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アパート前の歩道に出て携帯電話を確かめたら、夜の十一時になってた。
ここから歩いて十分もしない場所にコンビニがある。そこで雑誌でも漁って帰ろう。俺はぽつぽつと歩きはじめた。
そういやペットボトルの茶も切れかけていたし、食パンもなかったっけな。立ち読みだけは良心が咎めるし、買う物があるのは助かる。
そろそろ春が近いとはいっても、夜になるとぐんと冷えこむ。厚手のトレーナーだけじゃ首が寒くて、ポケットに両手を入れて両肩をすくめた。コートでも羽織って来ればよかったかな。ちょっと後悔しちまったけど、引き返すのも面倒だし、あいつを起こしてしまうのも嫌だし、まあいいやと先を急いだ。
都内だけど下町の住宅街はこの時間帯だとあまり人通りもなくて、幹線道路から離れているから車の音もうるさくない。仕事帰りっぽいスーツの中年男性とたまにすれ違うくらいだ。
マンションや戸建ての塀の向こうではあちこちの窓に照明が灯っていて、外を照らしている。テレビでよく見る、シチューやスープのCMそのまんまの光景だ。きっと部屋の中はあったかいんだろうな、なんてうらやましくなりながら息をほうっと吐くと、白い霧が消えた。
月もぽっかりと空に浮かんで、雲の影も見当たらない。この分だと明日の朝も冷えそうだ。
そんなとりとめもないことをつらつらと思っているうちに、歩道の脇にコンビニが見えてきた。駐車場には夜遊びの兄ちゃんの派手な車が一台停まっている。友達と待ち合わせだろう。
もうそんな遅い時間かとしみじみしながら自動ドアをくぐって中に入った。
雑誌コーナーで適当に漫画を開いたものの、買いたいほど面白いものがなくて食品の方へ向かった。
まず茶のペットボトルと、食パン。それからつまみだとか、ビールも少々。
買い忘れがないか確かめてから、冷凍庫の前に立った。あいつと付き合ってからの習慣になっている、冷菓選び。風呂でのぼせたから明日は朝からアイスを欲しがるかもしれない。食べやすいバー型のアイスセットを選んで、レジに持って行った。
携帯電話で金を払って外に出ると、例の派手な車はどこにもいなかった。そうだ、アイスを探してるときにエンジンの爆音がしてたっけ。
歩道に入って、同じ道を逆に戻りはじめた。さっきまで見ていた空は相変わらず月が綺麗で、足を止めた。
俺がいつも仕事で走ってる界隈は高層ビルばかり。不夜城が空を埋めてて、星明かりなんて届きやしない。でもここいらだと夜はそれなりに空が近くなる。心が洗われるってのは、このことを言うんだろう。夜空をしばらく眺めて息を吐いたあとで、またアパートへの帰り道を進んでいった。
――この一週間、俺はひたすら今日のことを思ってきた。
身体のことだけ考えてたのかと訊かれても、反論はできない。
だけどそこに心はないのかとさらに訊かれたら、それは違うと言い切れる。
好きだから、あいつの全部が欲しいんだ。
言葉で好きだと伝えることはもちろんできる。でも、それじゃ足りない。もどかしい。俺の全部を使って、好きだって伝えたいんだ。
秀司との距離を、少しでも縮めたい。もっと近付きたい。
あいつを思い浮かべるたびにどうしようもなく抱き締めたくなるし、俺の傍で笑っていてほしい。俺の名前をあの声で呼んで、甘えてほしい。
ただ、それだけなんだ。
今日、そうなれればと思ってたけど、こればかりは仕方ない。風呂で寝ちまうほど疲れてるんだし、休ませなきゃ。
俺はこれまで、気になった女の子たちとはすんなりと彼氏彼女の関係になれた。わりとスムーズに寝てもきた。それが大人の付き合い方なんだと勝手に思いこんで、うぬぼれていた。
でも秀司と知り合って好きになってからは、まだまだ本気の恋愛を知らないお子様だったなと思う。
まさか同性の男、それも顧客のひとりにここまで真剣に惚れて、あれかこれかと相手の気持ちを推測して立ち止まったり悩んだりする日が来るなんて、想像もしてなかった。
寒い夜空と往復二十分という時間のおかげで、心はだいぶ整理されて落ち着いていた。
アパートの階段を上るころにはすっかり修行僧みたいに悟りを開いてて、ビールを一杯飲んでから寝るぞという前向きな気になってたくらいだ。
それが鍵を回して玄関を開けると、リビングの扉から明かりが漏れていた。ちゃんと出る前に消してあったはずなのに、土岐が目を覚ましたんだろうか。
靴を脱いでリビングに入ったら、土岐はベッドの上で枕を背にして座っていた。おかえりという挨拶もなく、ただ黙りこくっている。
「どうした、喉が渇いたのか。茶なら買ってきたぞ」
ポリ袋からビールとペットボトルを出して冷蔵庫に、アイスを冷凍庫に放りこんでから向き直っても、土岐は一言も喋ろうとしない。
無地のスウェットを着たまま、怯えたような、頼りない目つきでこちらを見つめてくる。予備の眼鏡をここに置きっぱなしにしているのに掛けてないし、見えにくいからかな。それとも悪い夢でも見ちまったのかな……?
俺はベッドに腰を下ろして頭を撫でてやった。風呂から出たときの顔の赤みは引いていたが、寂しそうな表情が気掛かりだ。
「眠いだろ、寝ろよ。明日は朝寝坊してもいいから」
言い聞かせても、土岐は部屋着じゃなくて外出着になっている俺の格好を見てうつむき、パーカーの袖を弄る。
「どこに行ってたんだ」
「いつものコンビニだよ、買い出しを忘れてたんだ」
明るい声で教えても、こいつの顔の曇りは全然晴れない。
戸惑っているあいだに、土岐が『怒っているのか』と訊ねてきて、いきなり何を言っているんだかと俺はびっくりした。俺、そんなに不機嫌そうにしてたか? 心当たりはないんだけどな。
「怒る? そんなわけないだろ、だいたい何に怒るっていうんだ」
「俺、寝てしまったから……」
ああ、そういうことか。
悟りモードに入っていた俺はすぐには判らなくて、土岐はそのことをかなり済まなく思っているらしいとやっと察せた。
「疲れてるんだから、気にしてないさ。それより布団に入らないと風邪引くぞ。いつから起きてたんだ」
「十分くらい前……起きたらお前がいなくて、部屋を探したけど、どこにも居なくて……」
だとすると、俺がコンビニに着いたころに目を覚ましていたことになる。その間、ずっと待っていたんだろうか。書き置きも残してなかったから、いつ帰って来るかも判らなかったろうに。
こっちはもちろんそんなつもりはなかったけど、俺が寝てしまった土岐に腹を立ててアパートから出て行ったと考えてたのなら、寂しがり屋で自分に自信のないこいつが独りで部屋に取り残されて、どんな思いで待っていただろう。想像するだけで胸が詰まる。
申し訳なくて、両腕を伸ばして土岐を懐に閉じ込めると、こいつも俺の肩口に頬を乗せた。
「何も言わずに出て行って悪かった、不安にさせたな」
「………」
首が左右に振られた。
「ごめん……隆……寝てしまって」
「いいって。それよりアイスでも食うか? 新しいの買ってきたぞ」
いつもならすぐに飛びつく好物の名前を聞いても、土岐は欲しいと答えない。
その代わりというか、それまでは軽くもたれる程度だったのが、俺に強く縋ってくる。体重移動の動きに、セミダブルのベッドが軋んだ。こっちも受け止めざるを得ず、俺はベッドにより深く腰掛けた。
そうすると土岐も一緒について来る。
おい、ちょっと待て。ひょっとしてこれって。
「待てよ秀司、あんた寝た方がいいんじゃ――」
その気が完全に失せている場合、こういう展開に出くわすと逆にあたふたしてしまう。気持ちも身体も完全に切り換わっていた俺は据え膳に手を伸ばそうとはせず、なおも野暮な説得と抵抗を試みようとした。
「大丈夫なのか、疲れてるんだろ」
「疲れてない」
「俺のことなら気を遣うなよ、休みは今日だけってわけじゃないし」
「……いやか?」
震える声が、抱きつかれている胸に直接響いた。
土岐の顔を上げさせると、勇気を振り絞っているのが痛いほどに現れていた。
同じ男だから、怒っているから、土壇場で拒絶されている――そう考えているのがありありと読みとれる。
そんなこと、少しも思ってやしないのに。俺がこいつを好きな気持ちは、その程度で消えてなくなったりしないのに。安心させるために、俺はごくゆっくりと土岐の頭を掌で撫でた。
「いやなわけないだろ……俺は、あんたの体調が心配なだけなんだ。今日は寝たほうがいいって」
噛んで含めるように説得しても、土岐は顔を歪めて『いやだ』と拒むなり、キスしてきた。
俺は驚いて、あやうく腰を抜かしそうになった。
こいつから積極的にキスされるのは初めてだったから。
「……隆……」
土岐は泣きそうな顔で、頬を真っ赤にして、かすれた声で俺を呼んだ。
――畜生。せっかく悟りを開くところまで行ってたのに。こいつは俺のなけなしの理性をいともたやすく引っくり返してしまった。
たった一回のキスで、俺の名前を呼んだその声で。
勢いに力を借りて土岐の両肩を掴み、身体を逆転させてベッドに組み敷いた。
俺の方から深くキスすると、背に腕がつよく回る。舌も俺に絡んで、こいつの意志をさらにはっきりと伝えてくる。
「……止めるって言っても、もう聞いてやれないからな。抱いちまうぞ」
肩のそばに両手を突いて顔を見下ろし、こちらが抱く側になると宣言しても、土岐はためらいもせず、こっくりと頷いた。
「お前なら、いい」
この短い返答で、引っくり返されても砂粒程度には残っていた俺の理性は、完全に吹き飛んでなくなってしまった。
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