愛の楽しみのひとつだと思うんだけども、今回は勝手が違う。仕事みたいに日取りをきっちり定めているのだ。
こっちとしては空気を深読みしなくて良いぶん手間が省けたとも言えるけれど、何だか直截的すぎて、男同士ってどこもこんなものなんだろうか、と考えたりしてしまう。
いやきっとそうではなくて、あいつ相手だからに違いない。
ああもう、何なんだよ、今の俺は。
ハタチもとっくに過ぎた男が、こんなことばかり考えてどうする。
我に返った俺はひとり苦笑しながら、新聞でTV欄をチェックし、バラエティー番組でも見ようかとリモコンを取り上げた。
そのとき玄関のチャイムが鳴り、俺は右手のそれを取り落としそうになった。
あいつだ!
床に置いた新聞を踏んづけて滑りそうになりながらも、数歩で玄関に辿り着いて鍵を開けた。
やはり、土岐だった。
薄手のコートを着て、下はダークスーツのまま。いつも休みの前は疲れているとはいえ、今日は特に生気が感じられないのが少し気になった。
土岐は何も言わず、俺が鍵を閉めたのを確かめてからビジネスバッグを床に置いて、抱きついて来る。俺も逆らわずに肩を抱いた。
なぜだか知らないが、こいつはここに来るたびに必ずこうやってこちらの懐に収まる。
俺の身体がでかいから、親に抱かれる子供同様に安心するのかも知れない。
しばらくそうしていると気が済んだか、土岐は身を起こし、バッグから紙袋を取って差し出した。
――なんだ、これ?
俺にくれる物なのか、それとも本人のオヤツ類なのかが判らない。
包みを観察して面食らっているあいだに土岐はさっさとリビングに入ってコートをハンガーに掛け、風呂に入ると短く言い置いてバスルームに消えた。
困ったのは俺だ。
紙袋の大きさからしてどうも食べ物とも思えないし、何かのお土産やプレゼントにしちゃ包装が簡単すぎる。
マチ付きの袋は上部を折っているだけでシールやセロハンテープの封もされておらず、いちおう開けて覗いてみた。
中は白い小箱が二つ。どっちもペンケースくらいの大きさだ。重さを片手で量ってみたが、割れ物ではないみたいだ。まあとりあえずテーブルの上に置いておけば大丈夫だろうと、転げないようにちゃんとこたつ机に乗せた。
ホットカーペットの上に胡坐をかくと、バスルームから遠い水音が聞こえる。
馬鹿かと自分を叱っても、耳がそっちに集中してしまうのはどうしようもない。TVの音量を高くして冷静になろうと努めたが、ふと素朴な疑問が頭をもたげた。
俺、これまでずっとあいつを抱く気でいたけれど、あいつはどういうつもりなんだろうか、と。
――おい、今さらになってこれはないぞ。
体格差で言っても、先週の問答からしても、俺はその側だろうとすっかり思い込んでいた。
だけどあいつだって同じ男なんだから納得しない可能性も充分にある。
万一そうだとしたら――複雑な気分になってしまうのは否めない。
TVを眺めるのも忘れて、俺は腕を組んだ。
ネットによると、世の中の同性同士の人々は、特に役目に拘らない人もいれば、ひとつの役目の方が得手という人もいるらしい。
そこには体格や顔云々という外見よりも、各人のメンタリティ等によって決まる場合が多いようで、なるほどなあと勉強になったものだ。
でも初心者の俺たちは自分で自分のことを把握できているという、そういう段階まではもちろん至っていないわけで。
……となると、これはやっぱり、土岐本人と話し合うしか手はないか。あいつの意志を無視するわけには行かないし。
何てこった、自然な流れに持ち込む以前の、一番肝心な問題じゃないか。
先のことばかり考えて、根本的なことが抜け落ちていた。
俺は脱力してホットカーペットの上に寝転がり、大の字になった。土岐はカラスの行水だから、もうそろそろ出て来るはず。このさい情緒だとかデリカシーだとかそんなものは後回しにして、どっちがいいかを真面目に訊くしかない。そう思って待つことにした。
ところが、土岐はいつまで経っても風呂から上がって来なかった。
時計を見ると、あいつが到着してからすでに半時間以上が経過している。
これまでの経験からしても、二十分以内にはバスルームから出て来る奴だ。だのにこんなに音沙汰がないなんて、ひょっとして倒れているんじゃないかという悪い想像にかられ、俺は急いで風呂場に行き、擦りガラス越しに中をうかがった。
洗い場には人影が見当たらず、倒れてはいなさそうだ。ひとまず安心した。もう浴槽に入っているんだろう。
俺は、控え目に声を掛けることにした。
「秀司?」
返答はない。聞こえなかったのかなと思い、もっと声を大きくして続けた。
「あのさ、いくら風呂に浸かってもいいけど、あんまり入ってるとのぼせるぞ」
まだ返答はない。
この声量で中に届かないなんてことはない。無愛想なこいつのこと、わざと無視しているのか?
それにしても返事のひとつふたつ、よこしても良さそうなもんだ。
やっぱり身体の調子でも悪いんだろうか。
「おい、どうしたんだ、気分でも悪いのか。入るぞ」
適当に断ってドアを開けると、何と土岐は、風呂の中で寝ていた。
縁に頭をもたせかけて、完全に熟睡している。普通なら温かいはずの蒸気も大分冷めていて、浴槽に手を浸すと案の定ぬるま湯になっている。いつまでも待っていたままだったら温度は下がる一方で、こいつに風邪を引かせるところだった。
俺は裸の肩に手を置いて、そっと揺さぶった。
「おい、秀司」
脅かさないよう、低い声でささやく。
振動の合間に、土岐はゆっくりと瞳を開いて、俺を見上げた。
風呂の前にこいつは使い捨てのコンタクトを捨てる。眼鏡もしていない今の状態では、俺の顔すらもはっきりとは捉えられないからか、きょとんと数度瞬きしてから、いぶかしげに首を傾げる。
「ここで寝てたんだよ。風邪引くぞ」
「あ……」
ぼんやりしていた表情が完全に覚醒して、視線の焦点もはっきりとして来た。
「ほら上がれよ、髪も洗ってるんだろ?」
「………」
まだ腑に落ちないような顔をしている土岐だったが、俺がバスタオルを取ってやると受け取った。
風呂場のドアを閉めると、洗い場でちゃんと身体を拭いている。動きがさっきよりもしっかりしてきた。
「俺、外にいるからさ。服着たら言えよ、髪乾かしてやるから」
「ん……」
廊下で待っていたら、風呂場のドアの開閉音がした。少しして、脱衣所のドアノブがガチャリと下りる。中に入ると、黒のインナーシャツにスウェットズボンを着こんだ土岐が濡れた髪のまま突っ立っていた。
こうなるとこいつの世話に気を取られてしまい、さっきまであんなにぐるぐるしていた悩みはどこかへ吹き飛んでいた。俺は保護者みたいにせかせかとドライヤーのコードを引いてスイッチを入れた。
土岐は俺が湿った髪を掻き混ぜながら温風に当てているあいだも、されるがまま。何度も大あくびを噛み殺している。
こりゃ、立ったまま居眠りしかねないぞ。
眠すぎるせいか俺が髪を乾かして、着せ替え人形のように上のスウェットを着せても文句も言われなかったのは幸いだった。
麦茶で水分を補給させてベッドに連れて行くと、風呂ののぼせと日頃の疲れの相乗効果で、土岐はあっという間に寝入ってしまった。
一連の作業が無事終わってから、俺は大事に至らなかったことにやれやれと安心したが、それが落ち着くと訪れたのは、空回りしていた自分への虚しさと自嘲だった。
なにやってたんだろうな、俺は……
約束したからといって、お互い社会人だし、必ず叶うと決まっているわけじゃない。
こいつはこの一週間、俺と逢う時間を作るために頑張って、休出までした。相当に無理をしたんだと思う。そこまですれば、体力がなくなって当然じゃないか?
なのに何をがっかりしているんだよ、俺は。
土岐は一生懸命働いてここに来てくれた、それだけで充分だってのに。
モヤモヤと落ちこんでいる自分がどうしようもなく情けなくて、俺は外でしばらく散歩することにした。
今日も土岐にベッドを譲って、こっちは床に布団を敷いて寝るにせよ、頭を冷やして切り換えないと眠れそうになかった。
ぐっすり寝ている土岐を起こさないよう、俺は音を立てずにジーンズとパーカーに着替えて電気を消し、アパートを出た。
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